元弘元年=元徳三年(1331年)9月5日は、足利貞氏が亡くなった日です。
名字からイメージが湧くかもしれませんが、室町幕府の初代将軍・足利尊氏、そのトーチャンです。
尊氏といえば
といった不安定エピソードの持ち主として知られ、
「よくそれで武家の棟梁になれたな!」
とツッコみたくなるような行動も多く伝えられていますよね。
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実はこれ、尊氏だけの特徴ではありません。
トーチャンもジーちゃんも、その前のご先祖様も、なんだか似たような印象があります。
というわけで今回は、足利家の華麗な血脈(初代~七代)
・足利義康
・足利義兼
・足利義氏
・足利泰氏
・足利頼氏
・足利家時
・足利貞氏
を振り返ってみましょう。
「尊氏の足跡を正当化するために、先祖もアレやソレな特徴を持っていたことにした」という見方もあるのですが、その辺は今後新史料が見つかればわかるでしょう。
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◆初代 足利義康
足利義康は、源氏の代表的武士として知られる「源義家」の孫です。
母親は村上源氏に連なる源有房の娘ですので、”清和源氏と村上源氏のハイブリッド”とみなすこともできます。
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以下の図をご参照ください。
義家の息子の代からみると、義国から義康へ続いて足利、義親からは頼朝へ繋がっていきます。
さらに、義家の弟である義光からは武田氏が出てきます。
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戦国時代にあっちこっちで「源氏の末裔」が出てくるのはそういうわけです。
義康は父から下野国足利を譲られたため、「足利」を名字にしました。
この場所を鳥羽上皇の建てた安楽寿院に寄進し、朝廷から公的にこの土地の管理を任されています。
さらに鳥羽上皇から北面の武士の一員として召し抱えられ、左衛門尉・検非違使の職も得ました。
こうして皇室の覚えがめでたくなった義康は、保元の乱で後白河天皇方につき、平清盛・源義朝と味方になっています。
保元の乱が後白河天皇方の勝利で終わると、義康には褒美として蔵人・陸奥守の官職と昇殿が許され、大出世しました。
この間、のちの新田氏に繋がる兄・義重がずっと地元にいたのと比較すると、義康は政治的センスに優れていたともいえるでしょう。
足利氏歴代当主の中でも一番普通っぽいというか、一番安定していた人というか。
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◆二代 足利義兼
二代目の足利義兼は、歴代当主の中で女性とのつながりが目立つ人です。
下野国足利が鳥羽法皇の寵姫・美福門院(藤原得子)に譲られた後、さらにその娘である八条院(暲子内親王)のものになったため、義兼は「八条院蔵人」とあだ名されました。
源平の戦いこと【治承・寿永の乱】ではもちろん頼朝方につき、その後、北条政子の妹・時子を正室に迎え、北条氏との繋がりを強めます。
頼朝夫妻からみると、義兼は血縁と姻戚の二重に繋がった縁を持っているわけですね。
奥州藤原氏征伐にも従っています。
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ちなみに、彼には二人の兄がいたのですが、治承・寿永の乱の中で討死してしまっています。
別行動したおかげで義兼は助かり、その後の足利氏に繋がるわけですね。
義兼個人の特徴としては、「身長八尺あまりで力に優れていた」とされます。
そのままの数字でとらえると、八尺=約240cmということになってしまいますので、これはさすがに非現実的。
「平安のモビルスーツ」「ジャパニーズ呂布」などと呼ばれているあの源為朝でも七尺(約210cm)ですからね。
ついでにいうと、あまりにも義兼がデカくて怪力だったので
「足利義兼は源為朝の隠し子なのでは」
なんて話が出たほどでした。
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繰り返しになりますが、これらは軍記物の記述からきている表現なので、かなり盛られています。
リアルに考えるとすれば、
“義兼はパッと見てわかるほど際立って背が高く、怪力の持ち主だった”
というところでしょう。
おそらく「平均身長より20cm以上高かった」くらいが現実的な数字なのではないでしょうか。
「大男総身に知恵が回りかね」なんて言葉もありますけれども、義兼は文化を大切にする面も持っていました。
地元・足利の屋敷に持仏堂を建て、これが現在も残る鑁阿寺(ばんなじ)というお寺になっています。
また、日本初の高等教育機関とされる「足利学校」の創始者が「義兼ではないか?」という説もあります。
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しかし、建久六年(1195年)3月に7歳の息子を残して突如出家、というトリッキーなこともやりました。
前述の通り源氏の宗家と親戚であり、かつ北条氏と縁戚という濃い繋がりを持っていた
↓
源頼朝に謀反を懸念されて粛清される前に自分と家を守った
という見方もあるようですが、思い切りがいいですね。
この後、有力御家人が次々に滅ぼされていくことを考えると、先見の明があったといえるかもしれません。
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