歌川広重

歌川広重/wikipediaより引用

江戸時代

元御家人の地味な絵師だった歌川広重が世界のヒロシゲブルーになるまでの軌跡

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風景画が売れる新時代へ

師匠の死の翌年、文政13年(1830年)のこと。

歌川広重は号をそれまでの「一遊斎」から「一幽斎」に改めました。

どこか定まらない「遊」から、奥深い「幽」へ――何か象徴的にも思える変化です。

そして文政年間後期に入り、名所絵も手掛けていた広重のもとに、天保2年(1831年)、版元の川口屋から『東部名所』という大判横絵十枚の依頼が舞い込みました。

新たな人気ジャンルが求められる浮世絵。

江戸の風景を描く『東部名所』には、新たな試みもありました。

ベロ藍(ベルリンブルー)という鮮やかな青い絵の具です。

オランダ~上方を経由して、ついに江戸へ到達したこの鮮やかな青は、文政年間末、渓斎英泉(けいさい えいせん)の団扇絵に使われ始めたものが最初期とされ、後に彼の名を冠した「ヒロシゲブルー」と称賛される色となります。

これを大々的に用いることで、浮世絵は新たな時代が幕を開けました。

同じころ、巨匠・葛飾北斎が手掛けた『富嶽三十六景』にもベロ藍が用いられていました。

「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏/wikipediaより引用

広重の風景画デビューは、北斎には及ばぬものの、鮮烈で新時代の到来を感じさせるものでした。

天保3年(1832年)、広重は「一幽斎」から「一立斎」に号を変えます。

改名がキッカケとなったのでしょうか。この年は広重の転機となりました。

名目上の家督を譲った仲次郎は17歳になっており、彼の後見をやめ、絵師に専念できるようになった。

曲亭馬琴の日記には、この年に広重が【書画会】を開催したともあります。

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書画会とは当時の文人にとっての一大イベントでした。

支持者を集め、扇や掛け軸に賛を書き入れ、引き換えに喜捨を集める――いわば現代のクラウドファウンディングのような催しです。

己の知名度を知ることができ、グッズ販売で活動資金を稼ぐことができる。

広重が浮世絵師として飛躍する決意を感じさせるイベントといえるでしょうか。

天保4年(1833年)、広重はついに『東海道五十三次』を発表するのです。

この作品がヒットし【風景画】の人気絵師としての名声を確たるものとしたのでした。

歌川広重『東海道五十三次』「日本橋」/wikipediaより引用

 


ずっと眺めていたくなる広重の風景画

前述の通り【風景画】は地味なジャンルです。

浮世絵の開祖たる菱川師宣以来、街道を描く作品は定番でしたが、あえて街道の景色をじっくり描くとなると、この天保2年は大きな転換点でした。

北斎と広重は、同じジャンルにせよ作風が異なっています。

北斎は持ち前の奇想、道教思想への傾倒をふまえ、斬新で奇妙な絵を生み出してゆきます。

今でも斬新であり、そのぶん癖は強くなり、悪く言えば「飽きられるのも早い」となる。

葛飾北斎『富嶽三十六景 赤富士』/wikipediaより引用

一方で広重は、破綻や極端な誇張がなく、正確でした。

西洋由来の透視図法を用いたデッサンは端正であり、じっくり見ても飽きず、ずっと眺めていたくなるような堅実さがある。

西洋画の技法は、常に受け入れられたものでもありません。

広重と同年齢で歌川派の人気絵師であった歌川国芳は、人物画に西洋画法を取り入れたところ、売れずに打ち切りとなったことすらあります。

そしてこの街道ものの背景には、見逃せないトレンドもあります。

十返舎一九の街道ものである『膝栗毛』ものは、当時大ヒットを飛ばしていました。

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読者としては、主人公たちが旅する街道に興味が湧いてくる。そんな需要もあったのです。

広重の魅力も、今さら説明するまでもないでしょう。

見ていて飽きのこない端正さがあり、現代でもカレンダーやポスターの定番となる。

当時の江戸っ子も、今を生きる私たちも、ずっと見ていたくなる魅力が彼の絵にはあるのです。

 


天保の改革にも強い広重

天保年間は、浮世絵師たちにとって頭の痛い問題がありました。

水野忠邦による【天保の改革】です。

同じ歌川派でも、売れ筋路線を手掛ける歌川国貞や歌川国芳は困り果てました。

改革は売れ筋ジャンルを狙い撃ちにしており、規制を潜り抜けるための工夫に頭を悩ませることとなったのです。

例えば国芳は【戯画】に活路を見出します。

【役者絵】が禁じられたなら、人でなくて猫にしてやらァ!

と、役者の特徴を取り入れた猫絵を描き、改革をすり抜けようとしました。

国芳が愛猫家であったことは確かですが、猫が好きだからという理由だけで、あのような絵を描いたわけではないのです。

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その点【風景画】は規制を受けません。

せいぜい色数が抑えられる程度で、影響はほぼありませんでした。

画業当初は売れ筋路線が得意でなく、苦労した広重にとっては、それがかえって強みになったのですから人生わからないものです。

そんな広重は、このころから別ジャンルも手掛けるようになります。

【花鳥画】です。

季節の花や鳥を描く風雅な絵であり、本来こうした絵画は上品で、将軍も愛する狩野派の絵師が手掛ける定番でした。

広重は、ジャンルの垣根も取り払うように、この分野で素晴らしい作品を残していくのです。

確かな観察眼。

斬新な構図。

こうした絵には和歌、俳句、漢詩が添えられ、興趣を深めます。

江戸時代後期ともなると、江戸の人々の教養も底上げされていて、風雅な趣味にも広重の絵は応じることができました。

北斎もこのジャンルに作品を発表していましたが、人気では広重が上回ったようです。

すっかり巨匠となった広重は、各地を旅することで見聞を深め、さらなる画業へ邁進してゆきます。

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