江戸時代

知恵伊豆と呼ばれた天才・松平信綱の生涯~島原の乱を制し家光と家綱時代を支える

寛文2年(1662年)3月16日は「知恵伊豆」こと松平信綱の命日です。

三代将軍の徳川家光、そして四代将軍・徳川家綱時代のお偉いさんとして有名な方ですね。

あるいは彼の領地だった川越周辺にお住まいの方は今なお馴染み深い存在でしょうか。

江戸時代の政治家でもトップクラスで頭脳明晰だったと思われる、その生涯を振り返ってみましょう。

絵・小久ヒロ

 

 


NHK「知恵泉」の元ネタ・松平信綱

松平信綱は慶長元年(1596年)10月30日、武蔵の役人・大河内金兵衛久綱の長男として生まれました。

時代としては、豊臣秀吉朝鮮出兵を諦めていなかったくらいの時期。

豊臣秀吉/wikipediaより引用

もちろん信綱は豊臣政権とは関係ありませんが、こうして見ると豊臣政権→江戸幕府への移行が急激だったことを実感させますね。

信綱は幼い頃から聡明な少年であり、それを証左するとされるのが養子入りに関するものです。

父方の叔父が松平家に入ったと聞き、

「私を叔父上の養子にしてください」

と自ら願い出ました。

突然そんなことを頼んできた甥っ子に対し、叔父・松平正綱は当然聞き返します。

「まだ小さいのに、自ら名前を捨てようとするなんてどうしたんだ。親とケンカでもしたのか」(意訳)

「大河内の名前では、お上の近くで働くことはできないでしょう。しかし松平家の子であれば、それが叶うのではないかと思ったのです。どうかお願いします」

単にお勉強ができる頭の良さとは違う、聡明さがにじみ出ていますよね。

正綱は幼いながらに出世計画を立てている甥っ子の心意気を買い「ならば両親の許可を取ってからまた来なさい」と一応賛成しました。

信綱は喜んで両親に相談して、無事に許可を得ます。

長男だったのにアッサリお許しが出たのは、両親も息子の才能を目の当たりにしており、全てを任せる気になったのでしょう。

 


秀忠&家光に仕える

松平姓を得た信綱は、まず徳川秀忠の小姓として仕えることになりました。

徳川家康にも拝謁し、覚えはめでたかったようです。

また、義父・正綱が裏で手を回しておいたらしく、のちの三代将軍・徳川家光が生まれてすぐに家光の小姓にも任じられました。

義父の薫陶故か、本人の聡明さからか。

側仕えを始めて間もない時期から、信綱の忠義を伝えるエピソードが多々あります。

秀忠との話を一つ挙げてみますと……。

徳川秀忠/Wikipediaより引用

秀忠が奥に泊まった日、深夜に表へ戻ろうとしたところ、廊下で警護していた信綱が秀忠の刀を抱いて居眠りしていた。

秀忠は起こさないように刀を抜き取ってやろうとしたが、信綱は目を覚まして秀忠に取っ組みかかった。

秀忠は寝ぼけ眼でも役目を果たそうとした信綱に感心し、褒めた。

一瞬「大丈夫か?」とドキドキしてしまう話ですが、普段から秀忠に信頼されていることがわかりますね。

信綱からすると褒められて嬉しいやら、むず痒かったでしょう。

 


「我が右の手は讃岐、左手は伊豆」

慶長十六年(1611年)に元服。

その2年後には井上正就の娘と結婚し、順調に通過儀礼を済ませていきます。

徳川家光からの覚えもめでたく、グイグイと加増されてって寛永三年(1626年)には1万石を超え、大名の仲間入りを果たしました。

徳川家光/Wikipediaより引用

時は流れて寛永九年(1632年)1月、大御所の秀忠が亡くなると、家光は幕閣を再編成し、秀忠付きだった”西の丸年寄”を家光付きの”本丸年寄”に合併。

これまで中枢にいた酒井忠世と酒井忠勝と土井利勝を遠ざけ、松平信綱たち若者を中心に据えます。

もちろん一筋縄ではいきませんでしたが、徐々に信綱らの格を上げ、寛永十年(1633年)には側近中の側近である”六人衆”を設置しました。

江戸幕府の高官である”若年寄”の前身とされる役職であり、信綱はもちろん、他の五人も家光の信任を受けた者たちばかりです。

当然、家光からも気に入られており、

「我が右の手は讃岐(酒井忠勝)、左手は伊豆(松平信綱)」

とまで称されました。

その信頼に比例して忙しさもハンパなかったようですが、何においても手落ちがないどころか家光のワガママまできっちり叶え、しかもそれを実行させた下々の人にも気配りをすると言う完璧ぶりでした。

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