徳川家康は、人質時代の今川家で虐待されていたのか?
大河ドラマ『豊臣兄弟』第34回で、家康の回想シーンをご覧になり、驚かれた方は多いでしょう。
まだ小学生ぐらいの竹千代(家康)が、今川家の嫡男・氏真に木刀で打ち据えられたかと思えば、当主の今川義元からは小鳥を「握りつぶして殺せ!」と迫られる。
家康が恐怖のあまりに手放してしまうと、逃げた小鳥は氏真の鉄砲で撃ち落とされるという、あまりにも予想外の展開。

あれは一体何事か?
大名家の人質とは、かくもヒドい扱いを受けるものなのか?
史実における、人質時代の家康(竹千代)を振り返ってみましょう。
竹千代は本当に戸田康光に売られたのか
徳川家康は天文十一年(1542年)、岡崎城で生まれました。
幼名は竹千代。
父は松平広忠、母は水野忠政の娘・於大の方であり、竹千代に最初の試練が訪れたのは数え6才のときでした。
西から織田信秀に攻め込まれた広忠が、駿河・遠江の大大名・今川義元に援軍を求めたところ、人質を要求されたのです。
そこで竹千代は駿府へ送られることになりましたが、護送を任された田原城主・戸田康光が竹千代を奪い、そのまま敵方の織田信秀へ売り渡してしまう――。
というのはよく知られた話で、なぜ戸田康光はそんな真似をしたのか。
今川から織田へ鞍替えするための工作だったと考えられます。
三河の国衆にとって、織田と今川どちらに付くかは生死に関わる選択であり、実際このとき戸田氏は織田を選びました。

織田信秀イメージイラスト
しかし現在は、異説もありまして。
戸田氏に奪われたのではなく、「広忠が織田との戦いに敗れて差し出した」とか、「そもそも織田家へ渡っていない」など指摘され、依然として決着はついていない状態です。
本記事では通説どおり、竹千代が織田家の人質になったものとして話を進めますね。
織田家では熱田の商人屋敷に置かれた
織田家に奪われた竹千代。
彼が置かれたのは、熱田の豪商・加藤図書助順盛の屋敷でした。
現在の名古屋市熱田区伝馬にあたり、この期間、竹千代に自由はありません。
ただし、拷問や虐待を受けたという記録もなく、預けられて監視下に置かれていた、というのが実情のようです。
江戸時代初期に成立した『三河物語』によれば、織田信秀が「竹千代を殺すぞ」と松平広忠を脅すも、広忠が屈しなかったため手出しができないまま時が過ぎたといいます。
そして天文十八年(1549年)3月6日、松平広忠が死去。
当時、数え8才の竹千代は、父の死に目に会うことはできませんでした。
家の当主が死んだのに跡取りが戻れないのは、松平家にとっても竹千代にとっても、これ以上ない苦境です。
そこで事態を動かしたのが、今川義元の側近・太原雪斎でした。

太原雪斎イメージイラスト
僧侶でありながら軍を率いた雪斎は織田方の安祥城を攻め落とし、城将の織田信広を生け捕りにします。
そして織田方と交渉し、信広と竹千代の交換を成立させました。
織田信広は、信長の庶兄です。
なお、人質交換の場は笠覆寺(名古屋市南区)とも伝わりますが、同時代の史料に記載はなく後世の伝承となっています。
今川家ではイジメどころか親類衆
今川家にやってきた竹千代には、織田家時代とはまるで異なる住環境が用意されていました。
駿府の松平屋敷は、通称・竹千代屋敷とか人質屋敷と呼ばれ、まるで座敷牢のようにも思えてきますが、実際はその真逆。
丁重に扱われます。
弘治元年(1555年)3月に元服すると、今川義元から一字をもらい「元信」と名乗りました。

