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【松田憲秀】
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小田原征伐
なぜ北条は飛ぶ鳥を落とす勢いの秀吉と対抗したのか。
以下にその考察記事がありますが、
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北条はなぜ秀吉に滅ぼされたのか? 真田や徳川も絡んだ不運の連鎖に追い込まれ
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いざ天正十八年(1590年)に合戦となったとき、多くの重臣が籠城戦を唱え、憲秀もその一人でした。
彼らがなぜ籠城を選んだのか。
というと、永禄四年(1561年)に上杉謙信が小田原城を包囲した際に追い返した記憶が強く残っていたことも一因だったのでしょう。

上杉謙信/wikipediaより引用
しかし当時は、小田原城が堅固だったこともさることながら、上杉方では兵糧も不足して長期遠征に対する不満が高まっていたことに加え、武田信玄が北信濃へ進出するという救援策がありました。
「たとえ大軍で囲まれても、長期戦に持ち込めば敵は自壊する」
そんな風に楽観視しても、今回は甲斐武田のように豊臣方の背後を突いてくれる勢力はありません。
伊達政宗に一縷の望みを託していたともされますが、先に徳川家康が臣従している段階で厳しい状況と言わざるを得ない。
それに秀吉は、長期戦におけるストレス対策を打っていました。
大名たちに妻を呼ぶよう命じたり、自らも淀殿を呼び寄せたり、千利休を呼んで茶会を開いたり、能や連歌を楽しんだり、謙信のときとは全く状況が異なっていたのです。
北条方は最後までそれに気付かなかった。
何かと常識外れの秀吉の戦術に理解が及ばなかったのは仕方ないのかもしれません。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
裏切り?
秀吉軍は天正十八年(1590年)の春先から北条方の城を次々に攻略。
それぞれの城主たちは豊臣方に降伏していきました。
4月からは小田原城そのものも包囲されるようになります。
すると籠城派だった松田憲秀にある異変が起きます。
6月16日、長男・笠原政晴と共に秀吉方へ内応しようとしたというのです。
ジワジワと支城を落とされ、小田原城を囲まれて精神的に追い詰められたのか。
あるいは秀吉配下の堀秀政に調略されたという説もありますが、秀政は5月27日に病死しているので、少々信憑性に欠けます。
秀政が病死以前に調略を始めていて、死後に他の誰かへ引き継だという可能性も確かに無くはありません。
いずれにせよこの動きは城内で察知され、松田憲秀父子は北条氏直によって捕らえられてしまいます。

北条氏直/wikipediaより引用
告発したのは憲秀の次男・松田直秀だったともいわれています。
氏直にしてみれば、代々の重臣に裏切られて、さぞ衝撃だったでしょう。
『名将言行録』には「太田資正が憲秀の怪しげな動きを見て、内通に気付いていた」という話が載っていますが、これは創作だと思われます。
資正はこの頃、北条から離れて佐竹についていましたし、息子に家督を譲っていたので、小田原にいたとは考えられない。
おそらく資正を称えたい人が「誰かが憲秀の内通を察知していた」という話とドッキングさせたのでしょう。

太田資正(落合芳幾画)/wikipediaより引用
しかし内通については、以下のように諸説あります。
・そもそも内通してないんじゃないか?説
・内通の首謀者は憲秀ではなく息子説
・我が身可愛さではなく、北条の所領や将兵の命を助けてもらうためだった説
今後の研究によっては“裏切り者”という憲秀の評価がひっくり返るかもしれません。
切腹
松田憲秀の内通未遂事件から半月ほど経った7月初旬、北条家は降伏しました。
小田原城は開城し、秀吉は7月5日、以下の4人に「この戦の責任がある」として、切腹を命じます。
・北条氏政
・北条氏照
・大道寺政繁
・松田憲秀
北条氏政と北条氏照は11日、大道寺政繁は19日に腹を切りました。

北条氏政/wikipediaより引用
ところが、憲秀については何日に切腹したのか不明であり、最期の様子も伝わっていません。
憲秀の法名は「竹庵道悟禅定門」と伝えられているものの、墓所なども明確にわかっていない。
次男の松田直秀が後に加賀藩へ仕えたため、菩提寺は金沢にある本因寺となっていて、もしかするとそこで密かに供養されていた可能性はありそうですね。
あるいは、憲秀の領内にあるお寺がこっそり弔っていてもおかしくはないでしょうか。
秀吉に死罪を申し付けられた四人のうち憲秀だけが不名誉な扱いになったのは、やはり当時「裏切り者」とみなした人が多かったからでしょう。
小田原征伐までの働きや、彼の動きが直接開城の引き金になったわけではない――そう考えると、供養ぐらいは堂々とやっても良いのではないかと思ってしまいます。
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長月 七紀・記
【参考】
黒田基樹『戦国北条家一族事典(戎光祥出版)』(→amazon)
黒田基樹『戦国北条五代(星海社)』(→amazon)
『[新訳]名将言行録 大乱世を生き抜いた192人のサムライたち』(→amazon)
『戦国武将事典 乱世を生きた830人 Truth In History』(→amazon)
国史大辞典
世界大百科事典
日本人名大辞典