大河ドラマ『豊臣兄弟』の御前試合で奉行を任された武田佐吉(左吉)は、果たして実在する人物だったのか。
これまでのフィクションでは、ほとんど注目されることのなかった佐吉を史実面から振り返ります。
槍の御前試合は開催された?
武田佐吉が取り仕切っていた槍の御前試合。
そもそも織田信長は、あのような武芸大会を開催していたのか?
というと答えは半分YESと言ったところでしょう。
『信長公記』には、相撲大会が何度も開催されたことが記されていて、1500人もの参加者を集めた一大イベントもあったほど。
このときは織田信長の側近として名高い堀秀政や、娘婿の蒲生氏郷らも信長の前で相撲を披露しています。
👉️別記事「安土の相撲大会に1,500人の力士が参加」
信長がこうした武芸大会を好んでいたのは間違いないでしょう。

織田信長/wikipediaより引用
ただし『信長公記』には、槍や刀あるいは弓の腕前を競う武芸大会は見られません。
特に、ドラマのように竹柵で取り囲み、参加者を逃さないようにするような闘技場は、まるで何でもアリの格闘技「バーリ・トゥード」のようでもあり、戦国時代には考えにくいことかと思われます。
あのようなルールでは怪我の危険度も高く、自軍の家臣にはとてもやらせられないのでは?
「剣豪たちがトーナメントで競い合う御前試合」は、江戸時代の講談あるいは現代の漫画作品でも人気が高いので、そうした要素を取り入れたのかもしれません。
ということで、武田佐吉が槍の御前試合を取り仕切っていたというのは創作と見てよいでしょう。
ただし、だからといって武田佐吉が存在していない、というわけではありません。
『信長公記』をはじめ、わずかながら事績が記されています。
山城の所領問題に絡んで
武田佐吉は主に「信長の直轄領」で「代官」を務めていました。
信長の直轄領とは、信長の所領という意味であり、織田家の支配領域の様々な場所に点在。
大名ともなれば、それはそれは大きな範囲となりますから、一々、自分の所領をぜんぶ見に行ったり、ましてや管理などできません。
そこで自身の家臣を派遣して、年貢の取り立てや安全の確保などの職務に就かせるのです。

では、武田佐吉はどこの所領で代官をしていたのか?
永禄五年(1562年)、桑原家次・奥山秀倡・池山信勝という者たちと共に尾張の密蔵院領で代官に就いていた記録が残されています。
その15年後、天正五年(1577年)には、山城で武田佐吉と林高兵衛と長坂助一と共に同職に就いていました。
しかもこのときは、堀秀政からの書状に三名の名が残されていて、今も以下のページ(PDF)からご覧になることが!
◆「狛文書の概要」京都府教育委員会
「狛文書」とは、南山城の国衆だった狛氏に関連した書状群であり、その内容は権利のややこしい土地問題です。
本題から外れてしまいますので、詳細は上記ページよりご確認お願いします。
非常に生々しい“歴史”が感じられると思います。
石清水八幡宮を修築工事
佐吉は、山城でも滞りなく仕事をこなしていたのでしょう。
2年後の天正七年(1579年)12月10日頃には、信長から石清水八幡宮の修築を命じられています。
なんでも本殿と前殿の間にある木製の樋(とい)が腐って水が漏れてしまい、社殿自体が朽ち果てそうだったため、「青銅の樋で直せ」と言われたのだとか。
佐吉だけでなく、このときも林高兵衛と長坂助一と共に三名が任命されています。
ちなみに、この工事の命令を出した直後、荒木村重の妻子たちが処刑されていて、佐吉のような代官とは全く異なる歴史の流れを感じさせられます。
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本能寺の変後は、信長の次男である織田信雄に仕え、合計1850貫文の土地を得ていますが、その後の詳細は不明。
同じく織田家の家臣であった加藤順盛の娘を妻とし、子がなかったため下方弥三郎の弟を養子にしたという記録が『武家事紀』に残されています。
何事も派手な織田家にあって、武田佐吉はどんな思いで代官職に就いていたのか。その手記が読みたくなります。
◆『豊臣兄弟』総合ガイド|秀吉と秀長の生涯・家臣団・政権運営等の解説
参考書籍
京都府教育委員会「狛文書の概要」
太田 牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(2010年10月 吉川弘文館)
【TOP画像・本文イラスト】小久ヒロ
