世界に影響を与えた江戸時代の浮世絵師と言えば?
そう問われて真っ先に頭に浮かぶのは、葛飾北斎か歌川広重でしょう。
北斎につきましては以下の記事に詳細がありますので、
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今回注目したいのは歌川広重。
ゴッホやマネにも影響を及ぼし、風景画の名手とされるこの広重、元々は武士の身分から絵師となるも、若い頃は鳴かず飛ばずの存在でした。
彼の絵は、特に売れ線ではなかったのです。
世界に冠たる“ヒロシゲブルー“から考えると意外かもしれませんが、当時の版元や江戸っ子からすれば当然かもしれません。
「いやおめェよォ、そもそも風景画が得意って時点で、売れっ子には遠いからなぁ」
と、一口に浮世絵といってもジャンルによって人気は様々で、全員が全員、売れっ子というわけでもありません。
ではいったい歌川広重は若い頃はどんな絵を描き、以降、どのようにして人気絵師となっていったのか?
安政5年(1858年)9月6日はその命日。

三代目歌川豊国による歌川広重の死絵/wikipediaより引用
広重の生涯を振り返ってみましょう。
風景画は売れないジャンルだった
まずは当時の浮世絵業界の事情から確認しておきたいと思います。
歌川広重の作品は確かに優れていました。
東洋から来た斬新な絵として、ゴッホやマネが驚いたとしても何の不思議もありません。

歌川広重『名所江戸百景』/wikipediaより引用
しかし、です。
浮世絵は、あくまで江戸庶民が消費する大衆向けの商品であり、その観点からすると【風景画】は売れ筋からはほど遠いジャンルでした。
現代におけるカレンダーや週刊誌のグラビアを思い浮かべてください。
風景写真も定番のジャンルですが、ファンが熱狂的に求めるものだろうか?と言えばそうではなく、もっと別のものがありますよね。
歌い踊るアイドル。
美しい俳優。
ホームランを決める野球選手。
アニメや映画、ゲームの主人公。
オフィスや居間に貼るようなものであれば、無難な風景写真が好まれるかもしれませんが、推し活の一環で自分の部屋に貼るなら、当然、上記のようなジャンルでしょう。
しかも当時の浮世絵は、蕎麦一杯の値段で買える庶民の娯楽ですから、数が多く捌けるジャンルで勝負せねばならず、どうしたってミーハーな路線に向かいます。
美人画、役者絵、力士絵、武者絵、物語絵などなど……当時の江戸っ子が推すカリスマの絵をこなせなければ、版元も絵師も懐は暖まりません。
歌川広重も、たしかに美人画や役者絵は手掛けていました。
しかし、それがどうにもパッとせず、燻る一因になっていた。
そんな蟻地獄から脱し、非常に地味なジャンルの風景画でカリスマとなるのですから、いわば広重は特別な絵師と言える。
では、それはいつから特別だったのか。
遅くなりましたが、広重の幼少期から振り返ってまいりましょう。
貧しい武士として、食べていくために絵師となる
寛政9年(1797年)――。
江戸八代洲河岸(やよすがし)にある定火消屋敷の同心・安藤源右衛門に男子が生まれ、徳太郎と名付けられました。
身分が低いとはいえ、御家人の生まれです。
彼の上には姉が二人、妹が一人いて、二番目の姉は夭折していました。
幼いころから絵を好んだ徳太郎。
文化3年(1806年)、10歳の時には琉球使節の姿を描きあげています。
この絵はあくまで伝広重筆であり、本人筆と確定しているとは言えませんが、それでも幼い頃から絵が得意だと思われていたことは確かなのでしょう。
※以下のツイート参照
【月に雁・見どころの作品】「琉球人来貢図巻」。デッサンがそれほど上手ではなく、線も硬いこの作品、実は広重が10才の時に描いたとされるものです。琉球使節団の独特の風俗も見どころ。展示する機会の少ない作品ですので、この機会をお見逃しなく! pic.twitter.com/WPD9nWQVZH
— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) September 16, 2013
文化6年(1809年)、突如として安藤家を不幸が襲います。
源右衛門の妻が亡くなり、隠退した源右衛門も後を追うように没してしまったのです。
家督はまだ13歳、重右衛門と名を改めたばかりの長男に譲られました。
そしてその重右衛門は文化8年(1811年)に浮世絵師の門を叩きます。
