「火付盗賊改方、長谷川平蔵である!」
池波正太郎原作の定番人気時代劇『鬼平犯科帳』シリーズでおなじみ、長谷川平蔵宣以(のぶため)の姿が、2025年NHK大河ドラマに颯爽と登場しました。
大河ドラマ『べらぼう』で中村隼人さんが演じ、往年の迫力を見せてくれたのです。
序盤に登場した頃は吉原でカネをたかられる「カモ平」だったのに、ドラマが進むにつれて出世を重ね、今では歌舞伎役者・中村隼人さんの鋭い眼力が見どころの一つにもなっていますよね。
第39回では盗賊集団の葵小僧を捕まえる見せ場も描かれましたが、このときやはり目立ったキーワードが「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」でしょう。
火付(ひつけ)と盗賊(とうぞく)を改める方――字面からある程度想像はつきますように重罪犯を捕まえる警察官みたいなものですが、当時の彼らは実際どんな仕事をしていたのか?
そもそも、どんな経緯で設置された役職なのか?
火付盗賊改方の歴史を、史実面から振り返ってみましょう。

太平の世が訪れても治安は悪い江戸時代
徳川家康が、三河の家臣団と共に関東へ入り、江戸という都市を作り上げ、太平の世が訪れる――。
戦国末期から江戸初期にかけての時代って、そんなイメージがありますよね。

徳川家康/wikipediaより引用
しかし、都市づくりはそう単純でもありません。
特に難しいのが治安。
豊臣秀吉が家康に関東を治めさせたのは、そこを見越してのことだったのか、当時は武田氏や北条氏の残党が暗躍していました。
戦国乱世を戦い、諜報活動をしていたプロの戦闘集団があちこちに潜んでいるのですから、平和な街作りが簡単なわけありません。
北条と言えば、有名な風魔小太郎が率いた一派もおります。
幕府が開かれたころ「江戸の三甚内」と呼ばれる傑物がおりました。そのうちの一人である高坂甚内は、なんと風魔忍者の残党であり、江戸を荒らしまわる裏の顔がありました。
この甚内が処刑の際、悪事を認め、これからは人々の病気を癒すと言いました。このことから彼は病気治癒の神として信奉を集めます。
現代の甚内神社の由来です。
こんな風魔残党がいるとなると、幕府側も戦闘力を高め、犯罪抑止をせざるを得ません。
また、傾奇者も頭の痛い問題でした。
ファッションが奇抜なだけならまだしも、彼らは市中で暴れ回り、刃傷沙汰をも起こしかねない存在だったのです。
こうした乱世のカオスが残る環境の中で、江戸幕府の体制は、三代・徳川家光の治世で急速に固まってゆきます。
江戸に南北二ヶ所の【町奉行】が置かれたのは、その時代のことでした。

南町奉行所跡(有楽町駅前)
明暦の大火後に制定された「盗賊改」
家康の死後、四代・徳川家綱の時代の明暦3年(1657年)、江戸の歴史を決定付ける【明暦の大火】が発生しました。

明暦の大火(振袖火事)の様子/wikipediaより引用
三ヶ所からほぼ同時に出火したため、放火説が有力の大惨事。
その直後、恐るべき事態が発生します。
盗賊が跳梁跋扈し、江戸の治安が悪化したのです。
町奉行だけでは対応できず、幕府の常備軍である先手頭・持筒頭・持弓頭(あわせて持之頭)が配置されると、不審者がいれば捕らえ、抵抗するものは斬り捨て、治安を保ちました。
彼らが【火付盗賊改方】の前身――明暦の大火が、火災予防を行う【定火消】を生み出し、凶悪犯を取り締まる火付盗賊改も誕生させました。
同職は、家綱の時代に【盗賊改】となり、五代・徳川綱吉の時代となると【博打改】も設置。
盗み・火付け・博打。
これらの行為が江戸の三大犯罪だったことがわかる役職でした。
八代・吉宗「火付盗賊改」を制定する
紀州徳川家から徳川吉宗が八代将軍として江戸へ入ると、様々な改革を実施。
盗賊改と博打改を統合し、火付盗賊改としました。

