人生の大半を「忍耐」で過ごした徳川家康。
その始まりは、幼少期に織田家や今川家で人質として過ごしたことでしょう。
当初は今川家に人質として出される予定でしたが、いつの間にか織田家へ送られてしまい、数年間過ごすのです。
その張本人が戸田康光――。
三河の田原城(田原市)を本拠とする武将であり、当時は駿河の大名・今川の配下にいながら、突如、裏切って家康を織田へ送りました。
康光はなぜそんなことをしたのか?
天文十六年(1547年)9月5日に亡くなった戸田康光の生涯を振り返ってみましょう。
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今川や松平、織田に挟まれて
戸田家は、康光の祖父の代に渥美半島を統一するなど、当初は東海地方の一エリアで勢いがありました。
しかし、その後は近隣の松平家や今川家の圧迫を受け、松平家に従う状態。
松平清康(家康の祖父)の死後、松平家が今川家に従ったため、陪臣のような形で戸田家も今川の傘下に収まりました。
なんだかややこしいですね。
近いエリアで言えば、『おんな城主 直虎』で注目された井伊一族も、今川や松平、あるいは織田や武田などの影響を受け、生き抜いてきた――それと似たような国衆と言えるでしょう。
こうした事態を受け、戸田康光は、どうにかして家の地位を高めようと努力しています。
例えば、松平広忠(家康の父)が正室・於大の方(家康の母)を離縁した後のことです。
康光は天文十四年(1545年)、自分の娘・真喜姫を後室として送り込みました。
康光としては、真喜姫が息子を産んだ後、外祖父として松平家にガッツリ食い込んでいくつもりだったのでしょう。
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娘を広忠の後妻に送り込むも
しかし戸田康光は、程なくして路線変更を余儀なくされます。
真喜姫に子供が生まれないまま、広忠が亡くなってしまったのです。
於大の方と広忠の離縁が天文十三年(1544年)。
娘・真喜姫と広忠の再婚が、翌年の天文十四年(1545年)で、かつ広忠が亡くなったのが4年後の天文十八年(1549年)です。
織田や今川に挟まれ広忠も多忙な日々でしたので、夫婦の時間があまりなかったのかもしれません。
ただし、他の女性との間で子供をもうけているのですが……近年では、こんな見方も出てきています。
◆於大の方の実家である水野家と松平・戸田の両家は対立していた
◆松平は戸田との結び付きを強めるため、広忠が於大の方を離縁し、真喜姫を迎えた
つまり松平家としても戸田との結び付きを重要視していた可能性があるんですね。
実際、真喜姫が家康の異母兄弟の母とされている系図もあり、松平内部での扱いは悪くなかったようです。
側室の産んだ子供を公的には正室の子供扱いにするというのは、ままある話ですので、真喜姫も後室としての立場を守られていたのでしょう。
戸田と松平の関係も良好だったようにも思えます。
しかし、そのときは突如来ました。
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