まずは人気絶頂の歌川豊国に弟子入りを志願するものの、人気がありすぎて断られてしまい、次に歌川豊広の元へ向かいました。
御家人として家督を継ぎながら、なぜ浮世絵師になろうとするのか。
絵が得意だったからということはむろんあるでしょう。
しかし、単にそれだけでなく「家計を補いたい」という動機もあった。三十俵二人扶持ではあまりに生活が苦しかったのです。
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江戸時代も後期となれば、身分制度も経済も、従来の体制は崩壊しており、御家人だろうと扶持だけでは食べていけない状況に陥っていました。
一方で浮世絵師ならば食っていける。
当時、花開いていた商業出版の波に乗れば、腕一本で金を稼げたのです。
重右衛門が初めに弟子入りを志願して断られた豊国は、華やかな【役者絵】と【美人画】で人気を博しておりました。
【役者絵】は推し活に励む江戸っ子が買い、【美人画】はいうまでもなく男性に人気がある、定番のジャンルです。
しかし、その弟弟子である豊広は、豊国ほど派手ではなく、穏やかなタッチの美人画を得意としていました。

歌川豊広『江戸八景 佃島帰帆』/wikipediaより引用
浮世絵師・歌川広重の下積み時代
豊広の弟子となった重右衛門は、文化8年(1811年)、入門から一年ほどで師から一字をもらい、「広重」と名乗るようになりました。
かくして誕生した歌川広重――時代が生んだ存在とも言えますが、実際に芽が出るまでには相当な時間を要しています。
文化15年(1818年)、定火消として活躍して幕府から褒賞を得ると、文政6年(1823年)、定火消の家督を親族の仲次郎に譲りました。
仲次郎はまだ8歳だったため、天保3年(1832年)までは、広重が番代としてその代理を務めています。
ともあれ、武士の身分を捨て、以降は絵師として歩む決意を固めた広重。
文政12年(1829年)に師である豊広が没してしまいました。
広重は名を継ぐよう勧められるものの、まだまだ未熟であるとして断っています。
謙虚ゆえに断ったのか?と思うかもしれませんが、妥当とも言える。当時の広重は、豊広の他の弟子たちの中でも埋没してしまうような、目立たぬ存在だったのです。
念願の絵師となった広重は、模索が続いていました。
美人画、武者絵、見物絵巻、挿絵、摺物などなど……当時、定番のジャンルを手掛けてみるも、なかなか個性を発揮できすることはできない。
売れっ子浮世絵師が多い時代にあって、広重は埋没気味でした。
風景画が売れる新時代へ
師匠の死の翌年、文政13年(1830年)のこと。
歌川広重は号をそれまでの「一遊斎」から「一幽斎」に改めました。
どこか定まらない「遊」から、奥深い「幽」へ――何か象徴的にも思える変化です。
そして文政年間後期に入り、名所絵も手掛けていた広重のもとに、天保2年(1831年)、版元の川口屋から『東部名所』という大判横絵十枚の依頼が舞い込みました。
新たな人気ジャンルが求められる浮世絵。
江戸の風景を描く『東部名所』には、新たな試みもありました。
ベロ藍(ベルリンブルー)という鮮やかな青い絵の具です。
オランダ~上方を経由して、ついに江戸へ到達したこの鮮やかな青は、文政年間末、渓斎英泉(けいさい えいせん)の団扇絵に使われ始めたものが最初期とされ、後に彼の名を冠した「ヒロシゲブルー」と称賛される色となります。
これを大々的に用いることで、浮世絵は新たな時代が幕を開けました。
同じころ、巨匠・葛飾北斎が手掛けた『富嶽三十六景』にもベロ藍が用いられていました。

「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏/wikipediaより引用
広重の風景画デビューは、北斎には及ばぬものの、鮮烈で新時代の到来を感じさせるものでした。
天保3年(1832年)、広重は「一幽斎」から「一立斎」に号を変えます。
改名がキッカケとなったのでしょうか。この年は広重の転機となりました。
名目上の家督を譲った仲次郎は17歳になっており、彼の後見をやめ、絵師に専念できるようになった。
曲亭馬琴の日記には、この年に広重が【書画会】を開催したともあります。
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書画会とは当時の文人にとっての一大イベントでした。
支持者を集め、扇や掛け軸に賛を書き入れ、引き換えに喜捨を集める――いわば現代のクラウドファウンディングのような催しです。
