松田憲秀

絵・小久ヒロ

北条家

松田憲秀の生涯|北条五代の躍進を支えた重臣が最後は裏切り者となる?

2025/07/16

伊豆から相模へ進出した北条早雲(伊勢宗瑞)。

その後、広大な関東エリアへ勢力を広げた北条五代の実績は、武田や上杉、毛利や島津などと比しても遜色ないものですが、どうにも注目度は薄い気がしてなりません。

もしかしたら小田原征伐によって秀吉に屈服された敗者のイメージが強いからでしょうか。

実は、その北条五代に仕えた重臣一族の出身で、自身も要職にありながら、不名誉な最後によって評価の上がらない戦国武将がいます。

松田憲秀です。

戦国ゲームなどで名前は知ってるよ、という方も多いかもしれません。

実はこの憲秀、北条一族に準ずるようなポジションにいたのに最後は裏切り者のレッテルを貼られるような、哀しい終わりを迎えています。

本記事にて、その生涯を振り返ってみましょう。

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生い立ち

松田憲秀は享禄三年(1530年)に生誕。

父は松田盛秀、母は北条綱成の姉妹であり、憲秀を知らない方でも「綱成」と聞いて、「おっ?」と思われたかもしれません。

綱成は、北条氏綱北条氏康の躍進を支えた勇将であり、北条五色備の一角として知られます。

北条五色備の存在自体怪しいところがありますが、いずれにせよ松田家が北条家の中でも重要なポジションにいたことがご理解いただけるでしょう。

そもそもは北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原城を攻め取ったときからの家臣であり、父の松田盛秀もまた重臣中の重臣という存在でした。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用

憲秀世代の戦国武将としては

・松平広忠(大永六年=1526年/徳川家康の父)

・大友宗麟(享禄三年=1530年)

などがいて、三英傑(信長・秀吉・家康)よりも少し上というイメージですね。

 


後北条家の重臣として

松田憲秀は天文年間(1540年代)に家督を継いだと目されており、家臣団の筆頭と見なされました。

永禄二年(1559年)の時点で北条家の長老・北条幻庵に次ぐ知行を得ているほど。

北条幻庵/wikipediaより引用

幻庵は早雲の子で、二代当主・氏綱の弟ですので、松田家が一族に準ずる扱いだったことがわかります。

永禄十二年(1569年)~元亀二年(1571年)はじめには、母方の伯父である北条綱成と共に駿河の深沢城(御殿場市)で甲斐武田への警戒にあたっておりました。

しかし、ここは憲秀にとってはいささか不名誉な、武田ファンにとっては痛快な出来事で知られる場所でもあります。

「金堀攻め(土竜攻め)」によって武田信玄に攻略されてしまった城なのですね。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用

金堀攻めとは、坑道を掘って城内へ侵入したり、城方のやぐらを破壊したり、水源を絶ったりする戦術であり、信玄がよく用いた戦術の一つでもあります。

むろん必ずしも成功するわけではなく、城方に坑道を崩されたり、水を流し込まれたりすれば、坑夫たちに甚大な被害が出てしまう。

いわばリスキーな戦術でした。

そんな信玄の攻撃を受けて憲秀らは深沢城から後退せざるを得なくなり、いったん退いた後に新たに城を築き、そこで守将を務めます。

すると翌元亀三年(1572年)に甲相同盟が成立。

城も平和的に武田方へ引き渡されたため、おそらく憲秀もこのとき退いたと思われます。

 

国衆や家臣の取次役

北条早雲の代で伊豆や相模に拠点を得て、北条氏綱が関東エリアへ進出、さらには北条氏康によって侵攻を拡大させていった北条家。

その勢力は伊豆と相模を中心に、北は武蔵や上野に下野、東は常陸や下総に上総、西は駿河などへ広がっています。

むろん各エリアのすべてを統治したわけではなく、上杉謙信をはじめとした諸勢力と常に奪い合いの様相を呈しており、その詳細は以下の北条家綱や北条氏康の記事をご覧いただければと存じます(本記事末にリンクがあります)。

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こうした支配地域の拡大に伴い、必然的に重要になってくるのが家臣や国衆たちの統括役でした。

松田憲秀は、その指導役や取次を任されており、軍事・政治の両面において、北条家の柱だったと見なされています。

戦場で派手に暴れまわる戦闘タイプではなく、合戦における特別な逸話は残されていません。

天正十年(1582年)に本能寺の変が起きた後は、上野から撤退しようとする滝川一益と戦ったことが記録されています。

滝川一益/wikipediaより引用

そして天正十七年(1589年)5月には隠居しました。

と、話はこれで終わりではありません。

この時代にはよくあることで完全な引退ではなく、依然として要職の任に当たっていたわけですが、憲秀当人にとっては必ずしも幸せなポジションではなかったかもしれません。

天正十八年(1590年)から豊臣秀吉による小田原征伐が始まってしまったのです。

 


