天文10年6月14日(1541年7月7日)は、武田晴信(のちの信玄)が父の武田信虎を駿河へ追放した日です。
当主であり、しかも血を分けた実父を国の外へ追い出す――いくら戦国時代とはいえ、これは並大抵のことではありません。
一体なぜ、若き日の晴信はそんな無茶を強行したのか。
戦ばかりで民に負担をかけたとか、妊婦の腹を切り裂いたとか、信虎にまつわる物騒な噂もいろいろ伝わっていますが、果たしてどこまで本当なのか。

武田信虎/wikipediaより引用
当時の状況と、その後の信虎の生涯を、順を追って振り返ってみましょう。
甲斐を統一した信虎の手腕
まず最初に確認しておきたいのは武田信虎の事績です。
かつて暴君とされた信虎像は、現在かなり見直されており「武田家復権の礎を作った人物」と評されるようになってきました。
信虎は、父・武田信縄の死後に若くして家督を継ぐと、対立する叔父や国衆を従え、バラバラだった甲斐国を統一。
本拠地を甲府へ移して、躑躅ヶ崎の館や城下町を築き、家臣や有力者を集めました。

躑躅ヶ崎館(現在は武田神社となっている・参道と二の鳥居)
後に武田信玄が「風林火山」の旗を掲げて飛躍できたのも、そうした土台があってこそ――信虎は、無能な暴君どころか、武田家の礎を据えた有力者と言えるでしょう。
ならば、なぜ追放などされるのか?
問題は、武田家の復権と表裏一体でした。
一族や国衆を強引にまとめるため、家臣や領民たちに対して、重い負担がかかるようになっていたのです。
「妊婦の腹を裂いた」は本当か
武田信虎には、残虐な逸話がつきまといます。
家臣を手討ちにした。
妊婦の腹を裂いて胎児をのぞいた。
いかにも「追放されて当然」という話が囁かれますが、主君が失脚するときはしばしば「そりゃ倒されるわ」という残虐エピソードが創作されがちです。
妊婦の話などはまさにその典型でしょう。
追放した側である武田信玄にとって、父が悪人であるほうが好都合なわけで、そうした誤情報が歴史の片隅に記録されてしまう。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
難しいのは、それでも信虎が善人だったわけではない点です。
当時の甲斐で書かれた年代記『塩山向嶽禅庵小年代記』では「平生悪逆無道なり」と評しており、信虎の意に背いた家臣を誅殺した記録もあるのは確か。
要は、強引な政治がいつまでも通用するわけではない、ということでしょう。
そしてその転機は天文十年(1541年)にやってきました。
決め手は天文十年の大飢饉
なぜ天文十年(1541年)なのか、理由はあります。
この年、甲斐はひどい飢饉に襲われました。
「人馬ともに多くが死に、百年に一度もないほどの惨状だった」と『勝山記』に記される程。
しかし折り悪く、その直前の同年5月に武田信虎は、息子の晴信や諏訪頼重、村上義清らと共に信濃小県郡へ出兵し、海野一族を攻めていました。
飢饉、戦争、兵士動員による負担――と、家臣や領民の不満がたまり、政変を起こすには絶好の条件が揃っていた。
実父を追い出すだけなら、ただの親不孝者です。
しかし「一国を安んじ、民の苦しみを救う」という大義があれば、政変も“世直し”となる。
かくして天文十年(1541年)6月14日を迎えたのです。
当日の信虎は、駿河の今川義元に嫁いだ娘(晴信の姉・定恵院)を訪ねるため、自ら駿河へ向かいました。彼女は天文七年(1538年)に嫡男の今川氏真を産んでおり、信虎も孫の顔を楽しみにしていたことでしょう。

今川氏真/wikimedia commons
その瞬間を狙い、晴信は甲斐と駿河の国境を封鎖。
父の帰国をきっぱりと阻んだうえで、躑躅ヶ崎館に入り、自らの当主就任を内外に示しました。
今川義元も事前に認めていた
重要なのは、今川義元もこの政変を受け入れていることでしょう。
「事前に晴信と相談し、合意のうえで話を進めていたのではないか?」というのは、現在の定説。
今川家としても、隣国・甲斐が内乱に陥るのは望ましくなく、晴信のもとで安定させたかった様子がうかがえます。

