大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、お笑い芸人・ティモンディの高岸さんが演じていた仁田忠常。
建仁3年(1203年)9月6日はその命日です。
ドラマでは、源頼家と北条家の軋轢に苛まされ、自ら頸動脈を切って自害する――そんな衝撃的で律儀すぎるシーンが話題となりましたが、だからこそ気になるのが史実での最期でしょう。
これが、笑うに笑えない最期を迎えていまして……。
一体どんな展開だったのか?
仁田忠常の生涯を振り返ってみましょう。
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最古参の御家人・仁田忠常
仁田忠常の名字は「新田」や「日田」と書くこともあります。
父母の素性は不明で、伊豆国仁田郷(静岡県田方郡)の人だったこと、そして仁安二年(1167年)生まれだということは判明。
そこから幼少期の記録が飛んで、歴史に登場するのは治承四年(1180年)です。
【石橋山の戦い】において、源頼朝に従っていたとされていて、御家人の中では最古参といってもいいでしょう。
源平の戦いこと【治承・寿永の乱】では、源範頼に従って九州に渡りました。
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奥州合戦にも参加していますが、いずれも個人の武勲というものは伝わっていません。
これまた詳細は不明ながら、頼朝からの信頼も厚かったとされています。
例えば文治三年(1187年)に忠常が大病を患ったとき、頼朝は自ら見舞ったほどですから、よほどの何かがあったのでしょう。
記録に残りにくい、日常の態度などが高く評価されたのかもしれません。
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富士の巻狩り
忠常個人の武勇伝といえるのは建久四年(1193年)。
【富士の巻狩り】でのことです。
このとき忠常は手負いの大猪を仕留めたとされています。
また【曾我兄弟の仇討ち】でお馴染み、曽我兄弟の兄・祐成を討ち取ったとも。
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やはり細かな人物像が浮かび上がるようなエピソードはないものの、おそらく”豪胆で力自慢な人”だったのでしょう。
ドラマでのティモンディ高岸さんも、そのイメージに近かったですよね。
頼朝の跡を継いで二代将軍になった源頼家にも、忠常は信頼されていたようです。
頼家も腕力が強かったそうですので、親近感が湧いたのではないでしょうか。
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忠常の屋敷に出かけて小笠懸をしたり、頼家の嫡男・一幡の乳母父を忠常に任せたりしていました。
富士山の人穴
建仁三年(1203年)6月に駿河へ狩りに出かけたときには、富士山の人穴(ひとあな)でのエピソードが残されています。
忠常が従者5人を連れて中に入っていくと、足元がずっと濡れていて、そのうち川のような流れになっていったそうで。おまけにコウモリがたくさんいて、実に進みづらかったとか。
いろいろ難儀しながらも、一行がしばらく進むと、その先に不思議な光が当たり、従者のうち4人が即座に死んでしまったのだそうです。なんじゃそれ、怖すぎ。
忠常もさぞ恐ろしかったでしょうが、穴へ入る前に頼家に賜った剣を川の中へ投げ込み、なんとか逃げおおせてきたのだとか。
その後、土地の老人が言うには
「浅間大菩薩のお住まいなので、みだりに立ち入るべきではなかった」
だそうで。
浅間大菩薩というのは、富士信仰=浅間信仰の中心となる神様で、コノハナサクヤヒメと同一視されることもあります。
つまりは「皇室の遠いご先祖様の住まいに土足で立ち入ってしまった」ということになるわけで、バチが当たるのもむべなるかなという感じなお話ですね。
そんなわけで、頭脳派というよりは剛の者といった印象の忠常。
思わぬところで滅びてしまうことになります。
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