仁田忠常

多くの御家人並ぶ場でもかなり頼朝に近い席次の仁田忠常/国立国会図書館蔵

源平・鎌倉・室町

頼朝古参の御家人だった仁田忠常~笑うに笑えない勘違いで迎えた切ない最期

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比企能員の変

滅亡のキッカケは建仁三年(1203年)9月。

比企能員の変】です。

このとき仁田忠常は、北条時政の命に従い、討手側の一人として参戦しました。

そもそもこの事件は、源頼家が危篤状態に陥っていたことから、その妻の実家である比企氏の影響を取り除くため起こされたのですが、頼家が奇跡的に回復して一悶着起きたものです。

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事の経緯を知った頼家は激怒。

仁田忠常と和田義盛に、祖父である時政の討伐を命じました。

義盛が、この命令をはねつけて時政に報告したのですが、忠常はなんと時政邸に出かけてしまうのです。

この時点で時政を討ってしまうつもりだった? とも受け取れますが、そこであろうことか酒宴を楽しんでいたようなので、ワケがわかりません。

忠常は何を考えていたのでしょう。

「同じ殺すにしても、その前に出された酒は飲んでおこう」とでも……?

そんな冗談も、あながち冗談と言い切れないのが、この時代の坂東武者です。

しかし、さすがに部下たちは気が気でなかったようで。

仁田忠常が時政邸の中にいる間、時政邸の前で郎党たちが早合点してしまいます。

二刻(=約四時間)経っても主人が出てこないので「既に忠常様は討たれているのでは?」と考えてしまうのです。

戦の後でしたので、焦る気持ちもあったのかもしれません。

そこで彼らが時政邸内に入ろうとすると、警護の武士に追い返され、嫌な予感はどんどん膨れてしまいます。

「やはり忠常様はもう討たれ……急いで一族の方にお伝えしなくては!」

もうこうなると、止まらない。

疑惑を深めた郎党たちは、仁田邸にいる忠常の一族に勘違いの内容をそのまま知らせてしまったのです。

 


義時邸で次々に討たれ

判断が間違っているのに行動だけは早い――そんな厄介な行動は、さらに事態を悪化させていきます。

もともと兄の身を案じていた忠常の弟たちも「忠常はもう討たれた後だ」と信じ込んでしまいました。

そしてなぜか北条義時邸へ向かいます。完全に八つ当たりですね。

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義時は、このとき将軍御所にいたので、義時邸の門番がそのように告げました。

むろん、仁田一族の怒りは収まりません。

なんとそのまま将軍御所に攻め込んでしまうのです。

しかも「比企氏の残党か!」と他の御家人たちにも誤解され、あっという間に刃傷沙汰になってしまいました。

仁田氏一門は御所の作りに詳しくなかったせいか。

警備の武士に待ち伏せされ、次々に討ち取られたといいます。

忠常の弟・六郎は散々に暴れ、勝ち目がないと悟ると、台所に火を放って自害したとか。

一方そのころ忠常は、気持ち良く酔っ払い、自宅へ帰ろうとしていました。

待たせておいた郎党や馬がいないのを怪しみ、御所方面の空が赤いのを見て「有事か」と思んで、自邸へ駆け込んだそうです。

すると下女が事のいきさつを話したので、忠常のほうが面食らったとか。

忠常は急いで残っていた馬を引き出し、御所へ向かいましたが、時既に遅し。

建仁3年(1203年)9月6日、加藤景廉という御家人に討たれてしまいました。

忠常は源頼家に近い立場でしたので、いずれ始末されていた可能性は否めませんが、なんともスッキリしない最期で……。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
安田元久『鎌倉・室町人名事典』(→amazon
笹間良彦『鎌倉合戦物語』(→amazon

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