松永久秀の浮世絵

三好家

なぜ松永久秀は二度も織田信長を裏切ったのか?大和を巡る執念と決断

大河ドラマ『豊臣兄弟』で竹中直人さんが演じて注目の松永久秀――。

かつての彼は斎藤道三や宇喜多直家らと共に「戦国時代の三大梟雄」と呼ばれ、謀略や謀殺を駆使する人物像で知られていた。

三好家で大出世を遂げながら、その後は上洛した織田信長に近づき、しかもその信長を二度も裏切った経歴があるからだろう。

こいつはヤバい!

ドラマの中でも竹中直人さんが怪しげな雰囲気を醸し出していたが、二度の裏切りの経緯を史実から見ると、決して謀略だけの人物ではなく、他に選択肢がなかったからとも思えてくる。

いったい久秀に何があったのか?

松永久秀の浮世絵

『太平記英勇伝:松永弾正久秀』落合芳幾作/wikimedia commons

 

天下人・長慶を支え 後に三好家と対立

松永久秀は永正五年(1508年)生まれ。

摂津五百住(よすみ)の土豪出身とされ、経緯は不明ながら三好長慶に仕えて重臣となり、後に天下人になった長慶や三好家を支えた。

久秀は文化的素養も兼ね備えていて、本人が築いた多聞山城(奈良市法蓮町)は荘厳な天守閣や内装が施されていたことが記録に残っている。

とても“梟雄”というような人物ではない。

しかし永禄七年(1564年)に長慶が亡くなり、風向きが変わってしまう。

永禄八年(1565年)に三好義継や松永久通(久秀の嫡男)によって「永禄の変」が勃発。

13代将軍・足利義輝が殺されるという前代未聞の事件が起きた。

この争いは「御所巻(ごしょまき・将軍御所を取り囲んで要求を突きつけること)」であって本当は殺害までは意図してなかったという見方や、最初から殺害目的だったという指摘もある。

いずれにせよ、後世、久秀の悪名を駆り立てるのには十分だったであろう。

しかも永禄の変後に、久秀はかつて身内であった三好三人衆との合戦に発展し、永禄十年(1567年)には「東大寺大仏殿の戦い」で大仏殿を焼いてしまうという大失態を犯してしまった。

東大寺盧舎那仏像

東大寺盧舎那仏像

この大仏焼失については松永久秀だけが悪いのではなく、双方からの放火が原因であったと目され、どちらか一方に責任があるというわけではない。

※詳細は別記事「東大寺大仏殿の戦い」へ

それでも久秀の悪名を轟かせるには十分過ぎるインパクトがあろう。

 


信長の上洛

永禄十二年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。

織田の軍勢に駆逐される三好三人衆に対し、以前から誼を通じていた松永久秀は信長の覚えもよく、大和一国を安堵される展開。

久秀は、娘を人質として出し、さらには天下の名物『九十九髪茄子』まで献上していた。

上洛をしてからの信長は茶器を買い集める、いわゆる「名物狩り」に熱中しているが『九十九髪茄子』が影響を与えた可能性も高いだろう。

後日には信長の求めに応じて名画『煙寺晩鐘図』(参照:畠山美術館)も献上している。

前述の通り、一定の文化的素養がなければできない芸当でもあるはず。

むろん、そうした政治的配慮だけではなく、合戦や外交も経験豊富であり、元亀元年(1570年)には信長の窮地も救っている。

織田信長の肖像画

織田信長/wikimedia commons

織田軍が朝倉義景へ攻め込み、背後から浅井長政に裏切られたときのことだ。

金ヶ崎の退き口」と呼ばれる撤退戦が豊臣秀吉や明智光秀によって繰り広げられ、越前から京都まで逃げる信長――そんな絶体絶命の状況で信長の退路を確保するため、朽木城の朽木元綱を説得したのが久秀だった。

そんな久秀が、なぜ信長を裏切ることになったのか?

 

一度目の離反

浅井朝倉を敵に回し、窮地に立たされていた織田家。

松永久秀は元亀元年(1570年)7月、信貴山城に入って、三好三人衆の来襲に備えた。

同年11月には、久秀が主導して、信長と三好三人衆の間で和睦交渉を始め、信長のもとにいた久秀の娘を信長の養女として三好家に嫁がせる約束をして、和睦を取りまとめる。

まさに外交力が発揮された場面である。

しかし元亀二年(1571年)、足利義昭が思わぬ行動に出る。

大和の支配を巡り久秀と敵対していた仇敵・筒井順慶を赦免して、久秀の大和支配をぐらつかせたのだ。

筒井順慶の肖像画

筒井順慶/wikimedia commons

その結果、松永軍と筒井軍が8月に激突。

惨敗した久秀は、三好勢と共に足利義昭・織田信長から離れることになった。

浅井朝倉だけでなく本願寺や武田信玄にも通じ、信長に背いて多聞山城に籠もったのだ。

元亀四年(1573年)になると、織田信長と決別した足利義昭も信長包囲網に加わり、久秀も義昭の「御一味」に加わる。

こうした久秀の裏切りをどう見るか?