徳川吉宗/wikipediaより引用
他に、吉宗の採用した画期的な制度として【足高の制(たしだかのせい)】があります。
各役職に「役高」をさだめ、それに満たぬ石高の者が就いた場合、差額分を「足高」として支給するのです。
この措置により、石高が低い者でも高い役職に就く道ができた、画期的な仕組みでした。
では火付盗賊改方はどんな環境で仕事をしていたか?
まず奉行とは異なり、仕事場となる奉行所のような場所がありません。
自邸をオフィスとし、掛かる費用も自腹を切る必要があった。ゆえに熱心に勤めれば勤めるほど、金が出ていった。
そうした理不尽が足高制によって解消され、役職に就くためのモチベーションは俄然あがります。
吉宗は働き方を見て、評価をくだす名君でした。
やればやるほど評価されるとなれば、張り切る者も当然出てきます。
ただし、素晴らしい効果だけでなく、悪しき一面も生み出してしまいました。
享保3年(1718年)に火付盗賊改となったのは、山川忠義です。
名前からして“忠義”であり、この役目にいた期間も歴代2位の長さ。
となれば、さぞかし有能であろうと考えたくなるところですが、なんと彼は「火炙り記録保持者」でもあるのです。
当時、火炙りになるのは放火犯だけでした。
放火犯をそれだけ捕まえたのであれば、有能であると思えます。そう判断したらこそ、長く務めたのだともいえます。
しかし、これを町人目線で考えてみますと、実に恐ろしいものでして……当時は「怪しい」と見なして捕らえられたら、拷問された上で自白を強要された。
日本独自の拷問制度は、江戸時代に生まれたものが多いのですが、ただ怪しいというだけで捕まり、拷問にあい、火炙りとなる――中にはきっと冤罪被害者もいたであろう、と想像すると恐ろしいとしか言いようがありません。

江戸時代の拷問の一つ「石抱」/wikipediaより引用
確たる証拠もないまま、怪しいというだけで捕縛していたら、町人に好かれるはずがない。
このことは重要な点といえます。
また、吉宗時代について補足しておきたいことがあります。吉宗は寛大な名君として当時から人気があったものの、刑罰についてはこれ以降の時代よりも厳しいものがありました。
『べらぼう』では蔦屋重三郎や山東京伝が、出版の禁を破り処罰を受けました。あの罰も吉宗時代と比較すると軽いのです。吉宗時代は出版の禁により、死罪となった者もいたほどです。
一人目の長谷川平蔵こと「宣雄」
時代がくだり、徳川家治が十代将軍に就任。
九代・徳川家重と家治の治世は、田沼意次が政治上で重要なポジションに取り立てられたため【田沼時代】とも称されます。

徳川家治(左)と田沼意次/wikipediaより引用
この時代、現代人が知ることになる“火付盗賊改・長谷川平蔵”の一人目、父である長谷川宣雄(のぶお)が就任しました。
代々当主が「長谷川平蔵」と名乗ることの多かったこの家は、四百石取りの旗本。
旗本としてのルーツを辿ると、【三方原の戦い】で討死を遂げた長谷川藤九郎正長とされます。
そんな三河以来の旗本である長谷川家は、御書院番や御小姓をも輩出する由緒正しい家でした。
石高は高いと言えません。
足高制なくして火付盗賊改となることは難しい家柄です。
宣雄の先代、八代将軍・吉宗にお目見えを果たした長谷川宣尹は、虚弱体質でした。
若くして寝たきりとなった彼には、跡を継ぐ男子がいない。
そこで叔父・長谷川宣有の子(宣雄)を末期養子に迎え、家を継がせることにしたのです。
明和8年(1771年)、先手弓頭を7年大過なく務めた長谷川平蔵宣雄は、火付盗賊改方に就任しました。
「メイワク火事」の犯人を逮捕した宣雄
翌明和9年(1772年)2月29日――江戸は南西の風が吹いていました。
この日、目黒行人坂から出火した炎は、あっという間に江戸の街を飲み込んでゆきます。
大河ドラマ『べらぼう』の第1回冒頭も、この「メイワク火事」でした。

