大河ドラマ『豊臣兄弟』の第10回放送で描かれた、織田信長の上洛戦。
あまりにテンポよく進み、合戦シーンもあっという間に終わって、拍子抜けした方もいるかもしれません。
「上洛とは、これだけなのか」
「他に敵はいなかったのか」
そう感じたとしても無理はないでしょう。
しかし史実では、信長は京都へ入るだけでなく、六角氏の観音寺城・箕作城などを攻略し、さらには三好勢の勝龍寺城・芥川城・池田城なども制圧しています。
上洛戦とは単に京都へのぼるだけでなく、畿内の実権を握っていた三好勢の排除までを含む、大規模な軍事行動だったのです。
では、実際どれだけの戦いがあったのか。『信長公記』や『言継卿記』などの史料から一部始終を振り返ってみましょう。
足利義昭の要請
そもそも足利義昭は、なぜ上洛など望んだのか。
キッカケは永禄八年(1565年)に起きた「永禄の変」でした。
義昭の兄である足利義輝が三好勢に殺され、将軍職の座が空位になると、当時、僧侶だった覚慶(後の義昭)が次の将軍候補に担ぎ上げられたのです。

足利義昭/wikimedia commons
しかし、義昭が近江や越前でくすぶっているうちに、三好勢が擁立した足利義栄に先を越され、14代将軍の座を奪われる展開となります。
その直後、義昭にも絶好のチャンスが回ってきます。
永禄十年(1567年)8月、ついに美濃を制圧した織田信長が、義昭の上洛に応じることとなったのです。
実は、足利義昭と織田信長の間では、永禄九年の8月にも具体的な上洛計画がありましたが、直前になって三好三人衆や六角氏の邪魔が入り、中止に追い込まれていました。
しかし信長が美濃の攻略に成功したことで、話は再び持ち上がったのです。
永禄十一年(1568年)9月7日、4~6万とされる織田軍はついに上洛の出陣を敢行しました。
上洛ルート
実際に進む前に、まずは岐阜から京都までの重要拠点を確認しておきましょう。

信長上洛ルート/Googleマップより引用
右側の黄色い拠点が織田信長の岐阜城(出発地点)であり、中央の赤い拠点が六角義賢の箕作城(右)と観音寺城(左)、そして一番左の紫色が正親町天皇の京都御所となります。
直線的に見れば遠征距離はそこまで長くありません。
しかし、上洛を阻む勢力は各所に存在していました。
①北近江の浅井氏
②南近江の六角氏
③京都や周辺エリアの三好三人衆
まず①の浅井氏については、前年の永禄十年(1567年)に若き当主・浅井長政のもとへ、信長の妹・お市の方が輿入れを済ませていました。
当時は長政23歳、お市18歳であり、若く眩しい夫婦であったことでしょう。
その領内を行軍することは全く問題はありません。
最初の壁は、南近江(滋賀県南部)の六角義賢です。
近江源氏・佐々木氏の流れを汲む名門一族の彼らは、兵力も決して侮れず、しかも説得工作も思うようには進みませんでした。
信長は、わざわざ近隣の城(佐和山城)まで出向き、六角氏へ人質を出す代わりに安全な通行を認めてもらうなどの条件を提示しましたが、結局、六角には断られていたのです。
となれば、もはや武力で解決するしかありません。
仮に六角氏を攻略して西へ進んでも、五畿内エリアに入れば三好三人衆などの三好勢が待ち構えていました。

三好三人衆の一人・石成友通(落合芳幾作)/wikimedia commons
彼らは以前から信長に敵対しており、合戦は避けられない状況です。
逆に言えば、六角氏と三好三人衆を蹴散らせば、上洛戦は成功となります。
果たして信長はどう戦ったのでしょう?
観音寺城・箕作城の攻略
永禄十一年(1568年)9月7日、総勢4~6万とされる大軍で出発した織田軍。
足利義昭は、この先の安全が確保されるまでは美濃で待機です。
初日の織田軍は、美濃の平尾に陣を張り、翌日、近江へ入ると、11日には早くも観音寺城と箕作城の付近まで近づきました。
周辺エリアには、この二つの城以外にもいくつかの支城がありましたが、信長は自ら馬に乗って検分すると、最初のターゲットを箕作城(赤い拠点の右側)に定めます。
あらためて以下の地図をご覧ください。