己の知名度を知ることができ、グッズ販売で活動資金を稼ぐことができる。
広重が浮世絵師として飛躍する決意を感じさせるイベントといえるでしょうか。
天保4年(1833年)、広重はついに『東海道五十三次』を発表するのです。
この作品がヒットし【風景画】の人気絵師としての名声を確たるものとしたのでした。

歌川広重『東海道五十三次』「日本橋」/wikipediaより引用
ずっと眺めていたくなる広重の風景画
前述の通り【風景画】は地味なジャンルです。
浮世絵の開祖たる菱川師宣以来、街道を描く作品は定番でしたが、あえて街道の景色をじっくり描くとなると、この天保2年は大きな転換点でした。
北斎と広重は、同じジャンルにせよ作風が異なっています。
北斎は持ち前の奇想、道教思想への傾倒をふまえ、斬新で奇妙な絵を生み出してゆきます。
今でも斬新であり、そのぶん癖は強くなり、悪く言えば「飽きられるのも早い」となる。

葛飾北斎『富嶽三十六景 赤富士』/wikipediaより引用
一方で広重は、破綻や極端な誇張がなく、正確でした。
西洋由来の透視図法を用いたデッサンは端正であり、じっくり見ても飽きず、ずっと眺めていたくなるような堅実さがある。
西洋画の技法は、常に受け入れられたものでもありません。
広重と同年齢で歌川派の人気絵師であった歌川国芳は、人物画に西洋画法を取り入れたところ、売れずに打ち切りとなったことすらあります。
そしてこの街道ものの背景には、見逃せないトレンドもあります。
十返舎一九の街道ものである『膝栗毛』ものは、当時大ヒットを飛ばしていました。
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読者としては、主人公たちが旅する街道に興味が湧いてくる。そんな需要もあったのです。
広重の魅力も、今さら説明するまでもないでしょう。
見ていて飽きのこない端正さがあり、現代でもカレンダーやポスターの定番となる。
当時の江戸っ子も、今を生きる私たちも、ずっと見ていたくなる魅力が彼の絵にはあるのです。
天保の改革にも強い広重
天保年間は、浮世絵師たちにとって頭の痛い問題がありました。
水野忠邦による【天保の改革】です。
同じ歌川派でも、売れ筋路線を手掛ける歌川国貞や歌川国芳は困り果てました。
改革は売れ筋ジャンルを狙い撃ちにしており、規制を潜り抜けるための工夫に頭を悩ませることとなったのです。
例えば国芳は【戯画】に活路を見出します。
【役者絵】が禁じられたなら、人でなくて猫にしてやらァ!
と、役者の特徴を取り入れた猫絵を描き、改革をすり抜けようとしました。
国芳が愛猫家であったことは確かですが、猫が好きだからという理由だけで、あのような絵を描いたわけではないのです。
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その点【風景画】は規制を受けません。
せいぜい色数が抑えられる程度で、影響はほぼありませんでした。
画業当初は売れ筋路線が得意でなく、苦労した広重にとっては、それがかえって強みになったのですから人生わからないものです。
そんな広重は、このころから別ジャンルも手掛けるようになります。
【花鳥画】です。
季節の花や鳥を描く風雅な絵であり、本来こうした絵画は上品で、将軍も愛する狩野派の絵師が手掛ける定番でした。
広重は、ジャンルの垣根も取り払うように、この分野で素晴らしい作品を残していくのです。
確かな観察眼。
斬新な構図。
こうした絵には和歌、俳句、漢詩が添えられ、興趣を深めます。
江戸時代後期ともなると、江戸の人々の教養も底上げされていて、風雅な趣味にも広重の絵は応じることができました。
北斎もこのジャンルに作品を発表していましたが、人気では広重が上回ったようです。
すっかり巨匠となった広重は、各地を旅することで見聞を深め、さらなる画業へ邁進してゆきます。
広重の絵に見える日本社会の変貌
ときは幕末前夜の嘉永年間、歌川広重の画業に象徴的な作品群が生み出されています。
「天童広重」と呼ばれる肉筆画です。
出羽国には織田信雄を藩祖とする二万石の天童藩がありました。
このころ日本各地の藩は財政難にあえいでおり、天童藩が出した苦肉の策は、領民に御用金を貸し、その返礼品として広重の肉筆画を贈るというものでした。
豪華返礼品で納税を募る……って、どこかで聞いたことがありませんか?