長谷川雪堤模『火事図巻』/wikipediaより引用
原因は、火付による出火ではないか?
そう直感した長谷川宣雄は、与力・同心を動員して犯人探しを徹底。
ほどなくして同心が捕らえてきた無宿者の長五郎が、大円寺での放火を自供したのです。
長五郎は親に勘当されて以来、江戸をうろついては犯罪を繰り返す無宿者となっていました。その日もボヤを起こして盗みに入ろうとしたところ、風にあおられ炎は燃え上がり、そのまま逃げ出したというのです。
前述の山川忠義のような火付盗賊改方ならば、この時点で長五郎は火炙りにされてもおかしくないでしょう。
しかし宣雄は、犯行現場である大円寺で現場検証を行いました。
寺の住職は不在だったため、犯人と証人を突き合わせる「突合吟味」はできません。その上で判断してもよいか?と、松平武元経由で奉行所にまで届け出をして、慎重に事件を調べてゆきます。
武元は、宣雄の真摯な態度に感服し、火刑の許可を出しました。
こうして事件は解決し、江戸っ子をも感激させました。
あの規模の大火で、火をつけた犯人が捕まることはそうそうありません。しかもきっちりと状況を調べあげ、自供だけで判断を下していないのです。
実に画期的なことでした。
なお、18世紀当時、自供だけで犯罪捜査していたのは何も日本だけではありません。
世界各地で同様の捜査が行われていて、宣雄のように証拠をつきあわせ慎重な判断で裁くことは、極めて理性的で画期的だと言えます。
『べらぼう』では「あのメイワク火事の犯人を捕まえた!」として長谷川平蔵宣雄の名前が持ち出され、聞かされた側は「へへーっ!」と頭を下げていましたが、それだけの価値がある武勲だったんですね。
そして事件解決が契機となり、宣雄は異例の大抜擢をされました。
【京都町奉行】に任じられたのです。
安永元年(1772年)10月、宣雄は任地の京都へと向かいます。
しかし激務がたたったのか、翌安永2年(1773年)に宣雄は急死。
葬儀は、嫡男である宣以が取り仕切り、彼は父のもとで働いてきた奉行所の与力・同心にこう挨拶をしました。
「各々方、御堅固に勤めをこなしてくだされ。
後年、長谷川平蔵といえば、当世の英傑だと噂されるよう、私も精進いたします。
みなさんが江戸に来られることがあれば、必ず私のもとへ立ち寄ってください」
なんや随分と大口を叩くモンや……当時からそう思われたため、記録された言葉なのでしょう。
父の死により宣以は「平蔵」と名乗ります。
長谷川平蔵宣以がここに登場したのです。
とはいえすぐに火付盗賊改になるのか?というと、そうではありません。
二人目の長谷川平蔵誕生までには15年の期間があり、その“間”の姿は『べらぼう』序盤で描かれましたね。
吉原で花魁・花の井に惚れ込んで、カモにされた宣以です。
彼は父の残した遺産を使い果たし、吉原から足が遠のきました。これは何もドラマの創作でなく、実際に遊んで使い果たしてしまったのです。
しかし、若い頃に無茶をしていた経験が、後にプラスとなるのでした。
長谷川平蔵宣以が「鬼平」になるまでの日々
年代的に『鬼平犯科帳』と入れ替わるカタチで時代劇のヒーローとなったキャラに「早乙女主水之介(さおとめもんどのすけ)」がおります。
1929年から11作発表された佐々木味津三『旗本退屈男』シリーズの主人公。
千石を超える大身の直参旗本ながら、無役なので暇を持て余し、事件に巻き込まれてゆくというもので、『鬼平犯科帳』シリーズが始まる前は、テレビドラマや映画原作の定番でした。