信長上洛ルート/Googleマップより引用
中央の赤い拠点の箕作城と観音寺城は、直線距離でわずか2kmしか離れていません。
両城は距離が近く、防御時には相互に連携することを想定していた可能性があります。
翌12日、信長はまず箕作城をターゲットに定めます。
そして佐久間信盛、豊臣秀吉、丹羽長秀、浅井政澄に命じて攻めさせるのですが……これが、わずか数時間で陥落。
観音寺城の六角義賢も、その様子を確認していたのでしょう。
13日にいざ織田軍が観音寺城へ攻め上がると、彼らはすでに伊賀へ逃亡していました。
あまりに呆気ない展開。
周囲にあった12の支城からも相次いで人質が送られてきます。
織田軍にしても、ほとんど無傷という上々の首尾であり、信長はこの時点で美濃の立政寺にて待機していた足利義昭を呼びにやります。
連絡役を務めたのは美濃三人衆に次ぐ実力者で、“美濃四人衆”ともされる不破光治でした。
入京
足利義昭は9月22日、観音寺城の近隣にある桑実寺(くわのみでら・近江八幡市)に到着。
以降は、琵琶湖の湖上ルートを利用して西南、つまりは京都方面へと進み、26日には三井寺極楽院や大津の馬場・松本に陣を張ります。
そんな織田軍の快進撃を知った三好三人衆らは、京都市街から逃げ出し、摂津、河内の拠点へ向かいました。
ただし、市街のすぐ西南にある勝龍寺城には、三好三人衆の石成友通(いわなりともみち)が500の兵と共に立て籠もっています。
14代将軍の足利義栄もこのころ摂津で病没し、信長・義昭にとっては上洛と将軍就任に向けた条件が整っていきます。
そしていざ入京――。
26日、ついに京都入りした義昭は清水寺、織田信長は東寺に陣を構えます。
三好三人衆の石成友通(いわなりともみち)が立て籠もる勝龍寺城(長岡京市)までは、約10km、徒歩で2時間半という距離。
しかし上記の地図をご覧のとおり、京都市内の市街地を通るわけで、何かと警戒しながら進まねばならない状況でもあります。
特に京都の市民や公家たちは「尾張の田舎大名が乱暴狼藉を働く」という噂を耳にして恐怖に陥っていました。
そこで信長は、通常の合戦では物や人を奪い暴れまわる足軽たちに、今回は行わないよう軍紀を徹底します。
敵の残党勢力との小競り合いや、放火沙汰などはありましたが、三好三人衆の軍勢はすでに退去しており、織田軍による厳重な治安維持で市中も大きな混乱を見ずに済んでいます。
勝龍寺城の攻略
石成友通がこもる勝龍寺城への攻撃はその日(9月26日)のうちに始まりました。
先陣を命じられたのは柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成(よしなり)、坂井政尚の四人。

柴田勝家/wikipediaより引用
織田軍の兵力は全体で5万ほど。
勝龍寺城攻めに与えられた兵数は不明ですが、わずか500しかいない石成友通は絶望的な状況です。
それでも観音寺城のように無抵抗ということはなく、石成友通も応戦します。
しかし、その日のうちに陥落。
信長も出馬して付近の寺戸・寂照寺に陣を張ると、石成友通は城を退散しており、織田軍が取った首の数は50を超えていました。
芥川城の攻略
入京という目標を果たし、都への玄関口の一つである勝龍寺城も陥落させた織田信長。
三好三人衆に対する追撃の手は緩めません。
西岡・吉祥院・淀・鳥羽・楠葉といった拠点を焼きながら摂津へ入り、9月27日、天神馬場(大阪府高槻市)に達します。
ここまであまりに展開が早いため「三好勢は本当にそんなに弱体化していたのか」と感じるかもしれません。
実は、前天下人である三好長慶が永禄七年(1564年)に亡くなって以来、三好勢は松永久秀と三好三人衆が袂を分かつなどして全体の勢力は衰退しており、新進気鋭の織田軍に対して為す術がありませんでした。

