滅亡した武田家の領地を巡り、上杉、北条、徳川の大国が支配権を争った【天正壬午の乱】。
キーマンとなったのは真田昌幸でした。
ときに降伏したり、ときに裏切ったり。
各国の痛痒いポイントを巧みに突きながら、生き残っていく様は
【表裏比興(考えをコロコロ変える狡猾なヤツ)】
とも言われたりしますが、小勢力の真田が荒波を越えていくにはそれしかなかったのも事実です。
しかし最終的には、表裏比興だけでは乗り切れない結果となりました。

真田昌幸/wikipediaより引用
真田のいないところで話し合いが進められ、
・甲斐信濃は徳川領
・沼田は北条領
と勝手に決められてしまったのです。
沼田エリアは、越後・信濃・上野の街道ポイントとなる要衝であり、絶対に受け入れられるものではありません。
昌幸は憤怒し、激しく抵抗しました。そして……。
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない! もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!」
反徳川の姿勢を明らかにし、天正13年(1585年)閏8月2日、第一次上田合戦へと繋がっていくのです。
第一次上田城の戦いとも称されるこの合戦。
如何なるものだったのか、振り返ってみましょう。
1585年 第一次上田合戦
徳川から援助を引き出し上田城を築き、自らの手で沼田エリアを奪い返す――。
すべて計画通りに進んでいた真田昌幸の思惑は、突如成立した北条と徳川の和睦により脆くも崩れそうになりました。
そんなとき、昌幸が必ず頼るべきは第三極です。
もう一つの大国・上杉家。

上杉景勝/wikipediaより引用
越後の雄に従属して、沼田領の保持に全力を尽くそうとします。
もちろん目算はありました。
徳川家と北条家が和睦すると、両者の矛先が向かうのは北の上杉領とも考えられます。
同家は上杉謙信の時代から、沼田を保持することで、他勢力の越後侵攻を阻み、逆に関東へ睨みを利かせてきました。
真田の沼田領有を認めることで北条家の北進を阻止できれば、たとえ昌幸が表裏比興のヤツだと分かっていても、味方にしておいた方が得です。
昌幸は、この鞍替えによって、今度は徳川家と北条家を敵に回すことになりました。
家康と氏政ですね。
当然ながら北条は沼田へ、徳川は上田侵攻を開始します。
北条だけでなく、今回の徳川は本気です。
なぜなら真田の上田城築城にあたり、人やカネなど、多大なる協力を提供したのは徳川です。
たとえ上田城を放置しておいても、徳川の領地には何ら危険性はありませんが、国衆の離反をアッサリ許していたら、旧武田領の新たな支配者としての威信&経営が揺らぎます。
つまり徳川は、メンツのため上田城を奪取せねばならないのです。
かくして天正13年(1585年)に侵攻をスタート!
世に言う第一次上田合戦の始まりです。
これに対し真田家は、上杉家への防御として北向きに築城していた上田城の縄張りを、対徳川家に想定した縄張りに変更しなければなりません。
一番の問題となるのは、小諸方面の東側でした。
コチラから侵攻されると、上田城は高台からの敵を坂の下で迎え撃たなければなりません。
野戦では圧倒的に高地の方が有利です。
このピンチに真田昌幸はどう対処したのでしょうか?
弱点の東側には沼が点在 水路を繋いで堀にする
小諸城方面から上田へと向かう街道は、千曲川に削られた台地をなだらかに下っていきます。
北上してくる徳川方の予想される侵攻ルートは、道筋からして上田城の東側。
同城の弱点でもありました。
そこで昌幸は、城の東側に点在する沼を水路でつなぎ、水堀として、軍の直進的な侵攻を阻むこととしました。

真田昌幸時代の上田城古図(上田市デジタルアーカイブポータルサイトより)
上記の古図は、実際の水路とは違うものもあり、多少誇張されているようです。
東側の門の前には、いかにも突貫工事で掘ったと見られる堀、というか穴ですね。
これは後に城の東側の堀として完成し、現在も残っています。
もともと対上杉の北側は完璧な防御(=馬出状の城郭)ですが、東側は城のキワまで自然地形だけに頼るという危うさ。
しかし東側で一か所だけ、神川という城の遥か東の川でなだらかな台地が途切れており、深い谷になっています。
想定される徳川方の進路で唯一、侵攻を阻めそうなはこの神川を挟んだ台地の上に第一防衛線を張ることです。
徳川方にしても、おそらくそれを頭に入れていたことでしょう。
『真田に戦意なし』と徳川方に油断させ
徳川方がどのように進軍したのか?
記録がないので推定になりますが、神川の渡河後に、古代の国分寺跡に本陣を置いており、ここまでは真田からのさしたる抵抗もなかったことが分かります。
真田昌幸は第一防衛線にすべき神川を放棄して、上田城に閉じこもっていたのです。

上田城西櫓
神川は確かに防衛戦に適した場所です。
しかし問題は圧倒的な兵力差。
上流で回り込まれたら野戦では不利な地形にいますので、反撃できません。
ここで徳川方も『真田に戦意なし』と考えたでしょう。
上田城の築城を手伝った徳川家は、その縄張りまですべて把握しています。おそらく上記の地図が頭にあったのではないでしょうか。
そしてこう思ったことでしょう。
『これは楽勝だろう』
なんせこの先は、なだらかな坂を下って上田城に殺到するだけです。
事実、徳川方が侵攻を始めると、上田城の二の丸まであっさり制圧、あとは本丸を残すのみとなったとき、突如、真田昌幸が動きました。
一気に反撃に出たのです。
敵を十分に引きつけた上で城の脇から出撃した別働隊が徳川の側面を攻撃。
古図でも上田城の東側の門を戦闘正面とした場合、北と南の門から側面攻撃が可能な縄張りになっています。
東側面に対しても、何とか本丸全体が馬出状の防御施設になるように改築されたことが考えられます。
また、馬出は少数の兵力で大軍に対応できるますので、少数兵力の真田方にとっても本丸が最も守りやすい場所だったのでしょう。
そう考えると全ての防衛線を放棄して、本丸で迎え撃つプランは無謀でもないことが分かります。
もっとも普通の人間なら、ビビってしまい、絶対に二の足を踏む戦術です。
真田昌幸はよほど肝が据わっていたとしか思えません。
信幸の別働隊が逃げる徳川をコテンパに
すっかり油断していた徳川方は大混乱に陥り、ひとまず撤退します。
しかし、ここで突如、背後に現れた真田昌幸の長男・真田信幸(関ヶ原の戦い以後に「真田信之」になります)率いる別働隊が奇襲を仕掛けるのです。