『旗本退屈男』(→amazon)
さて、なぜこの話をしたのか?と申しますと、大言壮語して江戸に戻った平蔵は、旗本でありながら退屈を持て余す境遇に陥ってしまったからです。
早乙女主水之介よりも禄高が低い、リアル旗本退屈男――。
旗本には「役有り」と「役無し」があり、三千石以上は「寄合」で、それ以下は「小普請組」とされます。
江戸に戻った平蔵は「役無し」で、禄高は四百石ですから「小普請組」ですね。
江戸城に登ることもない。
仕事もない。
エネルギッシュで父の英名も背負い、かつ京都で大言壮語してきた平蔵には、かなり辛い日々となったでしょう。
なんせ、平蔵このとき30歳、而立(じりつ)の歳です。
脂の乗り切った身には虚しい日々であり、その鬱屈を晴らすためか遊里に出入りしてはパーッと遊んでしまいました。まさに『べらぼう』序盤の姿ですね。
ドラマでもいったん姿を消し、その後、偽板事件で再登場した際には、退屈男状態は脱しています。
明和4年(1774年)、ようやく旗本のごく一般的なルートである御書院番・小姓組へ配属されていました。
「どうにも性に合わない」と劇中でもそんな風にボヤいており、「奉行所勤務を目指している」と彼自身の口から語られています。
彼はようやく、自分の目指す道へのルートが開けてきました。
天明4年(1784年):徒歩組の指揮官を取る西丸徒頭
天明6年(1786年):番方(武官)の要職・先手弓頭就任
こうした役職を経ていなければ火付盗賊改方にはなれず、任期中に大きな事件も起きました。
十代将軍・徳川家治が急死し、その信頼を得ていた田沼意次が失脚してしまうのです。
田沼派と後任者・松平定信派の政治闘争はその後も続き、江戸城は内も外も大変な状態に陥ってしまいました。
天明年間は火山噴火に大飢饉と、民の生活を苦しめる災害が続発しています。

浅間山の天明大噴火を描いた「夜分大焼之図」/wikipediaより引用
町人の不満という煮えたぎった油に、家治死後の混乱が火をつけたようなもの。
江戸の街では大騒擾が起き、まさに無政府状態のようなとんでもない事態に陥りました。儲けを貪っていたとされる商家が襲われ、略奪が横行していたのです。
奉行だけでは抑えきれぬ中、先手組弓頭である長谷川平蔵宣以にも、出動が命じられます。
このとき際立った活躍を遂げ、彼の名前は幕閣中枢まで届きました。『べらぼう』では、打ち壊しの中で何かと暗躍する“丈右衛門”を弓矢で射抜く平蔵の姿が印象的でした。
松平定信としても、彼を火付盗賊改方に据えるほかありません。定信は文武を奨励しておりましたから、平蔵のような人材の抜擢は必然でした。
宣以には悪評がつきまとっており、その根源は彼が田沼時代に出世していたということが挙げられます。
性格的にも、どちらかといえばアイデア重視、山師の時代とされた田沼時代の申し子のようなところがありました。
定信自身、あるいは彼の目に適った者たちと宣以は、相性があまり良くなかったであろうと思われます。
二人目の長谷川平蔵こと「宣以」
天明7年(1787年)、42歳の長谷川平蔵宣以はついに火付盗賊改方、当分加役とされます。
翌天明8年(1788年)には加役を免じられながら、同年には再度加役とされる。
彼の就任時期は、治安が悪化しておりました。
終わることのない不況の中、犯罪に手を染める者が出てくる、そんな時代です。
真面目に生きても希望も何もない、ならば太く短く生きてやらぁ!と、自暴自棄になり、短絡的な凶悪犯となるものも出てきます。
一方で、表と裏の顔を使い分けるような知能犯も出没しました。
『鬼平犯科帳』はフィクションでありエンタメとはいえ、それが成立するだけの時代ともいえます。
強盗団が押し入り、殺しも辞さずに荒らして回る不良青年団。
女であれば、年齢を問わずに嬲ってから殺す、強盗兼性犯罪者・葵小僧。
屋根の上を素早く飛び回る、悪の火消し人足。
表の顔は目明かしの頭(与力や同心に雇われた者)でありながら、裏の顔では吉原に女を隠し置く者など。
フィクションに出てきてもおかしくない、「小僧」だのなんだの異名がついた犯罪者が実際にいたのです。『べらぼう』では葵小僧が登場していましたね。
こうした凶悪犯を捕らえる宣以は、機転が利き、明快な裁きをしてきました。
彼の場合、江戸っ子にとっては恐ろしいから「鬼」ではなく、あまりに強く有能であることから「鬼」とされたのです。
なんせ宣以は、江戸っ子たちの心を掴む豪快で慈悲深い性格でした。
気前がよく、部下に酒食をふるまい、町人が捜査に協力すれば蕎麦をご馳走してくれたといいます。

