江戸時代

知恵伊豆と呼ばれた天才・松平信綱の生涯~島原の乱を制し家光と家綱時代を支える

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島原の乱

徳川家光時代の松平信綱について、よく伝わっているのが【島原の乱】でしょう。

寛永十四年(1637年)に起きたこの争乱。

当初は板倉重昌が対応していたのですが、彼が小藩主という立場であり、家柄や身分も高くなかったため、現地の大名たちにナメられまくってうまくいきませんでした。

板倉重昌/wikipediaより引用

「戦場でそんなこと言ってる場合か?」とツッコミたくなりますが、当時の武士は誇りに鎧兜を着せて歩いているような人たちですから、致し方ありません。

その上、原城に立てこもっていた一揆勢の士気が高く、なかなか戦況が動きませんでした。

事態が進展しないことを重く見た幕府では、松平信綱と美濃大垣10万石の大名・戸田氏鉄を送って、挽回を図ります。

これで焦ったのは重昌です。

「信綱たちが来る前になんとかせにゃならん!」

とばかりに寛永十五年(1638年)1月1日、城へ総攻撃をしかけました。

しかしその戦闘の最中、眉間に鉄砲の狙撃を受けて討死してしまうことに……。

もちろん重昌一人の犠牲で済むはずがなく、幕府軍は4000もの犠牲を出したともいわれています。

信綱にとっては最悪の状況でした。

重昌が居なくなっては、これまでの経過を詳細に聞くことができず、貴重な兵まで減らされてしまった。

当然、現地にいた幕府軍の面々もそれは承知しており、これ以上、信綱の機嫌を損ねてはマズいと考えたのか、色々と接待を試みます。

信綱はそんなわかりやすい手には乗りません。

酒食どころか風呂や布団、そして小屋まで断って野宿したというのですから徹底していますよね。

しかし、そうした頑固な姿勢が、かえって他の幕府軍の信頼を勝ち取るのですから不思議というか、当たり前というか……。

既に数ヶ月もの長滞陣が敷かれ、大名の中にも寝る場所に不自由する人が出ていたほどの状況でしたから、信綱がいかにも“お偉いさん”という振る舞いをしてしまったら反感を買いまくったことでしょう。

信綱は自ら劣悪な状況に身を投じることによって「私は戦場の指揮に来たのだ!」と示したのです。

こんな上役だったら、そりゃーついていきたくなりますよね。

しかも、同行した戸田氏鉄も戦に関する知識に長けており、諸大名を唸らせたそうで、なぜ最初からこの二人を選んでおかなかったのかとツッコミたい気もしますね。

大垣城にある戸田氏鉄像

一応フォローしておきますと、板倉重昌も家康の側仕えから出世して大坂の陣に参加しており、戦国時代の経験値では信綱に勝っていました。

ただ、うまくいかないときに自制心を保てなかっただけで……まぁそれが将の器というものなのでしょう。

 


冷徹な兵糧攻め

現場で指揮を任された松平信綱は、原城を完全に孤立させ、兵糧攻めで落とすことにしました。

城を取り囲んでいる間、各大名軍には一切の攻撃をさせず、一揆勢の奇襲に備えて防備を固めさせ、火の元を徹底管理するよう命じます。

長期戦となると気の緩みから思わぬ事故や火災を招きがちですから、地味ながら大切なことでした。

・士気の高い相手に対してはまず心を折ること

・籠城戦は基本的に城側が有利なこと

・相手の数が多ければ多いほど兵糧攻めが効果的なこと

こうした戦のセオリーがわかっていれば、城方の士気が高いうちに総攻撃を仕掛けることがどれだけ危険か、明白なはず。

総攻撃を仕掛けようとする重昌を、家臣が体を張って止めてくれれば、4000人もの兵が道連れになることもなかったでしょう。

無謀な攻撃からの大敗は、仙石秀久の【戸次川の戦い】を彷彿とさせますね。

むろん松平信綱はそんな下手を打つわけがなく、まずは投降を促す使者を送り、首魁・天草四郎の親族を捕えて説得を試みたり、心折作戦を続けます。

なかなかエゲツない作戦ですが、それでも頑強な一揆勢は降伏を選びませんでした(一部降伏説もあり)。

「島原御陣図」/wikipediaより引用

同時に信綱は城内や近辺の様子を調べさせた上、

打って出てきた一揆勢の死者の腹を割かせて、兵糧が尽きていることを確認した

という、凄まじいエピソードも伝わっています。

冷静さを表す話ではありますが、基本的に解剖が許されていなかった時代だったことを考えると、いやはやなんともはや。

一揆勢=反乱者=罪人だからOK、という考えですかね。

そして2月27日に総攻撃を始めると、天草四郎はもちろん、一揆勢をほぼ皆殺しにしてこの乱は幕を閉じました。

信綱が来てからの幕府軍は、最低限の犠牲で済んだと考えられます。

いくら知恵伊豆とはいえ、実践経験のない戦場でいきなり12万もの大軍を任せられることになったのですから、とにかく結果が出て、喜ばれたことでしょう。

こうして信綱たちが大仕事を終え、無事江戸へ帰還すると、それから200年以上、日本国内での戦はなくなります。

島原の乱という大きな幕引きに成功した信綱。

その功績により、寛永十六年(1639年)1月5日に川越(埼玉県川越市)6万石へ領地替えとなります。

これを多いと見るか、少ないと見るか。この地では、信綱が藩主になる直前の寛永十五年(1638年)に大火災も起きています。

普通なら「そんな土地をあてがわれてどこが褒美なんだ?」とツッコミたくなるでしょう。

しかし、そこは信綱、街の区画整理の好機と捉えたのか、城の拡張や市街の整備を行わせています。

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