今川義元(高徳院蔵)/wikimedia commons
こうして信虎の追放は、国内の反乱も今川との破綻も招かずに成立しました。
かなり際どい賭けを、晴信と家臣団は見事に成功させたのです。
実際、信虎の追放を受け『勝山記』では「地下人・侍・僧、そして男女が喜び満足した」と記し、別の年代記『王代記』でも「一国平均安全に成る(国じゅうが平穏になった)」と肯定的に書きとめています。
信虎の追放後、甲斐国内で大きな反乱が起きていないこともその証拠でしょう。
もしも信虎が支持されていたなら、反発する国衆がいてもおかしくありません。
なお、『甲陽軍鑑』には、板垣信方ら重臣が晴信を支えたと伝わっています。
つまり、若き晴信がカッとなって父を追い出した事件ではなく、家臣団の多くが「信虎を排除し、晴信をもりたてる」ことで一致した「計画的な政権交代」だったんですね。
追放されてからの信虎はどうなった?
では、追放されてからの武田信虎はどうなったのか?
どんな不幸に遭っても、すぐに新たな環境を受け入れ、場合によっては以前よりも楽しんじゃうタイプの人物はいます。
まさに信虎がそうで、駿河では新たな娘が誕生。
永禄三年(1560年)に義元が桶狭間に倒れ、跡を継いだ今川氏真と折り合いが悪くなると、京都へ移りました。
そこでは
すでに高齢でありながら、娘のために婿を取ろうと縁談を進め、その姿が周囲には少々滑稽に映った――
なんて逸話も残されている程。
年老いてなお娘を案じる親の姿がちょっと泣かせるじゃありませんか。
武田家の元当主にして甲斐統一の実績を持つ人物ですから、戦場での実力は申し分なく、足利義昭の求めに応じ近江甲賀で軍勢を募ったという記録もあります。
しかし同時に“故郷”というものは信虎にとっても他には代え難い場所だったようで……。
信玄の死後、孫・武田勝頼の代になると、信虎は甲斐への帰国を願います。

武田勝頼/wikimedia commons
無用な混乱を恐れた武田家臣たちに阻まれ、信濃の高遠城に留め置かれてしまいますが、強大な武田家を今さら老将一人でどうこうできることもないはず。
結局、最期の地となったのは、その高遠であり、天正二年(1574年)3月5日、81年の生涯に幕を下ろしました。
★
父を追い出した信玄も、追われた信虎も、それぞれに波乱万丈な後半生を歩みました。
信虎追放は、親子喧嘩や晴信の野心からではありません。
甲斐を統一した信虎の強権統治に対して不満が積もっていく最中に、戦乱だけでなく大飢饉にまで襲われ、ついに限界を迎えた――。
武田家が「信玄の時代」へ進むたの避けがたい政変でした。
なお、武田信虎の生涯については以下の詳細記事をご覧いただければ幸いです。
-

武田信虎の生涯|信玄に国外追放された実父は毒親に非ず?81年の天寿を全う
続きを見る
参考文献
- 平山優『武田信玄』(2006年11月 吉川弘文館〔歴史文化ライブラリー〕)
- 平山優『図説 武田信玄』(2022年2月 戎光祥出版)
- 平山優『信虎・信玄・勝頼 武田三代』(2019年4月 サンニチ印刷)
- 鈴木将典『戦国大名武田氏の戦争と内政』(2016年7月 星海社〔星海社新書〕)
- 腰原哲朗 訳『甲陽軍鑑(上・中・下)原本現代訳』(1979〜80年 教育社〔教育社新書〕)
- 奥野高広『武田信玄』(1985年12月 新装版 吉川弘文館〔人物叢書〕)
- 武田氏研究会 編『武田氏年表(信虎・信玄・勝頼)』(2010年 高志書院)
- 黒田基樹『駿甲相三国同盟 今川、武田、北条、覇権の攻防』(2024年11月 KADOKAWA〔角川新書〕)
- 王代記(山梨県指定有形文化財)/山梨県「山梨の文化財ガイド」