キッカケは筒井を登用するという足利義昭の判断から始まっており、その義昭も信長と対立して久秀と同じ陣営に加わるのだから、なんとも後味はよろしくない。

実際、武田信玄が三方ヶ原の戦い後に死亡すると、信長包囲網は瓦解。

天正元年(1573年)に入ると足利義昭は信長と和睦を結び、すぐさまそれを反故にして、同年7月、槇島城の戦いで信長に敗れて追放されている。

さらに11月には三好義継も敗れたため、12月に久秀は降伏し、天正二年(1574年)の年始には自ら岐阜へ赴いて赦免への礼を述べている。

このときは名刀『不動国行』を献上したとされる。

松永久秀の肖像画(高槻市立しろあと歴史館蔵)

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons

 

二度目の離反

次の離反は、天正五年(1577年)のことだ。

当時、信長から北陸方面を任されていた柴田勝家らが「手取川の戦い」で上杉謙信に完膚なきまでに敗れ、畿内では石山本願寺との対立も膠着していた。

すると松永久秀は、石山本願寺を囲んでいた天王寺砦から勝手に退去して、再び信長に背いたのである。

今度は信貴山城(生駒郡平群町)に籠城したが、裏切った理由は定かではない。

信長が筒井順慶に大和の支配を認めたり、多聞山城を破却したことなど、日頃から募っていた不満に耐えきれなくなったのでは?という指摘がある。

たしかに大和の支配は久秀にとって譲れないラインであり、本拠地にこだわりのない信長にとってみれば理解しがたい状況だったのかもしれない。

そのため信長は、久秀に対して説得の使者を送っている。

二度目の裏切りでも信長が赦そうとしたのは、使える人物に対しては寛容であるという信長の特質もあるだろう。

あるいは、それほどに久秀が有能だったか。

いずれにせよ、久秀は翻意せず、信貴山城に籠り続けたため、松永家から出されていた幼い人質二人が京都で処刑されることになった。

まだ12~13歳だったとされる少年たち。

戦国時代の少年イメージ

信長公記』によると、その処刑を命じられた村井貞勝が哀れんで「宮中へ駆け込んで助命を頼め」「親兄弟に手紙を」などと勧めたという。

しかし人質たちは「助命はありえない」「この成り行きでは親への手紙は無用」といずれも断った。

その上で世話役だった佐久間盛明にだけ、これまでの親切に対するお礼の手紙を書いたとされる。

あまりにも健気で思慮分別のある少年たち……。

著者の太田牛一もまだ幼い彼らの運命を憐れみ、書き残すことにしたのだろう。

 


最期

天正五年(1577年)9月、松永久秀の討伐に向かったのは、嫡男の織田信忠だった。

すでに織田家の家督は譲られており、信長に代わって総大将として信貴山城へ。

柴田勝家と仲違いして「手取川の戦い」の戦場から勝手に退却した豊臣秀吉もこの陣営に加わっている。

10月1日から始まった合戦で、久秀は粘り強く戦った。

しかし、所詮は多勢に無勢であり、10月10日には天守に火を放って自害。

月岡芳年『芳年武者牙類:弾正忠松永久秀』

月岡芳年『芳年武者牙類:弾正忠松永久秀』/wikipediaより引用

このとき名物の茶釜『古天明平蜘蛛』とともに爆死した、あるいは自ら打ち割ったとされるが、これは後年の創作である可能性が高い。

「後日、平蜘蛛の破片を拾い集めて復元した」「信貴山城の跡から発掘した」とされる話も伝わっている。

似たような特徴の茶釜の形容として「平蜘蛛」を用いた可能性もあるが、真偽の証明は困難だ。

また、10月10日はかつて永禄十年(1567年)に起きた「東大寺大仏殿の戦い」と同じだったため、世の人は「報いである」と表したともいう。

東大寺大仏殿や永禄の変、あるいは二度の裏切りなど。

マイナスイメージが依然として燻っているため、“梟雄”という評価が残されている松永久秀。

ここまで記したとおり、二度の裏切りについても久秀にとっては譲り難い“大和の支配”や”筒井順慶の去就”を巡ってのものであり、自らの野心や謀略から起こしたわけではない。

そんな悲哀を大河ドラマ『麒麟がくる』では吉田鋼太郎さんが見事に表現されていたが、今年の『豊臣兄弟』では竹中直人さんがどう演じるか。

非常に興味深い人物であろう。

※なお、松永久秀の詳細については別記事「松永久秀の生涯」も併せてご覧いただければ幸いです。

◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

天野忠幸『戦国武将列伝8 畿内編【下】』(2023年2月 戎光祥出版)
谷口克広『信長の政略』(2013年6月 学研プラス)
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
日本大百科全書(ニッポニカ)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(2005年3月 吉川弘文館)

【TOP画像】『太平記英勇伝:松永弾正久秀』落合芳幾作/wikimedia commons

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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