天正十年(1582年)6月2日未明、本能寺で織田信長が明智光秀に襲撃され、自害へ追い込まれた。
本能寺の変で注目されやすいのは「なぜ光秀は信長を討ったのか?」という動機であるが、他にも気になることはないだろうか?
例えば……。
なぜ信長は少人数で本能寺に泊まっていたのか。
嫡男の織田信忠まで同じ京都に滞在していたのはなぜなのか。
光秀はどのように軍勢を動かし、信長父子を討ったのか。
要は、事件当日の彼らが実際にどう動いていたのか、意外と置き去りにされがちである。

織田信長/wikimedia commons
本記事では、織田信長、織田信忠、明智光秀の3名にスポットを当て、当日の流れを振り返ってみたい。
なぜ信長はわずかな家臣と共にいたのか
そもそも、なぜ信長は身の回りの家臣だけで本能寺に泊まったのか。
信長がそれまで常宿としていたのは、妙覚寺や自ら建てた二条御新造だった。
しかし二条御新造は天正七年(1579年)、正親町天皇(おうぎまち)の皇子である誠仁親王(さねひと)へ献上。

誠仁親王/wikimedia commons
そのため信長は、天正八年(1580年)2月、京都所司代の村井貞勝に命じ、本能寺を使えるように改修させたという。
本能寺と聞くと、一般的なお寺を思い浮かべるかもしれない。
しかし実際は、周囲の民家を退去させ、堀や土居をめぐらし、厩(うまや)も備え、寺というより小規模な軍事拠点だった。
問題は、信長の身辺にいたのが小姓や近習ら限られた人数だったことだろう。
せめて1000、2000の兵と共にいれば、どこかへ逃げるなり、数日間の籠城で粘るなりして、自害へ追い込まれることもなかったのでは?
そんな風にも考えてしまうが、天正十年(1582年)の織田家の敵といえば、遠く離れた各地方にいるのが基本であり、京都中心部へ攻められる状況など、まず想定できない。
そこに突如現れたのが13,000の明智軍だった。
明智軍は、なぜ大軍を率いて京都へ進軍できたのか?
丹波から西へ向かわず
明智光秀は天正十年(1582年)5月26日、坂本城から丹波亀山城へ移動。
翌27日には愛宕山に参籠し、28日には連歌会を開いた。このとき詠んだとされるのが、よく知られる次の一句である。
ときは今 あめが下しる 五月かな
「とき」は光秀の出自とされる土岐氏に通じ、「あめが下しる」は「天下を治める」とも読める。
そのためこの句は「今こそ光秀が天下を取る」という謀反の決意を示したものだ、と解釈されたりもした。
ただし、あくまで俗説であり、史実とは認定されていない。
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愛宕百韻 ときは今 あめが下知る 五月かな|本能寺前に光秀が詠んだ真意は?
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一方で、6月1日の夜、光秀が軍勢を動かしたことは事実である。
中国方面へ向かう援軍であれば、丹波から西へ進むのが自然だ。
しかし光秀は、馬を東へ向けると、老ノ坂を越えるルートを通り(唐櫃越え説もあり)、兵たちの中には、徳川家康を討つのだと思っていた者もいたとされる。
少なくとも、信長を討つという真意が軍全体に共有されていたわけではなかったのだろう。
中国方面へ向かうはずの軍勢は、京都へ進路を変えると、

明智光秀/wikimedia commons
夜明け前、京都の本能寺へ迫っていった。
「敵は本能寺にあり」は後世の名台詞
光秀が意を決し、本能寺へ攻めかかる直前、必ず出てくるセリフがこれ。
敵は本能寺にあり!
劇的でインパクトがあり、いかにも象徴的な言葉だが、残念ながら同時代の史料にはまったく見えず、史実とは言い難い。
後世の軍記物やフィクション作品で好んで使われているうちに、定着しただけであろう。
いざ明智軍が本能寺を囲むと、信長は当初、下々の者たちの喧嘩か何かだと思ったと伝わる。
しかし小姓の森成利(森蘭丸)が「明智の軍勢です」と告げると、信長はこう応じたという。
是非に及ばず

