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【足利氏の初代~七代】
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◆三代 足利義氏
父の出家によって家督を継いだ時、三代目の足利義氏はまだ11歳の少年でした。
武家のならいとして元服を考える頃合いではあるものの、家を担うには不安も残ります。
彼の時代は、鎌倉時代序盤の大イベントが多かった時期でもありました。
義氏はどうにかこうにか自分と家を守るべく、北条氏に対し忠実に尽くすことを選びます。
建保元年(1213年)和田義盛の乱では、和田方の豪傑・朝比奈義秀と対決しました。
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また、承久の乱でも北条泰時率いる東海道隊として参戦し、恩賞を得ています。
そのため懐も潤っていたらしく、暦仁元年(1238年)の北条政子十三回忌では、高野山に大仏殿と大日如来像を建てています。
宝治元年(1247年)に三浦氏が起こした宝治合戦でも活躍し、さらに恩賞を得ました。
また、彼の妻は北条泰時の娘でしたので、これ以降の足利氏はさらに北条氏との繋がりが濃くなっていきます。
トーチャンが幕府中枢と距離を置こうとしていた場合、義氏の結婚で元に戻ってしまった感がありますが、義氏としては逆の考えだったんでしょうかね。
父の義兼がかなりガタイのいい人だったためか、義氏も特にその辺が似ていて、武勇に優れていたとされています。
性格の方も強いというか頑固というか……60歳のときに81歳の御家人と大ゲンカをしたこともあります。
身体的には父方、精神的には母方に似たんでしょうか。
かと思えば、後拾遺和歌集に選ばれるほどの歌人という文化的な面も持っているのが義氏の面白い所です。
文武両道の見本みたいな人ですね。
これは余談ですが、「義」も「氏」も武士の名前でよく使われるためか、「足利義氏」という名の人物は歴史上に彼を含めて4人います。
幸いというか当然というべきか、それぞれ生きていた時代が違うので区別はつきやすいです。
◆四代 足利泰氏
三代目まではかなり順調に来ていた足利氏でしたが、少々雲行きが怪しくなってくるのが四代目の当主・泰氏です。
彼は35歳のときに突如出家し、存命中だった父・義氏を困らせました。
ただ単にじーちゃんのマネをしただけとは考えられませんので、泰氏の中で何か大きな理由があったのでしょうけれども、これで困るのは周りの人々です。
御家人が出家するには鎌倉幕府の許可が必要とされていたため、当然幕府でも大騒ぎされ、領地を一部没収されてしまいました。
これも祖父と同様に、
「我が家は力を持ちすぎた。
ここで一旦弱くなっておかないと、いつ北条氏に睨まれて滅ぼされるかわからない。
私が出家すれば領地を減らされるだけで済むだろう」
というようなことを考えてのことかもしれません。ただ、せめて周囲の人と息子に相談してからにしたほうが良かったんじゃないですかね。
出家した泰氏をそのまま当主にしておくことはできないので、まだ11歳の息子・足利頼氏に家督が引き継がれるんですが……。
◆五代 足利頼氏
突然出家したトーチャンの跡を継いで、急遽当主になったのが足利頼氏。
生まれつき体が弱く、23歳前後で亡くなってしまったとされています。
源氏の名門であるはずの足利家で、当主の没年がわからないというのがもう……。
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