今川義元(高徳院蔵)/wikimedia commons
主君が自分の名の一字を分け与えるのは、両者の結びつきの深さを示すものであり、さらに今川御一家衆・関口氏純の娘、のちの築山殿を正妻に迎えます。
築山殿の母は義元の妹であり、この婚姻によって元信は今川家の親類衆に列したのです。
当主の親戚筋ですから、いじめられるとかそういうレベルではありません。
厚遇と言えるでしょう。
そして永禄元年(1558年)春、三河の国衆・寺部鈴木氏への攻撃で初陣を果たすと、義元からその功を賞され、旧領である山中の知行三百貫が元信に返されました。
同年7月までに、実名を「元信」から「元康」へ改め、さらに重要なのは、家康が岡崎領の支配に関わったことでしょう。
※初陣については、弘治二年(1556年)の日近合戦とする異説もあります
駿府から岡崎領の運営に関わる
駿府に住みながら、三河岡崎領の支配に関わっていた家康。
今川氏は岡崎城の守衛に、遠江衆の飯尾氏や二俣氏といった在番衆を配置しています。
しかし、領国の政務そのものは、岡崎に残った松平家の譜代重臣が進めていました。
何か支障が出たときは妻方の親族である関口氏純と、指南役の今川家重臣・朝比奈親徳が調整に入る――そんな仕組みが整えられていて、囚われの身というより、後見付きの若い当主です。
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である柴裕之氏は、この関係を現代の企業にたとえています。
グループを展開する親会社(大名)と子会社(国衆)で、今川家と松平家もその形だった、というわけですね。
では、なぜ人質時代の苦労話が語り継がれてきたのか?
理由の一つが、江戸時代に成立した「松平・徳川中心史観」です。

徳川家康/wikimedia commons
家康が天下人となるのは必然であったという予定調和のもと、徳川将軍家の国内統治を正当化する立場から、不都合な事実は排除あるいは改変されていきました。
人質時代の苦難も、その歴史観の中で強調されていったというものです。
実際は今川家に厚遇されていたんだよ、とは書けなかったのでしょう。
むろん、駿府での竹千代が、すべて快適だったわけでもありません。
理不尽な嫌がらせを受けることもあったと伝わります。
隣人の孕石元泰と険悪になる
松平屋敷の隣は孕石屋敷でした。
今川家臣・孕石元泰(はらみいし もとやす)の屋敷で、竹千代の飼っていた鷹が何度も獲物や糞を敷地内へ落としたそうです。
その度に詫びに行くと、こう吐き捨てられました。
「三河の小倅の顔を見るのは飽き飽きだ!」
少年にとっては、忘れがたい屈辱だったのでしょう。

この一件には、続きがあります。
江戸後期に編纂された『東照宮御實紀』によると、天正九年(1581年)の第二次高天神城の戦いで城が落ちたとき、家康は捕らえた城兵のうち、ただ一人にだけ切腹を命じました。
それが孕石元泰だったというのです。
【意訳】あの者は、わしが尾張にいたとき「飽き飽きした」と申した者だ。だから暇を取らせる。ただし武士の礼であるから切腹せよ
【原文】彼、わが尾張に在し時、我を「あきはてたり」と申たる者なれば、いとまとらするぞ。されど武士の禮なれば切腹せよ
二十数年越しの意趣返し、というわけですね。
ただし、この話は少々ややこしい。
柴氏は『武田氏家臣団人名辞典』の中で、孕石元泰は落城の際に徳川軍へ捕らえられ、3月23日に切腹したと書いています。
典拠は『東照宮御實紀』ではなく、孕石の子孫が仕えた土佐山内家の史料であり、切腹そのものは徳川家の編纂物だけが伝えている話ではないのですね。
※研究者の平山優氏は『信長公記』『家忠日記』などをもとに、孕石を高天神城で討死した籠城衆に含めています
気になるのは、むしろ家康の動機でしょう。
本当に「飽き飽きした」と言われた恨みを二十数年も抱えていたのか?
その話は徳川家の編纂物にしか出てこず、しかも原文は「尾張に在し時」となっていて、隣り合って暮らした駿府と食い違います。
理由づけのほうは、後から整えられたとみるのが自然でしょう。
祖母の養育と、籠に隠れての墓参り
竹千代の身近には、家族もいました。
祖母の源応尼(げんのうに)、後の華陽院(けよういん)です。