小田原征伐

なぜ北条は飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉と対抗したのか。

北条氏政北条氏直は時勢を読めない愚か者だったのか。

以下にその考察記事がありますが、

なぜ北条は秀吉に滅ぼされたのか|真田や徳川も絡んだ不運の連鎖に追い込まれ

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いざ天正十八年(1590年)に合戦となったとき、多くの重臣が籠城戦を唱え、憲秀もその一人でした。

彼らがなぜ籠城を選んだのか。

というと、永禄四年(1561年)に上杉謙信が小田原城を包囲した際に追い返した記憶が強く残っていたことも一因だったのでしょう。

上杉謙信/wikipediaより引用

しかし当時は、小田原城が堅固だったこともさることながら、上杉方では兵糧も不足して長期遠征に対する不満が高まっていたことに加え、武田信玄が北信濃へ進出するという救援策がありました。

「たとえ大軍で囲まれても、長期戦に持ち込めば敵は自壊する」

そんな風に楽観視しても、今回は甲斐武田のように豊臣方の背後を突いてくれる勢力はありません。

伊達政宗に一縷の望みを託していたともされますが、先に徳川家康が臣従している段階で厳しい状況と言わざるを得ない。

それに秀吉は、長期戦におけるストレス対策を打っていました。

大名たちに妻を呼ぶよう命じたり、自らも淀殿を呼び寄せたり、千利休を呼んで茶会を開いたり、能や連歌を楽しんだり、謙信のときとは全く状況が異なっていたのです。

北条方は最後までそれに気付かなかった。

何かと常識外れの秀吉の戦術に理解が及ばなかったのは仕方ないのかもしれません。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

 

裏切り?

秀吉軍は天正十八年(1590年)の春先から北条方の城を次々に攻略。

それぞれの城主たちは豊臣方に降伏していきました。

4月からは小田原城そのものも包囲されるようになります。

すると籠城派だった松田憲秀にある異変が起きます。

6月16日、長男・笠原政晴と共に秀吉方へ内応しようとしたというのです。

ジワジワと支城を落とされ、小田原城を囲まれて精神的に追い詰められたのか。

あるいは秀吉配下の堀秀政に調略されたという説もありますが、秀政は5月27日に病死しているので、少々信憑性に欠けます。

秀政が病死以前に調略を始めていて、死後に他の誰かへ引き継だという可能性も確かに無くはありません。

いずれにせよこの動きは城内で察知され、松田憲秀父子は北条氏直によって捕らえられてしまいます。

北条氏直/wikipediaより引用

告発したのは憲秀の次男・松田直秀だったともいわれています。

氏直にしてみれば、代々の重臣に裏切られて、さぞ衝撃だったでしょう。

『名将言行録』には「太田資正が憲秀の怪しげな動きを見て、内通に気付いていた」という話が載っていますが、これは創作だと思われます。

資正はこの頃、北条から離れて佐竹についていましたし、息子に家督を譲っていたので、小田原にいたとは考えられない。

おそらく資正を称えたい人が「誰かが憲秀の内通を察知していた」という話とドッキングさせたのでしょう。

太田資正(落合芳幾画)/wikipediaより引用

しかし内通については、以下のように諸説あります。

・そもそも内通してないんじゃないか?説

・内通の首謀者は憲秀ではなく息子説

・我が身可愛さではなく、北条の所領や将兵の命を助けてもらうためだった説

今後の研究によっては“裏切り者”という憲秀の評価がひっくり返るかもしれません。

 

切腹

松田憲秀の内通未遂事件から半月ほど経った7月初旬、北条家は降伏しました。

小田原城は開城し、秀吉は7月5日、以下の4人に「この戦の責任がある」として、切腹を命じます。

・北条氏政

・北条氏照

・大道寺政繁

・松田憲秀

北条氏政と北条氏照は11日、大道寺政繁は19日に腹を切りました。

北条氏政/wikipediaより引用

ところが、憲秀については何日に切腹したのか不明であり、最期の様子も伝わっていません。

憲秀の法名は「竹庵道悟禅定門」と伝えられているものの、墓所なども明確にわかっていない。

次男の松田直秀が後に加賀藩へ仕えたため、菩提寺は金沢にある本因寺となっていて、もしかするとそこで密かに供養されていた可能性はありそうですね。

あるいは、憲秀の領内にあるお寺がこっそり弔っていてもおかしくはないでしょうか。

秀吉に死罪を申し付けられた四人のうち憲秀だけが不名誉な扱いになったのは、やはり当時「裏切り者」とみなした人が多かったからでしょう。

小田原征伐までの働きや、彼の動きが直接開城の引き金になったわけではない――そう考えると、供養ぐらいは堂々とやっても良いのではないかと思ってしまいます。

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【参考】
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon
『[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち』(→amazon
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon
国史大辞典
世界大百科事典
日本人名大辞典

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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