天正七年(1579年)7月18日、出羽の大宝寺義興(だいほうじ よしおき)という戦国大名が、織田信長に駿馬5頭と鷹11羽(うち1羽は白鷹)を献上してきました。
※本稿は織田信長の足跡を記した『信長公記』を考察しており、今回はその184話目(巻十二・第九節)となります。
前話は以下の通り。
光秀が丹波を平定!宇津城から鬼箇城と黒井城へ~信長公記183話
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悪屋方の弟・大宝寺義興
突然出てきた大宝寺義興という武将をご存知でしょうか?
出羽国(東北日本海側)の中でも山形県を本拠にした人物で、実は兄・大宝寺義氏の方が有名です。
この義氏、地元では「悪屋方(悪屋形)」なんて呼ばれており、配下の家臣たちだけでなく、領民にも嫌われていたことで知られます。
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↑こちらに、義氏のことを記した記事がありますが、実は東北の名将・鮭延秀綱の主君でもあったりして何かと興味深く、よろしければ併せてご覧ください。
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大宝寺義興が信長に誼を通じようとしたのも、兄が討たれ、宿敵の最上義光から追い込まれていたからでしょう(実はこの2年後にも鷹と馬を信長に献上)。
このころの東北地方は最上が勢いを盛り返し、さらには伊達家も変わらず陸奥の有力勢力であり、後に新当主となる伊達政宗が愛姫との結婚をする年でした。
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それから7日ほど経った7月25日、またもや東北地方から白鷹が献上されてきました。
送り主は陸奥・遠野の遠野孫次郎という者で、使者は石田主計(かずえ)という鷹匠。
この鷹は雪のように白く、姿形に優れており、見物に来た人々も感嘆したそうです。
信長もこれを大変気に入って秘蔵したとか。
名人久太郎の屋敷で接待とは
東北からの使者は止まりません。
同日には出羽仙北(秋田県)の前田利信なる人物も鷹を持参して献上し、信長に挨拶しているのです。
三人から同時期に鷹が献上されてきたということは、
・東北まで信長の趣味が知られていた
・信長と誼を通じたり、後ろ盾になってほしいと思う者が東北にもいた
・東北の誰かが献上するという話を得て慌てて送った
そんなことが想定できますよね。
大宝寺義興以外の二人(遠野孫次郎・前田利信)は素性が明らかになっていませんが、おそらくは地元の有力者といったところでしょう。
一定以上の財力がなければ、信長に贈れるほどの鷹を用意できませんし、使者を送ることも難しいはずです。
信長もそれに気付いていたのか。
7月26日には、堀秀政に対して「石田主計と前田利信をお前の屋敷で接待するように」と命じています。
文武両道で信長の信頼厚く、「名人久太郎」と呼ばれた堀秀政に任せたことからも、丁重におもてなしたことがわかりますね。
信長に寵愛され秀吉に信頼された堀秀政~名人久太郎と呼ばれた武将38年の生涯
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しかも、です。
この席には、津軽の南部政直も相席していたというのですから、さらに驚き。
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