古田織部(古田重然)

古田織部(古田重然)/wikipediaより引用

織田家 豊臣兄弟

美濃の戦国武将・古田織部(重然)73年の生涯・信長や秀吉に仕えた『へうげもの』

慶長二十年(1615年)6月11日は戦国武将の古田織部古田重然)が亡くなった日です。

この方については武将というより茶人とか数寄者といった表現のほうが馴染み深いかもしれませんね。

そう、漫画『へうげもの』で尋常ではないコレクター魂を見せつけ、「はにゃぁ」「ヌヒャア」と戦国ファンの度肝を抜いた、あの織部はんなのです。

元々は織田信長に使えた武将であり、荒木村重の謀反に際しては、配下の中川清秀を織田方に引き戻すなどの功績も。

そうかと思えば、千利休の高弟7名を示す「利休七哲」に数えられたり、自由で掴みどころのないキャラが大いに魅力的ですが、果たして史実ではどんな人物だったのか?

本記事で、古田織部の生涯を振り返ってみましょう。

利休七哲……蒲生氏郷細川忠興、古田重然、芝山宗綱、瀬田正忠、高山長房、牧村利貞

利休十哲……上記メンバーに織田有楽斎、千道安、荒木村重が加わる

 


40歳ごろに茶会へ初参加の遅咲き茶人!?

古田織部(重然)は1543年、美濃の武家に生まれました。

父・重正のお兄さん(重然にとっては伯父さん)が美濃山口城の主だったので、それなりに身分のある家だったのですね。

重正は茶人としても有名な人だったようで、重然もその薫陶を受けて育った……と言いたいところですが、この辺は諸説入り乱れています。

理由は、重然が茶会に参加した最初の記録。

天正十一年(1583年)で40歳頃だったのです。

若い頃から茶道に親しんでいたのなら、もっと早くからそれらしき記録があるはずですよね。

むろん、記録が散逸した可能性もなくはないですし、「茶会なんてしょっちゅうやってるんだからいちいち記録しなくておk」と思っていたかもしれませんが、この辺は新たな史料が見つからない限り微妙なところでしょう。

そんなわけで、何歳ごろに茶道と出会ったのかは不明ながら、織田家に仕え始めた時期はわかっています。

信長が美濃に入ったあたり=永禄九年(1567年)ぐらいのことで、それから二年後には信長の家臣・中川清秀の妹を正室にもらっています。

中川清秀/wikipediaより引用

比較的早くから織田家に腰を据えるつもりでいたのでしょう。

 


利休に心酔し、追放時には見送りに出向くほど

当初は少禄だったからか。

織田信長との逸話はほとんどありません。

織田信長/wikipediaより引用

ただ織田家の中では、代官や説得の使者を務めたり、要所要所の戦に出陣しているので、信頼は上々だったと思われます。

義兄である清秀が荒木村重に従って信長と敵対したときにも、使者に立って清秀を帰参させています。

日頃から義兄弟仲がいいほうだったんでしょうね。

そのためか、賤ヶ岳の戦いで清秀が討ち死にした後、その長男である秀政の後見役を引き受けています。

秀政はこのとき15歳でしたから、義理とはいえ叔父がついていてくれたのは心強かったのではないでしょうか。

秀吉が紀州や四国を攻めたときにも一緒に行っていたそうですし。

そして、この間に千利休と出会い、深く感銘を受けて後に「利休七哲」の一人とされるほどの見識を身につけるようになっていきました。

長谷川等伯が描いた千利休像/wikipediaより引用

利休と秀吉の仲がこじれて、利休がまず追放になったとき、見送りに行ったのは古田織部(重然)と細川忠興だけだったそうです。

「七哲のあと五人はどうした?」

そうツッコミたくなってきますが、そもそもこれはずっと後につけられた呼称なので仕方ありません。

ちなみに「七哲」筆頭とされる蒲生氏郷は、見送りに行かなかったことを悔やみ、利休の息子を一時期かくまっています。

たぶん他の人も後悔しいてたのでしょうね。

 


氏郷の茶道を絶賛し、重然の美的センスを褒めていた

利休は、氏郷のことを茶道の弟子として絶賛し、古田織部(重然)については美的センスを褒めていました。

織部が花を入れる籠を直に置いているのを見て、利休が

「これいいね! 皆、籠を薄板の上に置くけど、何かしっくりこなかったんだ……私も今度からこうするよ!」(超訳)

と言ったという話があります。

一般人にはわかるようなわからないような話ですが、お茶を習うとこの意味が飲み込めますかね。

古田織部(重然)はそのセンスを活かして各分野の職人を指導し「織部好み」という流派ができました。

「織部焼」がその代表例でしょう。

織部焼「織部獅子鈕香炉 慶長17年(1612年)」/wikipediaより引用

また、利休という人は厳格な精神を持っている一方で、「一風変わったものを好む」という独自の価値観がありました。

例えば、忠興への形見として残したものの中に「ゆがみ」という名の茶杓があります。

名前の通り意図的に歪ませた形の茶杓なのですが、おそらくは「曲がったものは良くないとされるが、それはそれで美しさがある」という意図も含まれていたのでしょう。

一方、古田織部(重然)へは「なみだ」という名前のまっすぐな茶杓を残しています。

「君の創意工夫やひねくれ具合は素晴らしいが、たまには涙をこぼすくらいの素直さ、まっすぐな気持ちを忘れるな」

そんな教えだったのかもしれません。

身長約180cmだったといわれる利休にそんなことを言われたら、別の意味で涙が出てきそうですけどね。

まぁ、この二人は利休に心酔していましたので、やはりいいほうの意味で泣けたことでしょう。その後は……。

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