1646年8月2日(正保三年6月21日)は、最上家の家臣だった鮭延秀綱(さけのべひでつな)が亡くなった日です。
主君は最上義光。
何かと悲劇的な最上家のもとで、有能な部下は、いかなる生涯をたどったのか?
今回は秀綱の視点から見てみましょう。
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元は出羽の国衆・佐々木一族 敦実親王に辿りつく
鮭延家の先祖を遡ると、宇多天皇の皇子・敦実親王に辿りつくとされます。
皇室末裔の武士といえば、普通は清和源氏とか河内源氏、あるいは伊勢平氏などをイメージしますよね。
彼らの他にも臣籍降下(皇族から臣下になること)した源氏はいます。
例えば近江源氏という血筋の中で、佐々木という名字を名乗っていた人たちがいて、それが秀綱の直接の祖先に当たるとされます。
そして、この二十代目の人が何を思ったか。
東国に下り、横手城(現・秋田県横手市)の主・小野寺家に仕え始め、「鮭延城」という城を居城としたことから、姓を変えたとされています。
秀綱は、一時は敵の人質にされていましたが、何とか無事に家へ戻ることができました。
しかし、彼にとっては一難去ってまた一難というべきか。
出羽統一のため、最上義光が攻め込んできたのです。
義光は調略を使って鮭延城を攻略し、秀綱は降伏することになりました。

長谷堂合戦で直江兼続を追撃する最上義光『長谷堂合戦図屏風』/wikipediaより引用
所領を保証されたこともあってか、その後は義光に背くこともなく、最上家臣として働きます。
特に旧主である小野寺家との戦や交渉で活躍しました。
義光を説得して部下の結婚を許したところ……
比較的早いうちに義光の信頼を得たのか。鮭延秀綱に関しては、こんな逸話が伝えられています。
あるとき、秀綱の部下が、義光正室の侍女と恋仲になりました。
二人とも独身であれば問題ない気がしますが、当時は奥と表がはっきり分かれていたので、罪に値すること。
そのため義光が二人を罰しようとしたところ、秀綱の説得で取りやめ、二人が結婚することを許します。
しばし時は流れ、慶長五年(1600年)。
“北の関ヶ原”と呼ばれる【慶長出羽合戦】が起こりました。

『長谷堂合戦図屏風』退却する直江兼続を追撃する最上義光/wikipediaより引用
もちろん秀綱は最上方の主要人物として参加しています。
このとき、かつて秀綱が命を救ったその部下が、今度は戦場で秀綱をかばって討ち死にしたというのです。
また、部下の妻(元・義光の侍女)も後を追って自殺したといわれています。
義光はそれほどの忠義者に短慮を働きかけたことを悔やみ、二人を丁重に弔ったそうです。
まぁ、最上家全体で見れば損はしてないですし、はるか昔のことをそこまで悔いなくてもいい気がするのですが、義光・秀綱二人のイイ話ということで。
さらには……。
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