松永久秀像(高槻市立しろあと歴史館蔵)/wikimedia commons
実際、9月28日には、以前から信長と誼を通じていた松永久秀が織田軍に降り、名物と知られる茶器「九十九髪茄子」を信長に献上しております。
細川昭元や三好三人衆らがこもる芥川城も、29日に呆気なく陥落しました。
他に篠原長房も越水・滝山の居城から退去。
信長は30日に義昭と共に芥川城へ入り、さらに三好殲滅作戦を続行させます。
すでにお気づきかもしれませんが、信長にとっての上洛作戦とは「単に京都へ入ること」ではなく、前権力者である三好勢の排除も含まれるものでした。
池田城の攻略
織田信長と足利義昭が芥川城へ入った9月30日頃。
先を進む織田軍は池田城(大阪府池田市)の攻略に取り掛かっていました。
これまでのように楽勝……とはいかず、以下のように
・梶川高秀(水野信元の家来)
・魚住隼人(信長の馬廻衆)
・山田半兵衛(信長の馬廻衆)
剛勇で名を知られた者たちの活躍が記され、魚住は負傷、梶川の討死が伝えられています。
むろん織田軍が手を引くわけもなく攻め続け、10月2日、池田城が陥落。
その翌々日までに高槻城と茨木城も降伏して、ついに織田信長の上洛作戦(実際は三好勢の討伐作戦=畿内平定作戦)は完了したのでした。

織田信長/wikimedia commons
義昭を上洛させて信長が得たもの
織田信長と足利義昭はその後、10月14日に京都へ戻ります。
信長は清水寺、義昭は本圀寺に入り、いよいよ15代将軍に就任。
10月18日、義昭は征夷大将軍に補任され、22日には参内して将軍就任を内外に示しました。そして功労者に対して労をねぎらいます。
まずは「観能の会」を開いて諸将を接待。
観世大夫に命じて、十三番の目録が予定されていましたが、信長から「まだ天下は定まっていない」と指摘されて五番に縮められてしまうのでした。
さらには信長に対して「副将軍か管領に任じたい」と打診すると、これも辞退されてしまいます。
空気を読まない信長の性格というより、義昭との主従関係を明確に否定しながら、別のメリットを享受したかったのでしょう。
メリットとは、堺、大津、草津を直轄地とすることであり、信長は他の各拠点についても、以下のように守りを配置しています。
勝龍寺城……細川藤孝
信貴山城……松永久秀
芥川城……和田惟政
池田城……池田勝正
伊丹城……伊丹親興
若江城……三好義継
高屋城……畠山高政
直轄地……堺・大津・草津
足利義昭は、それでも感謝しきれなかったのか。
10月25日に信長へ感状を発行すると、足利家の紋である桐紋と引両紋の使用を許した上で「御父織田弾正忠殿」と称しています。
まるで父親のような扱いであり、この時点で強い謝意を示したかったことは確かでしょう。
しかし、両者の蜜月は数年で終わると、義昭は信長を殺そうとして包囲網を築き、最終的には戦に負けて京都から追い出されてしまいます。
なお、まだまだ引き下がらない三好三人衆については、別記事「三好三人衆」や「本圀寺の変」を併せてご覧ください。
参考文献
太田牛一/中川太古『信長公記』(2013年10月 KADOKAWA)
今谷明『戦国時代の貴族: 言継卿記が描く京都』(2002年3月 講談社)
岡田正人『織田信長総合事典』(1999年9月 雄山閣)
【TOP画像】足利義昭・織田信長・明智光秀/wikimedia commons