絵・富永商太
こちらの言葉は『信長公記』に掲載されていて、よく「仕方がない」といった意味で訳される。
むろん逃げ場のない絶体絶命の場面である。
しかし「是非に及ばず」は、単なる諦めの言葉というより、
「もはや善し悪しを論じる段階ではない」
「今さら詮議しても始まらない」
といった響きを持つ表現と考えた方が自然であろう。
信長は、光秀の謀反を知って驚きながらも、すぐに事態を把握したのだろう。
弓を取り、槍を持って、明智勢に応戦。
しかし所詮は多勢に無勢であり……信長は肘に傷を負い、女房衆を逃がしたうえで御殿の奥へ退くと、火が放たれる中で自害した。
享年49。
織田政権が全国統一へ大きく近づいていた局面での死であった。
しかし、ここで見落としてはならない人物がいる。
織田信忠である。
信忠はなぜ京都にいたのか
本能寺の変は、信長だけが討たれた事件ではない。
信長から家督を譲られていた嫡男・織田信忠もまた、この日に京都で命を落としたのだが、これこそが織田政権にとって致命傷となっている。
一体なぜか?
すでに信長から信忠へ家督は引き継がれており、仮に信長が死んでも残された重臣たちで信忠を支えていけばよいだけ。
明智光秀に信長一人を倒されたところで、信忠が生き残っていれば政権が転覆させられるようなダメージにはならない。
つまり光秀にしてみれば、信長が少数の供回りで本能寺に入り、後継者の信忠も大軍を率いないまま京都にいた――そのこと自体がきわめて特殊な状況だった。

織田信忠/wikimedia commons
ではなぜ、信長だけでなく、織田信忠まで京都にいたのか?
発端は徳川家康の饗応である。
天正十年(1582年)5月、武田氏滅亡後の祝賀も兼ねて、家康は安土で信長のもてなしを受けた。
その後、家康は京都を経て堺見物へ向かう予定であり、信忠もまた、その流れで在京していたのだが、信長が中国方面へ出陣することになったため、堺見物には同行せず、京都に残った。
父・信長を迎えるためだったのだろう。
信忠はこのとき妙覚寺に滞在していた。
大軍を率いていたわけではなく、急報を受けて近臣や馬廻衆らが集まっていくことになる。
本能寺からさほど離れていない場所であり、光秀にとっては、信長と後継者の信忠を同時に討つことが可能な状況だった。
二条御所で信忠も討たれる
本能寺襲撃の知らせを受けた織田信忠は、当初、信長のもとへ向かおうとした。
しかし、本能寺はすでに危うい、あるいは落ちたとの報が入り、京都奉行の村井貞勝父子らと共に二条御所へ向かった。
二条御所とは、かつて信長が築いた二条御新造のことであり、この時点では誠仁親王(さねひとしんのう)一家の御所となっていた。
まずは、誠仁親王や若宮、公家たちを内裏へ避難させねばならない――。
そのため攻め込んできた明智軍との交渉を持ち、親王一家や公家たちは正親町天皇の御所へと退避させる。
そして二条御所で織田信忠軍と明智軍の戦いが始まった。
信忠のもとには、村井貞勝父子や菅屋長頼ら近臣や馬廻衆が集まり、防戦に努める。
善戦だったとも伝わる。

『真書太閤記 本能寺焼討之図』(渡辺延一作)/wikipediaより引用
しかし、結局は数で勝る明智軍に圧倒され、北隣にあった近衛前久邸の屋上から弓や鉄砲での攻撃も加えられていく。
やがて御所にも火がかかり、もはやこれまで……。
そう悟った信忠は自害して果てた。
享年26。
本能寺で信長が自刃し、二条御所で信忠も自害、織田信長父子の同日死によって、織田政権は一気に中枢を失う。
そして後に天下の勢力図を一変させる凶事となったのは、信長だけでなく後継者の信忠まで討たれたからだった。
★
権力の頂点にいた人物が側近に攻め込まれて殺害――。
本能寺の変は、そうしたクーデター事件にとどまらず、権力者の後継者まで同日に討ち取るという劇的な展開となったため、日本史上でも最大級の事件になったと言える。
なお、光秀の動機については数十の説があり、以下の記事にまとまっている。よろしければ、併せてご覧いただきたい。
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なぜ光秀は信長を裏切ったのか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説
続きを見る
参考文献
- 太田牛一著/中川太古訳『地図と読む 現代語訳 信長公記』(2019年9月 KADOKAWA)
- 岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣出版)
- 谷口克広『織田信長合戦全録 桶狭間から本能寺まで』(2002年1月 中央公論新社)
- 池上裕子『織田信長』(2012年12月 吉川弘文館・人物叢書)
- 日本史史料研究会編『信長研究の最前線 「革新者」の実像』(2014年9月 洋泉社)
- 日本史史料研究会監修/渡邊大門編『信長軍の合戦史 1560-1582』(2016年7月 吉川弘文館)
- 和田裕弘『信長公記 戦国覇者の一級史料』(2018年8月 中央公論新社)
【TOP画像】左から織田信忠・織田信長・明智光秀/wikimedia commons


