斎藤利三・明智光秀・明智秀満の肖像画と浮世絵

左から斎藤利三・明智光秀・明智秀満の肖像画と浮世絵/wikimedia commons

明智家

光秀が率いた明智家臣団|なぜ利三や秀満は最期まで光秀に付き従ったのか

なぜ明智光秀は本能寺の変で信長を討ち取ることができたのか?

13,000もの大軍で寺を取り囲んだから――というのは確かにその通りですが、恐怖の天下人・織田信長に弓を引くというのは並大抵のことではなく、普通なら尻込みして逃げたくなる場面。

土壇場になって逃げ出した武将がいても良さそうなのに、そうした名前を聞きません。

なぜ光秀の家臣たちは、こうも戦い続けることができたのか。

いったい明智軍の結束力の源はどこにあったのか。

明智光秀の肖像画

明智光秀/wikimedia commons

本記事では、普段はあまり注目されない「明智家臣団」にスポットを当ててみましょう。

 


明智家臣団は四つの層から成っている

もともと明智光秀は、家臣団など持たない小身の武士でした。

江戸初期の記録である『当代記』では「供の者を一人しか連れられず、その日の食事にも困る身の上だった(一僕の者、朝夕の飲食さへ乏かりし身)」と記されるほど。

それが永禄十一年(1568年)頃から織田信長と足利義昭の下で働くようになると、

足利義昭(左)と織田信長の肖像画

足利義昭(左)と織田信長の肖像画/wikimedia commons

次第に家臣が集まるようになり、天正十年(1582年)には本能寺の変を成就するまでの家臣団を構築します。

それは一体どんな組織だったのか。

研究者の柴裕之氏は著書『明智光秀 織豊大名の研究』の中で、光秀の家臣を「一族衆・美濃衆・近江衆・丹波衆」の四つに分類しています。

一族衆……明智光忠・明智秀満・妻木一族ほか

美濃衆……斎藤利三・藤田行政(伝五)・三沢秀次(溝尾庄兵衛尉)・三宅藤兵衛ほか

近江衆……猪飼野昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎・林員清ほか

丹波衆……小畠永明・並河掃部助・荒木氏綱・四王天但馬守・中沢豊後守

美濃出身ともされる光秀だけに、一族衆と美濃衆が古くから明智家臣団の中心にいて、その後、近江衆と丹波衆が加わったんですね。

近江衆は元亀二年(1571年)に坂本城へ拠点を置いてから、丹波衆は天正七年(1579年)に丹波を平定してから家臣になった人々であり、その増え方はまるで秀吉の家臣団形成を見ているかのよう。

こうした集団は、悪く言えば寄せ集めでもありますから、主君が「本能寺の変」という無茶な行動に走れば、真っ先に瓦解しそうなものです。

実際、光秀が頼りにした細川藤孝・忠興父子も、筒井順慶も、明智軍には加担していません。

それでも明智家臣団の中核は最後まで崩れませんでした。

 


名字と姻戚関係

明智光秀が謀反の意向を最初に打ち明けたのは、五人の宿老とされます。

明智秀満、明智光忠、藤田行政、斎藤利三、三沢秀次であり『信長公記』に名前が挙がる武将たち。

この五宿老には、重要な共通点があります。

明智秀満……もとは「三宅弥平次」で天正九年(1581年)4月までに「明智」の名字を拝領

明智光忠……光秀の従兄弟

藤田行政……『蓮成院記録』には「明智伝五」とある

斎藤利三……子の斎藤利宗が「明智平三郎」、斎藤三存が「明智与三兵衛」を名乗る

三沢秀次……茶会記に「明智少兵衛」とある

そうです、五人全員(あるいはその子息)が「明智」の名字を名乗っているのです。

柴裕之氏は同書で、宿老衆はいずれも明智名字を称する一門・准一門格にあったと指摘。

斎藤家については、利三自身が「斎藤」のままですが、子息二人は明智の名字を与えられ、准一門格に位置づけられていたことが浮かんできます。

名字を配ることで、後から加わった者も「明智の一族」に組み込んでいく。

これもまた「羽柴」の名字を与えまくった秀吉と同じですね。

もちろん光秀は、名字だけでなく、それよりも強固な関係となる姻戚も次々に結びました。

明智秀満は光秀の長女を娶り、明智光忠も光秀の娘を妻とし、彼らを宿老に配置。

彼らの出自や経歴は今なお不明な点も多いですが、名字と姻戚関係を使って光秀が明智家臣団の強化に腐心していたことは伝わってくるでしょう。

光秀は、彼ら宿老に対して一定の権力(権限)も渡していました。

 