深川江戸資料館に展示されている江戸時代後期の「風鈴蕎麦」の屋台/wikipediaより引用
彼の家では、毎朝、大釜にたっぷり飯を炊いていました。博打や遊蕩ですってんてんになった遊び人の類が、飯にありつきたくて立ち寄ります。
宣以は、出歩く際には小銭を持ち歩き、物乞いに配る姿も目撃されています。
こうした人脈から思わぬ事件のヒントを聞き、解決することもあったのです。
昭和の刑事ドラマでは、取り調べの際、刑事やカツ丼を取ることで口を割らせる場面が定番でした。宣以の温情も、それと似た効果があったんですね。
自らが裁き、刑死したものの菩提を弔う慈悲深さもありました。
そりゃあ、江戸っ子に人気が出るってもんで。
「今大岡(※現代版大岡越前・名奉行)とはあの人のことサ!」
「本所の平蔵さま、ありがてえや!」
江戸っ子たちはうっとりと彼を讃えるようになりました。
京都での大言壮語から十年以上を経て、確かに「長谷川平蔵」の名は英雄のものとして知れ渡るようになったのです。
一方、そんな宣以に「胡散臭い奴だ」という評判もつきまといました。
気前の良さや優しさなんてパフォーマンスだ、ろくに字も読めない奴のくせに!と囁く声もあったのです。
宣以は、有能で公明正大、実にいい男でしたが、パフォーマーとしてあまりに立ち回りがうますぎるという点が「胡散臭い」としても認識されたようです。
抜擢した松平定信も、宣以の「山師」気質を疎ましく感じていました。

松平定信/wikipediaより引用
無宿者を減らし更生させる人足寄場
宣以の偉大なところは『鬼平犯科帳』の世界の外にもあります。
なぜ、人は悪事を働くのか?
根っからの悪党などそうそうおらず、食うに困ってのことではないか?
そんな先進的な考えがあり、寛政元年(1789年)、宣以は松平定信に【人足寄場】の設置を建言しました。
江戸石川島に無宿人(住所不定の者・犯罪者となるケースが多い)、刑期を終えた者を収容し、寄場建設に動員したのです。

