承応二年(1653年)8月3日は、佐倉惣五郎が処刑された日です。
さっそく「誰なの?」と言われそうですが、そもそも実在したのか、やったことも確実なのかどうか、色々とアヤシイ人なので仕方がありません。
一応『国史大辞典』に記載はあり
「近世の義民の代表者とされる人物。しかし確実な史実は不明である」
となっています。
それでも取り上げたいのは、当時の社会情勢のある点をうかがう上で、ポイントとも考えられるからです。

佐倉惣五郎/wikipediaより引用
まずはこの人の逸話から見ていきましょう。
「将軍様が上野へお墓参りに行くらしい」
佐倉惣五郎は、現在の千葉県成田市の名主だったとされています。
ある年、佐倉藩主・堀田正信が重税を強いたため、惣五郎を始めとした名主や農民は「何とかしてください」と訴えることにしました。
国元のお偉いさんには聞いてもらえなかったので、佐倉藩の江戸藩邸や老中に訴えます。
しかしあれもこれもうまくいかず、村の暮らしは困る一方。
そこで惣五郎は「将軍様が上野へお墓参りに行くらしい」という話を聞きつけ、ついに将軍への直訴を決意します。
この「将軍」は四代・徳川家綱、もしくは三代・徳川家光だとされています。「上野へお墓参り」は徳川家の菩提寺である寛永寺への参詣のことですね。

徳川家光(左)と徳川家綱/wikipediaより引用
こうして惣五郎は将軍の駕籠に駆け寄って直訴を行い、その罪で一家全員死罪となった……というのが定説です。
訴えは聞き入れられたそうなので、最低限の目的は達成できたことになるでしょうか。
大名行列でさえ土下座で何時間も見送らなければならない時代に、将軍の駕籠の近くまで行けるものなのか?
そんな疑念が湧くと思いますので、史実かどうか怪しい感じがしますよね。
なお、処刑後、惣五郎の遺体は地元の僧侶に引き取られ、現在「宗吾霊堂」と呼ばれるようになった……とされています。
そしてこの話には続きがあります。
惣五郎の呪い? 元藩主の正信が奇行に走る
惣五郎に訴えられた佐倉藩主・堀田正信が万治三年(1660年)、突如として幕政を批判した文書を幕閣に叩きつけかと思ったら、勝手に佐倉へ帰るという奇行を働いたのです。

堀田正信/wikipediaより引用
幕政批判がタブーなのは言わずもがな、大名は地元へ帰るときに許可を取らなければなりません。
つまり合わせ技で一本どころではなく、あの知恵伊豆・松平信綱も「狂気としか言いようがない」と厳しいコメントをしています。
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その結果、一ヶ月も経たないうちに処分が決まり、正信は改易の上で弟の飯田藩主・脇坂安政にお預けの身となり、寛文十二年(1672年)には安政の領地替えのため、小浜藩主で同族の酒井忠直の元へ預け替えられました。
しかし五年後に抜け出すと、今度は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に再三預け変えられるという、これまた不思議な経緯をたどっています。
正信は預かり先で著作にも励んでいますので、完全に壊れた感じではなかったと思われるのですが……徳川家綱が延宝八年(1680年)に亡くなったとき、正信は「ハサミで喉を突く」という珍妙な方法で殉死してしまいました。
この一連の奇行が「惣五郎の呪いでは?」といわれるようになり、霊を鎮めるために惣五郎の墓が地元に作られた……というパターンの話もあります。
その系統でいくと、
「正信は恥をかかされたため、惣五郎を腹いせに拷問の後処刑した。その恨みで正信に祟っただけでなく、佐倉藩のお偉いさんも次々と怪死した」
「佐倉周辺で血まみれの惣五郎の怨霊が目撃された」
などなど、余談にも事欠きません。
元ネタにした講談や歌舞伎も登場す
そしてこの一連の騒動から100年くらい経った頃、惣五郎の話を元ネタにした講談や歌舞伎などが流行り始めました。
上記の通説も、そういった作品に影響されている部分が多いといわれています。
まあ、庶民の話なんてよほどインパクトがなければ改変されて伝わるものですからね。「八百屋お七」とか。

八百屋お七(月岡芳年作)/wikipediaより引用
そうした創作の中に「ベロ出しチョンマ」という話があります。
これはもっと近年に「モチモチの木」などで有名な斎藤隆介が書いたものです。
「ベロ出しチョンマ」は、惣五郎と同じく圧政に苦しむ農民が直訴を決行し、当人だけでなく「チョンマ」(長松)とウメという幼い兄妹たちと妻も処刑される……という話です。
処刑の日、チョンマは泣き叫ぶウメのために、日頃やっていた顔芸を披露し、そのまま槍で突かれて死んだということになっています。
そして「彼らの霊を慰めるため、チョンマの変顔をモデルとした人形が今でも売られている」……という結び方です。
そもそも創作なので、チョンマの人形は存在しません。
もしかしたら、この話が発表された頃には作られたかもしれませんが、いつの時代も、ひどい話・かわいそうな話・エ◯グ◯の類は人気が出るものなんですね。
こういった経緯や派生作品があって、一庶民であるはずの惣五郎の名が今に伝えられているというわけです。
直訴は問答無用で死刑じゃない!けれど……
さて、惣五郎やチョンマの話で鍵となる「直訴」のほうにも少し注目してみましょう。
明治時代の田中正造の件で、多くの人が「直訴は問答無用で死刑」というイメージがあったりしませんか?

田中正造/国立国会図書館蔵
しかし、江戸時代の庶民が殿様やご家老に何かを訴えること自体は禁じられていませんでした。武士と庶民の間で訴訟になり、庶民側が勝訴した件も珍しくありません。
マズいのは「物理的な意味で直接訴える」こと。
つまり、庶民が安々と将軍やその他お偉いさんのそばまで行って訴えることが問題なのです。
いつの時代も「困っているように見える人」が本当に困っているとは限りません。最悪の場合、凶器を隠した曲者という可能性もあるわけです。
もしも直訴を日頃からホイホイ受け付けていたら、庶民を装った刺客にブッコロされてしまうかもしれませんよね。
だからこそ「訴えがあるならちゃんとした手続きを踏みなさい」ということになっていったのでしょう。
日本でも戦前までは、お偉いさんが講演中にいきなり刺されたり、公邸に侵入されて暗殺されたりといった事件がたびたびありました。戦後はほんの数件なので、全く印象が違いますが。
日本人が穏やかになったということであればいいのですけども、何かしらの恨みがあって殺人に発展してしまう事件が絶えていないということは、そういう話でもないのでしょう。
なんにせよ、法治国家の現代人であれば、踏むべき手段を踏んで問題解決をしないといけませんよね。
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【参考】
国史大辞典
まいぷれ(→link)
国立歴史民俗博物館/公式サイト
静岡県人権啓発センター/公式サイト
佐倉惣五郎/wikipedia
堀田正信/wikipedia
直訴/wikipedia