宿老たちには城を任せていた

八上城に明智光忠。

黒井城に斎藤利三。

福知山城に明智秀満。

丹波を平定した光秀は、自領の主要な城に重臣を城代として配置しました。

これらの城は、いずれも波多野領・赤井領・塩見領という旧国衆たちの領域であり、研究者の柴裕之氏は同じく『明智光秀 織豊大名の研究』の中で「地域運営を活用したもの」と述べています。

征服した土地をゼロから支配し直すのではなく、旧領主の統治の枠組みをそのまま引き継がせた――つまり、土地を任せられた重臣たちは、単なる城番ではなく、実質的な領主とされたのですね。

その証拠の一例として挙げられるのが斎藤利三が発給した文書です。

天正八年(1580年)7月23日、斎藤利三は丹波白毫寺に宛てて判物を発給し、その中で「還住した僧たちへの人足役を免除する」という内容を保証しました。

判物とは、上位の立場にある者が花押を付して出す公式文書のこと。

つまり家臣が、主君の名代としてではなく、自分の名前と花押で命令を下し、一定の独立性が認められているんですね。

光秀は、この措置により家臣からの忠義を得たり、領土経営の負担を軽減できる一方、裏切られて城に籠もられたらリスキーな状況も抱え込むことになります。

 


無名ながらに記録はある家臣たち

むろん五宿老だけが明智家臣団ではありません。

丹波・近江・山城の各地には、一行か二行しか記録の残っていない家臣たちもいます。

彼らにはどんな記録が残されているのか?一例を見てみましょう。

大芋甚兵衛……天正七年(1579年)3月3日、岩伏部郷での働きを賞する光秀の感状を受ける

小畠永明……丹波の国衆であり、天正七年正月、波多野氏との合戦で戦死するも、遺児・伊勢千代丸には明智の名字と家督継承の配慮がされている

並河掃部助……明智名字を拝領しており、天正八年(1580年)12月の茶会に「明智掃部」として出席

猪飼野秀貞……近江堅田衆・猪飼野昇貞の子で、書状には「明智半左衛門尉」と記されている

彦助・田中宮内・小畠助太夫……天正七年五月、氷上山城攻めに参陣して、光秀直々の書状を受ける

大芋甚兵衛への感状は「比類なき働き」という定型句が使われているとはいえ、名もなき国衆一人ひとりの手柄を光秀は書状に残して応えていたと、研究者の大槻昌行氏が指摘。

小畠永明の扱いも見逃せません。

戦死した家臣の忘れ形見に、自分の名字を与えて家督を継がせる。しかも当主が13歳になるまで、後見人を立てるという細かさでした。

光秀による情に厚い恩顧というより、実務ですね。

手柄を立てれば書状が届き、名字も分け与えられる。だから丹波や近江の名もない衆まで、明智の名を名乗るようになっていきました。

明暗が分かれた事例もあります。

山城国御牧郷の国衆・御牧景重は、光秀方として山崎合戦に参陣し、敗死しました。

一方、弟の御牧景則は、秀吉に仕えて天正十八年(1590年)には代官に配されています。

同じ一族でも、兄は明智に殉じ、弟は勝者の側に転じて出世する。

こうした国衆たちの動きは、戦国時代に共通する構図ですが、明智家の重臣クラスともなればそう簡単に他家へ移動するわけにもいきません。

次に五宿老の最期にも注目してみましょう。

まずは大河ドラマ『豊臣兄弟』でも登場機会の多かった斎藤利三から。

 

斎藤利三が握っていた四国ルートとは

斎藤利三は、もともと美濃の稲葉一鉄に仕えていました。

しかし、軍功を挙げても認められず、稲葉家を離れると光秀の重臣に抜擢。

武芸だけでなく礼節を重んじ、詩歌にも通じた人物だったと『惟任退治記』では記されています。

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』

『堅田浦の月』の斎藤利三(月岡芳年『月百姿』より)/wikipediaより引用

さらに利三には、強力な血縁もありました。

兄の石谷頼辰は、室町幕府の奉公衆・石谷氏の養子であり、石谷頼辰の義妹が長宗我部元親の正室だったのです。

研究者の福島克彦氏は著書『明智光秀 織田政権の司令塔』の中で、明智光秀が長宗我部家とのパイプ役を担えたのは斎藤利三と石谷頼辰の関係があったからこそ、と指摘しています。

実際、天正八年(1580年)の秀吉と元親の書状には、両者を取り次いだ人物として斎藤利三の名が登場。

中国方面の司令官だった秀吉でさえ、利三を介さなければ元親との音信が困難だった状況が浮かび上がってきます。

しかし、それだけに織田家の四国政策転換が大きく影響しました。

天正九年(1581年)後半に信長は、三好康長を担ぐ「秀吉ー三好ライン」を主流とし、光秀と利三による「光秀ー長宗我部ライン」を退けたのです。

翌天正十年(1582年)5月には三男・織田信孝に讃岐、三好康長に阿波を任せると定め、元親への配慮は完全に消えていました。

長宗我部元親の肖像画

長宗我部元親/wikipediaより引用

それでも利三は、諦めていません。

元親配下の石谷光政(頼辰の養父)に対して信長に従うよう説得する書状を送り、元親からは「奪取した城を放棄して信長の朱印に応じる」という返書を受け取っていたのです。

これが「本能寺の変」のわずか10日ほど前であり、結局、利三の交渉は実らないまま、当日(6月2日)を迎えました。

ゆえに四国の動乱が本能寺の変を引き起こしたのではないか、と今なお憶測を呼んでいるのですね。

いったい利三の本心はどうだったのでしょう?