華陽院(家康の祖母)/wikimedia commons
家康は、両親が離婚した3才の頃からたびたび彼女に面倒を見てもらっており、駿府で病を患ったときには看病を受けたという話が伝わっています。
確かな同時代史料はありませんが、学問の相手がいたという伝承も残されています。
人質交換を成し遂げた、あの臨済寺の太原雪斎です。
臨済寺には「竹千代手習いの間」が復元されていますが、当時の建物は焼失しており、雪斎との師弟関係も同時代の史料では確認できません。
もっとも竹千代は、そう自由に動けません。
元服して元信となった翌年、父・松平広忠の墓参という名目で岡崎への里帰りが許され、後世の記録では、これが初めての墓参とされています。
ただ、寺に伝わる別の話もあります。
増善寺文書や可睡斎文書によると、竹千代が増善寺の等膳和尚(とうぜんおしょう)に「岡崎へ墓参に行きたい」と告げたところ、和尚は竹千代を籠に入れて背負い、湊まで運んで密かに実現させたというもの。
正規の手続きでは行けなかったということでしょう。
この縁で等膳和尚は可睡斎の住職となり、駿河・遠江・三河・伊豆の四か国で曹洞宗を統括する地位を得ました。
いずれも寺に伝わる話であり、同時代の史料では確認できません。
松平衆は今川軍の先勢を務めた
ここまで見ると、竹千代の待遇は決して悪くありません。
今川家にとって松平家は、対織田家の壁にもできる、重要な一族。
親類衆に加えることで、より一層手堅い防御壁としたかったのでしょう。
ただし、松平の家臣たちにとっては、決して快適とはいえない環境が『東照宮御實紀』に伝えられています。
【意訳】三河は義元の思うがまま。
岡崎には駿河からの城代が置かれ、松平衆は合戦のたびに先鋒を務めさせられた。
先に見たとおり、岡崎領の政務は松平家の譜代重臣が担っており、駿府から来た今川方の城代が政務まで握っていたという部分は怪しい。

岡崎城
一方、松平勢が今川軍の先勢を務めたこと自体は確認できます。
天文十七年(1548年)の小豆坂合戦でも「岡崎勢」は今川氏の先勢として動きました。
先勢とは、言わずもがな真っ先に敵とぶつかり、損害も大きくなる部隊のことで、指揮官ならば、できれば自軍の者にその役を負わせたくはない。
他家の誰かに任せたい。
もっとも、これは従属する国衆が担う軍役でもあり、それだけで冷遇の証拠とはいえません。
主君は駿府で親類衆として遇され、松平家の家臣は先勢でリスクを負う――今川支配下での松平体制は、そうやって整えられていったのですね。
二つの家で過ごした十三年
最後に竹千代の人質待遇を整理しておきましょう。
◆織田家にいたとされる2年間(数え6〜8才)
戸田氏に奪われたのか、広忠が差し出したのか、そもそも渡っていないのか、現在は不確定な部分が多い。
織田家にいたのなら、熱田の商人屋敷に置かれ、父の死に目にも会えず。
幼くして父を失い、他家で十年以上を過ごしたこと自体は、確かに辛い体験だったでしょう。
しかし、ドラマでも描かれた「虐げられる竹千代像」は同時代の史料では裏づけられず、少なくとも今川家では、後見を付けられた若い当主として恵まれた立場にありました。
そして永禄三年(1560年)5月19日、桶狭間で今川義元が討たれると、元康(家康)は大高城を出て岡崎城へ入ります。
岡崎城にいた今川方の城代は、飯尾乗連・二俣持長・山田景隆。
本文の中ほどで触れた在番衆の彼らは、城を捨てて逃げました。
『三河物語』はそのときの元康の言葉をこう伝えています。
【意訳】捨てられた城ならば拾おう
【原文】捨城ナラバ拾ハン
しかし元康は、この時点で今川家から離れたわけではありません。

竹千代像(少年期の徳川家康)と今川義元像/JR静岡駅前
翌永禄四年(1561年)2月に織田信長と和睦し、4月11日には今川方の牛久保城を攻撃。
ここではじめて今川家との従属関係を断ち、独立への道を進みました。
なお、大河ドラマ『豊臣兄弟』でも注目された家康と秀吉の対立については、以下に関連記事がございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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家康はなぜ秀吉と戦うことになったのか?豊臣兄弟第34回史実解説 人質拒否の真相
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【参考文献】
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 柴裕之『シリーズ・織豊大名の研究10 徳川家康』(2021年12月 戎光祥出版)
- 平山優『徳川家康と武田勝頼』(2023年5月 幻冬舎新書)
- 黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(2023年4月 戎光祥出版)
- 黒田基樹『増補改訂 戦国北条家一族事典』(2023年12月 戎光祥出版)
- 柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』(2015年5月 東京堂出版)
- 藤井讓治『徳川家康』人物叢書300(2020年1月 吉川弘文館)
- 『東照宮御實紀』