真田信之/wikipediaより引用
全く想定していなかった別働隊の奇襲。
徳川方は我先にと逃げ帰りました。
ところが、そう容易く逃げられません。
東に撤退するにはなだらかな坂を上らなければなりません。
追撃する昌幸の本隊と、真田信幸の別働隊は、逃げる徳川方に追いつき、さらに神川も退路を妨げ、多数の徳川兵が討ち取られます。
結局、徳川方は上田城を落とせず小諸城まで撤退するほかありませんでした。
実は、大勝利に貢献した真田信幸の別働隊は、砥石城に潜ませていました(地図を参照)。
※上田城(左)と砥石城(右)
砥石城から上田城までの間には川が流れており、神川と千曲川とで三角形の台地を形成しています。
真田信幸の一隊は台地の下を進み、身を隠した状態で上田城方面に進み、突如、徳川軍の目の前に現れて大混乱を引き起こしたのです。
それにしても、あまりに華麗な戦術――。
徳川軍の不甲斐なさだけが目立ってしまいますが、いったい何がこの奇襲を大成功に導いたのか。
主に3つの勝因が挙げられます。
真田が勝てた3つの理由とは
1つ目は徳川方の油断です。
これは徳川家に限らず、大国が小国を攻めるという状況だけでも油断が生じます。
さらに誰もが想定する第一防衛線と考えていた神川に敵兵がおらず、敵の真田は「士気が低い」と考えます。
そしてなだらかな下り坂は物理的に勢いが自然と付きます。
この戦いで徳川方の兵は統率が乱れていたと云われています。
統率を乱して我先にと城へ殺到する心理的要因が、上田に下っていく地形と、それを利用した昌幸の作戦から引き込まれたのではないでしょうか。

2つ目は真田家が上田の地形を熟知していたことです。
偶然か、計画的に整備したのか。
真相は不明ながら、砥石城方面から上田城に向かって流れる川が、神川のようにちょうど台地の谷を流れています。徳川方が本陣を置いた国分寺あたりからは完全に死角に入るのです。
谷筋に身を隠して進み、敵本陣を襲撃する戦いで有名なものが信長の【桶狭間の戦い】です。
昌幸に戦史を勉強する機会があったかどうかも不明です。
が、まさに桶狭間のときの織田信長のように、長男の真田信幸を密かに進軍させました。
最後の一つは砥石城の存在です。
上田城は河岸段丘の要害に築城されたとはいえ、この頃はまだ未完成で、しかも城の正面を変更したばかりで防御力はさほど強化されていませんでした。
それでも上田城で迎え討つ準備ができたのは、要害にして、詰めの城・砥石城が健在だったからではないでしょうか。
砥石城には、あの武田信玄でも落とせなかったという十分過ぎる実績があります(結果的に攻略したのは昌幸の父・真田幸綱)。
仮に上田城が奪われても、その西方に複数連なる上杉家の後詰めの城と、北にある砥石城の防御力で、徳川方は苦戦を強いられたことでしょう。
あくまで結果からの推察にはなりますが、上田城の坂下の城という不利な条件を利用し、昌幸は最初から自分自身と上田城を囮に敵を引きつけ、砥石城の別働隊で敵を殲滅する作戦だった気がしてなりません。
この作戦のコンセプト、後の第二次上田合戦のみならず、実は真田信繁による大坂の陣での【真田丸の戦い】でも応用されます。
北条の攻撃も退けた真田は秀吉に従属する
真田丸の戦いでは、真田丸の目の前にあった篠山という高台を簡単に敵に占拠させることで油断させ、真田丸に殺到したところを反撃しています。
小諸まで撤退した徳川方は、重臣・石川数正が羽柴秀吉方に離反するという重大な出来事もあって、上田攻めを一旦放棄。
真田家に対しては力攻めではなく、懐柔して味方につける戦略にシフトします。
昌幸にとっても、上田と沼田の領有さえ認められれば反抗する意思はありません。
家康は、本多忠勝の娘・小松姫を真田信幸に嫁がせるなどして真田家を味方に抱き込もうとしました。

小松姫/wikipediaより引用
一方、沼田城に侵攻する北条方の攻撃も退けて、沼田城も死守し続けます。
この後、徳川家康に従属するかと思いきや、真田昌幸は息子の真田信繁(真田幸村)を人質として秀吉の下へ送ります。
これによって、豊臣方の臣下となり、上田&沼田の大名としてちゃっかり列席することになりました。
真田家が一地方の国人衆としてではなく、戦国大名として天下にお墨付きを得たことになります。
しかし結局、係争地とされた沼田城は北条家に割譲。
昌幸にはその支城の名胡桃城周辺しか与えられませんでした。
これが後の【小田原征伐】の原因となる名胡桃城事件へと繋がるのですが、ここは本題ではありませんので以下の関連記事をご参照いただければ。
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