公家・勧修寺晴豊の日記『天正十年夏記』では、利三のことを「光秀が信長を討つ相談をした中心人物」と見ており、『言経卿記』でも利三の軍勢を「今回の謀反で一番(中心)の人物である」と評しています。

つまり斎藤利三は、同時代の京都で、光秀と並ぶ首謀者と見られていたのです。

ゆえに大河ドラマ『豊臣兄弟』でも、明智五宿老の中で利三だけが注目されているのでしょう。

では、彼ら五宿老は一体どんな最期を迎えたのか?

 

山崎の戦い後に散った明智家臣団

天正十年(1582年)6月13日、山崎の戦いに敗れた明智光秀は、坂本城を目指す最中に落命したと伝わります。

このとき安土城にいたのが明智秀満でした。

光秀の子・明智自然を守りながら在城していたとも指摘され、山崎の敗戦を知った秀満は、安土城を退いて坂本城に籠城。

光秀の子息らを刺殺し、天守に火を放って自害したと伝わります。

享年については『明智軍記』が46とする一方、『武家聞伝記』所載の記録では26など、史料によってかなりの食い違いはある。

また、福知山城にいた明智秀満の父も生け捕られ、7月2日に粟田口で磔刑に処されました。

明智秀満(明智左馬助光春)の浮世絵

明智秀満(明智左馬助光春)/wikipediaより引用

五宿老のその後を並べます。

明智秀満……坂本城で光秀の子らを刺殺し、天守に火を放って自刃

明智光忠……二条御所の攻防で負傷し、知恩院で療養中に光秀の敗死を知り、自刃と伝わる

藤田行政……本能寺の変後、筒井順慶の説得に派遣されるも、山崎敗戦後、光秀に殉じる

斎藤利三……近江堅田で捕縛され、六条河原で斬首され、遺骸は車で洛中を引き回された

三沢秀次……勝竜寺城に配置され、山崎敗戦後に光秀に殉じたとされる

一人も降伏はせず、ほどなく死を迎えています。

しかし、だからといって彼ら五宿老が「忠義の士」なのかどうか。

名字を与えられたり、姻戚関係が結ばれたり……五宿老は光秀との関係性があまりに強く、本能寺の変を起こすにせよ起こさないにせよ、共に生きる以外の道はなかったとも考えられます。

対照的なのが、細川家でしょう。

細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興の肖像画

細川藤孝(細川幽斎)と細川忠興(右)/wikipediaより引用

細川藤孝は光秀と長年協力し、丹波・丹後の攻略を共にした間柄であり、息子の忠興には光秀の娘・玉子(細川ガラシャ)が嫁いでいた。

それでも本能寺の変に際しては、協力を良しとせず、出家してまで距離を置きました。

婚姻でつながっていても、家中に組み込まれていなければ、距離を取れたんですね。

逆に言えば、五宿老にはその選択肢がなかったということ。

それにより明智家臣団が強固になったのもまた確かですから、本能寺の変を成功させるだけの結束力は、光秀が長年かけて作り上げたと言えるのでしょう。

秀吉同様、光秀の非凡さを表す組織運営だったと言えるかもしれません。

なお、本能寺の変後に光秀に味方した武将たちの詳細については、以下の記事をご参照ください。

京極高次の肖像画
光秀に味方した武将は全員滅亡?京極高次・武田元明・明智の血の意外な結末

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◆ 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

◆ 『豊臣兄弟』総合ガイド|登場人物・史実・出来事を網羅


参考文献

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五十嵐利休

武将ジャパン編集管理人。 1998年に早稲田大学を卒業後、都内出版社に入社し、書籍・雑誌編集者として20年以上活動。歴史関連書籍からビジネス書まで幅広いジャンルの編集経験を持つ。 2013年、新聞記者の友人とともに歴史系ウェブメディア「武将ジャパン」を立ち上げ、以来、編集責任者として累計4,000本以上の記事の編集・監修を担当。 月間最高960万PVを記録するなど、日本史メディアとして長期的な実績を築いてきた。 戦国・古代・幕末・世界史の広範な執筆とSEO設計に精通。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆武将ジャパン(団体)国立国会図書館典拠データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/001159873

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