『江戸名所図会』右ページ中段より上にある島に石川島人足寄場はあった/国立国会図書館蔵
これが実に画期的な提案でした。
作業をさせなら建築業に必要な技術を教え込み、人足寄場を出てからも手に職をつけ食べていけるようにとりはからったのです。
医療施設もあり、病気や怪我に倒れたものは手当を受けられました。
幕府も、こうした犯罪者更生と労働を兼ねた制度を模索していましたが、長谷川平蔵宣以はさらに一歩進んだものといえる。
世界史的にも画期的な事業でした。
例えば近代イギリスの【救貧院】は、名前こそ「貧しき者を救う」となっていますが、現実は懲罰的な要素が強く、劣悪なものでした。
明治時代初期の網走監獄も、囚人を労働力とする点では共通していながら、その境遇は、江戸時代以下だったのでは?とすら思わされます。
思えば、田沼時代が終わったあと、江戸っ子たちは「これで世の中がよくなる!」とはしゃいだものです。
しかし現実は甘くない。
松平定信がいかに改革をしようと、どうにもなりません。
宣以も、そんな世の中には苦しめられています。定信の志も理解しています。苦しい中でも少しでもよくしたい。
そう思えばこそ、知恵を絞って【人足寄場】をどうにかしようとしてました。予算が減らされても平蔵は知恵を絞り、なんとか続けたのです。
生真面目な定信からすれば、宣以はどこか大ボラを吹くような、「山師」じみたところがあるように見えると先ほど記しました。
しかし、そういう者でなければ「人足寄場」などできないと、後に彼は振り返っています。
そしてその成果は、やがて見えてきます。
江戸の無宿人の数が減ったのです。
長谷川平蔵には、松平定信統治下での治安回復という大きな成果となりました。
そして軌道に乗ったと見なされたのでしょう。
寛政4年(1792年)、平蔵は人足寄場を解任。
寛政3年(1791年)には江戸町奉行が空席となっていましたので、「次は平蔵様にちげぇねぇ!」と胸を躍らせる江戸っ子もいたとされますが、そううまくはいきません。
間の悪いことに、寛政5年(1793年)、平蔵が信頼していた松平定信が失脚してしまうのです。
そしてその2年後の寛政7年(1795年)、長谷川平蔵宣以は病に倒れました。
11代将軍・徳川家斉から「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を賜るも、思うように動けない以上、火付盗賊改方を辞任するしかありません。
それからわずか三日後、平蔵は亡くなりました。
江戸のために駆け抜けた、五十年の生涯でした。
令和の現在、東京の隅田川沿いには高層ビルが建ち並んでいます。
現在、佃と呼ばれるエリアに、かつて平蔵が指揮をとった【人足寄場】がありました。
東京を代表するウォーターフロントが、江戸時代は犯罪者更生を担う場所であったのです。この人足寄場はのちの府中刑務所の前身とされます。現代を生きる私たちにとっても、長谷川平蔵は恩人といえます。
幕末へ向かう中、江戸関東の治安は悪化する
長谷川平蔵宣雄と宣以の活躍は見事なものです。
彼らを目指し、火付盗賊改方が奮闘するかと思っていると、期待を裏切られます。
むしろ後任者は宣以が江戸っ子から絶賛された行動を、パフォーマンスだと苦々しく書き記すことになります。
治安も悪化する一方です。
特に関八州と呼ばれる江戸近郊の悪化は著しく、住民は自衛の必要性を痛感させられることになります。
当時、関東では犯罪者を住民が自力で捕縛し、幕府方から役人が引き取りに来るまで監禁しておかねばなりません。これを引き取る幕府役人が「関東取締出役」、いわゆる「八州廻り」です。
彼らが来るまでの逮捕は、あくまで民衆に委ねられています。住民自ら、犯罪抑止せねばならぬ厳しい現実の中では、鍛錬が必要とされてくるのです。
こうした自衛のために生み出された流派が、新選組でおなじみの【天然理心流】です。
江戸時代、剣道はあくまでスポーツであり、武士が礼を学び、心身を鍛えるためのものでした。
しかし【天然理心流】は凶悪犯に立ち向かう実践の剣術であり、相手を無力化させるために確実に殺傷する技や、集団戦術をも身につくものとされてゆくのです。
のちにこの【天然理心流】を身につけた多摩出身の青年たちが、新選組として京都の治安を守ることとなります。
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話を火付盗賊改方に戻しましょう。
黒船来航以来、やはり治安は悪化し続けます。
過激な攘夷思想を身につけた青年たちは【志士】と名乗りました。
世直しだのなんだの言えば、目先の格好はつくものの、やってることは結局テロリズム。
なんせ大老である井伊直弼が、江戸の街で襲われて殺される時代が到来しました。

「桜田門外の変」を描いた様子/Wikipediaより引用
この成功に遅れをとるまいと、志士たちは幕閣中枢まで襲撃し殺そうとします。
横浜に居留地ができ、外国人が暮らし始めると、志士は彼らを標的にし出しました。
幕府はこうした外国人警護にも人員を割くこととなり、負担は増大するばかり。
そんな殺伐とした世情は、江戸っ子がこよなく愛する浮世絵にも反映されます。
人気絵師であった歌川国芳の没後、その門下でもトップスターともいえる落合芳幾・月岡芳年の作品に『英名二十八衆句』があります。
惨殺場面が揃うグロテスクなものですが、これは何も絵師の猟奇趣味ではありません。
版元が「無惨な絵でやってみよう!」と判断し、江戸っ子が「こういうのが欲しいんでぇ」と思うからこそ、成立したのです。
国芳は弟子たちに「喧嘩や火事があれば見に行け」と教えていました。
真面目な芳年は生首をスケッチし、【上野戦争】でも現場を絵に描き残したとされています。
なんとも殺伐とした世の中となったものです。

月岡芳年『英名二十八衆句 直助権兵衛』/wikipediaより引用
幕府は制度の立て直しに取り組みました。
文久2年(1862年)、それまで加役であった火付盗賊改方は独立した役職とされ、任じられた者の中には“イケメン”としてしばしば話題にのぼる池田長発も含まれています.

