伊豆から相模へ進出した北条早雲(伊勢宗瑞)。
その後、広大な関東エリアへ勢力を広げた北条五代の実績は、武田や上杉、毛利や島津などと比しても遜色ないものですが、どうにも注目度は薄い気がしてなりません。
もしかしたら小田原征伐によって秀吉に屈服された敗者のイメージが強いからでしょうか。
実は、その北条五代に仕えた重臣一族の出身で、自身も要職にありながら、不名誉な最後によって評価の上がらない戦国武将がいます。
松田憲秀です。
戦国ゲームなどで名前は知ってるよ、という方も多いかもしれません。
実はこの憲秀、北条一族に準ずるようなポジションにいたのに最後は裏切り者のレッテルを貼られるような、哀しい終わりを迎えています。
本記事にて、その生涯を振り返ってみましょう。
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生い立ち
松田憲秀は享禄三年(1530年)に生誕。
父は松田盛秀、母は北条綱成の姉妹であり、憲秀を知らない方でも「綱成」と聞いて、「おっ?」と思われたかもしれません。
綱成は、北条氏綱と北条氏康の躍進を支えた勇将であり、北条五色備の一角として知られます。
北条五色備の存在自体怪しいところがありますが、いずれにせよ松田家が北条家の中でも重要なポジションにいたことがご理解いただけるでしょう。
そもそもは北条早雲(伊勢宗瑞)が小田原城を攻め取ったときからの家臣であり、父の松田盛秀もまた重臣中の重臣という存在でした。

北条早雲(伊勢宗瑞)/wikipediaより引用
憲秀世代の戦国武将としては
・大友宗麟(享禄三年=1530年)
などがいて、三英傑(信長・秀吉・家康)よりも少し上というイメージですね。
後北条家の重臣として
松田憲秀は天文年間(1540年代)に家督を継いだと目されており、家臣団の筆頭と見なされました。
永禄二年(1559年)の時点で北条家の長老・北条幻庵に次ぐ知行を得ているほど。

北条幻庵/wikipediaより引用
幻庵は早雲の子で、二代当主・氏綱の弟ですので、松田家が一族に準ずる扱いだったことがわかります。
永禄十二年(1569年)~元亀二年(1571年)はじめには、母方の伯父である北条綱成と共に駿河の深沢城(御殿場市)で甲斐武田への警戒にあたっておりました。
しかし、ここは憲秀にとってはいささか不名誉な、武田ファンにとっては痛快な出来事で知られる場所でもあります。
「金堀攻め(土竜攻め)」によって武田信玄に攻略されてしまった城なのですね。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikipediaより引用
金堀攻めとは、坑道を掘って城内へ侵入したり、城方のやぐらを破壊したり、水源を絶ったりする戦術であり、信玄がよく用いた戦術の一つでもあります。
むろん必ずしも成功するわけではなく、城方に坑道を崩されたり、水を流し込まれたりすれば、坑夫たちに甚大な被害が出てしまう。
いわばリスキーな戦術でした。
そんな信玄の攻撃を受けて憲秀らは深沢城から後退せざるを得なくなり、いったん退いた後に新たに城を築き、そこで守将を務めます。
すると翌元亀三年(1572年)に甲相同盟が成立。
城も平和的に武田方へ引き渡されたため、おそらく憲秀もこのとき退いたと思われます。
国衆や家臣の取次役
北条早雲の代で伊豆や相模に拠点を得て、北条氏綱が関東エリアへ進出、さらには北条氏康によって侵攻を拡大させていった北条家。
その勢力は伊豆と相模を中心に、北は武蔵や上野に下野、東は常陸や下総に上総、西は駿河などへ広がっています。
むろん各エリアのすべてを統治したわけではなく、上杉謙信をはじめとした諸勢力と常に奪い合いの様相を呈しており、その詳細は以下の北条家綱や北条氏康の記事をご覧いただければと存じます(本記事末にリンクがあります)。
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北条氏綱~早雲の跡を継いだ名将はどうやって関東へ躍進した?55年の生涯まとめ
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北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
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こうした支配地域の拡大に伴い、必然的に重要になってくるのが家臣や国衆たちの統括役でした。
松田憲秀は、その指導役や取次を任されており、軍事・政治の両面において、北条家の柱だったと見なされています。
戦場で派手に暴れまわる戦闘タイプではなく、合戦における特別な逸話は残されていません。
天正十年(1582年)に本能寺の変が起きた後は、上野から撤退しようとする滝川一益と戦ったことが記録されています。

滝川一益/wikipediaより引用
そして天正十七年(1589年)5月には隠居しました。
と、話はこれで終わりではありません。
この時代にはよくあることで完全な引退ではなく、依然として要職の任に当たっていたわけですが、憲秀当人にとっては必ずしも幸せなポジションではなかったかもしれません。
天正十八年(1590年)から豊臣秀吉による小田原征伐が始まってしまったのです。
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