そう、現代のふるさと納税ですね。
嘉永2年から4年(1841ー1843)にかけて制作されたこの絵は、絹本の掛け軸であり、広重の肉筆画ともなれば、落ち着きと格調の高さに満ちています。
もらった側からすれば、これぞ武士の好む質実剛健さかと納得できたことでしょう。
江戸っ子の歓心を引くことこそが、浮世絵師の宿命といえました。
広重はさらにそこから枠を超えて、武家好みの本格的な絵を手掛けるようになったのです。
武家出身の浮世絵師が、他にいなかったわけではありません。
徳川家治のそば近くに仕えた鳥文斎栄之は、狩野派を学んだ拡張高い作風が特徴とされました。
しかし、その栄之は、浮世絵師となったことで、狩野派から破門されています。
本来は、武士の絵と、浮世絵は、超えられない垣根があったはずなのです。
それが天童藩側から、広重に依頼しているのですから、身分制度が崩れていたことを感じさせる現象と言えました。
幕末動乱から身を遠くに置き没す
「天童広重」が制作されてからほどなくして、嘉永6年(1853年)、浦賀にペリーの黒船が来航しました。
多くの浮世絵師も影響を受けることとなったこの一件。
還暦に近い広重はその例外と言えました。
彼は【風景画】を描き続けながら、人生そのものの区切りを考えた行動をとるようになります。
順に見て参りますと……。
安政2年(1855年):「一立斎」の号を講釈師に与える
安政3年(1856年):還暦を迎えて剃髪し法体となる
安政5年(1858年):9月6日の早朝、息を引き取る
死因は、当時流行していたコレラ説もありますが、確定はできません。
享年62。
以下のように辞世が伝わっています。
東路に 筆をのこして 旅の空 西のみくにの 名所を見む
江戸はじめ東国の景色は見たままに描いてきた。けれども西国は旅することができなかった――さらなる画業への思いが残された歌とされます。
後世の作とする説もありますが、広重らしい歌と言えるのではないでしょうか。
門人の広宣が二代目広重を名乗り、広重の養女であったお辰の婿となりますが、慶応元年(1865年)にお辰と離縁し、広重の名を捨てます。
そして、その後の慶応3年(1867年)頃、お辰の婿となったのが三代目広重。
三代目は二代目を上書きするように「二代目」と名乗ったため、注意が必要であり、明治末から大正にかけて、四代目広重が襲名されています。
五代目は四代目の実子となります。
二代目以降の広重は、新時代を描く【開化絵】を手掛けました。
列車が行き交い、洋服姿の東京の人々が描く浮世絵を残したのです。
★
広重の絵は、江戸時代の美しさが残されています。
様々なカレンダーやパッケージに残され、これが定番だと刷り込まれているでしょうし、ゴッホやモネが取り入れたことから斬新だとも説明されたりします。
しかし、実は西洋画家の目を通さずとも、当時の江戸っ子にとっても十分新しかったのです。
広重の生み出した絵は、幕末へ向かう時代の象徴とも言えます。
武士でありながら、食べていくために絵筆を握る姿は、身分制度の崩壊を示しているでしょう。
西洋画から透視図法を取り入れる。海外から入っていたベロ藍を用いる――グローバル化が確実に進んでいたことも浮かんできます。
身分制度や国境、他にも様々なしがらみを超えていた広重。
その作品が海を超えて愛されることは必然だったのかもしれません。
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【参考文献】
内藤正人『もっと知りたい 歌川広重』(→amazon)
太田記念美術館『別冊太陽 広重決定版』(→amazon)
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon)
他