池田長発/国立国会図書館蔵
しかし、彼らが活躍できる余地はもはやありませんでした。
それほどまでに治安が悪化していたのです。
そんな殺伐とした中、幕末のぶっとび犯罪者カップルも誕生しています。
旗本・青木弥太郎と、吉原桐屋の遊女・賑(にぎわい)であった辰。
「雲霧のお辰」と名乗り、悪事を働く仲間でもありました。弥太郎が戯れにこの辰に生首を持たせると、こう返したとか。
「血が垂れちまう、手拭いを寄越してくんな」
なんとも度胸の座った女です。
彼女は明治以降、毒々しい実録もののヒロインとしてフィクションにも登場。
青木弥太郎は囚われて、石抱きのような拷問をされても耐え抜きました。
そして維新の動乱の中、釈放されて世に放たれたのです。
江戸の治安は、もはや幕府だけでは守りきれません。会津藩が京都を警護したように、江戸は庄内藩が警護することとなりました。
そんな彼らに、最後の凶悪犯罪集団が襲いかかります。
慶応4年(1868年)、土佐藩の思惑もあり、徳川慶喜は大政奉還を行いました。
無血のうちに徳川の世は終焉を迎えたわけですが、どうしても戦を始めたい連中がいる。
会津藩に怨念を抱く長州藩。
徹底的に幕府を潰したい好戦的な薩摩藩上層部。
そして日本で内戦を起こし、アメリカ南北戦争で余った武器を売り捌きたい、イギリスはじめとする西洋列強です。
しかし大政奉還が無事に済んでしまえば、もはや戦争は起きない――そう頭を悩ませた薩摩藩は、おそるべき手を思い付きます。
薩摩御用盗です。
薩摩藩士や攘夷志士を募り、江戸および関東近郊で凶悪犯罪を続発させるのです。
江戸の民衆を襲い、殺し、金品を奪い、犯人たちは薩摩藩邸へと消えてゆく。こうして挑発を続けていれば、いずれ幕府も動かざるを得ないだろう――そう目論んだのです。
薩摩御用盗は、漫画および時代劇『いちげき』でも描かれていますが、あまりの凶悪犯罪に、江戸警護を担当する庄内藩はしびれを切らし、ついに薩摩藩邸を襲撃しました。
彼らの狙いはあたったのです。
真面目に京都を警護した会津藩と、江戸を守った庄内藩は、江戸っ子の人気を集めていました。
その二藩が朝敵と名指しされると、奥羽越列藩同盟が立ち上がり日本は内戦・戊辰戦争へ突入するのでした。
かくして迎えた御一新のあと、奇怪な歴史が展開されます。
江戸の街を襲っていた薩摩閥出身の川路利良が、初代大警視として警視庁を指揮。
その川路のもと、ついこの間まで江戸を荒らし回っていた薩摩藩士が、羅卒(らそつ・巡査)となって江戸改東京の街の平和を守ることとなったのです。
いくらなんでもそりゃねぇだろ!
山田風太郎は『警視庁草紙』で、警視庁に挑む元同心を描いております。
漫画にもなりましたので、ご興味のある方はぜひ手に取ってみてください。
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参考文献
- 丹野顯『「火附盗賊改」の正体 ―― 幕府と盗賊の三百年戦争(集英社新書 0851)』(集英社, 2016年9月16日, ISBN-13: 978-4087208511)
出版社: 集英社新書(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 重松一義『鬼平・長谷川平蔵の生涯』(新人物往来社, 1999年3月10日, ISBN-13: 978-4404026714)
書誌: 国立国会図書館サーチ|
Amazon: 商品ページ - 楠木誠一郎『水戸黄門は旅嫌いだった!?:種明かし日本史20人の素顔(朝日選書 794)』(朝日新聞社, 2006年3月10日, ISBN-13: 978-4022598943)
出版社: 朝日新聞出版(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 『江戸・東京を造った人々 1 —— 都市のプランナーたち』(『東京人』編集室 編, ちくま学芸文庫, 筑摩書房, 2003年8月6日, ISBN-13: 978-4480087874)
出版社: 筑摩書房(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ





