個性豊かなメンバーが揃う大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の中でも、陰謀ばかり考えているキャラとして佐藤二朗さんが演じていた比企能員。
当初はトボけた風味のおじさんキャラでしたが、途中から北条vs比企の争いが過激化して、最期は北条勢に囲まれて謀殺という悲惨な死を迎えました。
記録では建仁3年(1203年)9月2日に討たれています。
そこで気になるのが、史実ではどうだったか?ということ。
敵対する北条の館へ自ら出向いたのは本当なのか?
なぜそんな危険なことに挑んだのか?
史実における比企能員の生涯を振り返ってみましょう。
【TOP画像】比企能員の邸跡地に建てられた妙本寺(能員の息子・能本が日蓮に献上して開山)
出自不詳の比企能員
比企能員は阿波出身の武士とされ、実の父母や出自は不詳。
源頼朝の乳母であった比企尼の養子となり、義兄にあたる比企朝宗が亡くなった後に比企氏の家督を継いだとされています。
おそらくは朝宗に健康上の問題があり、世継ぎに恵まれる可能性が低かったため、よそから迎えられたのでしょう。
もともと比企氏は武蔵国比企(現・埼玉県比企郡及び東松山市)の豪族でした。
平将門を討ったことで有名な藤原秀郷(ひでさと)の末裔を称する家の一つ。
このため、義母である比企尼は頼朝が伊豆に流されると、夫と共に地元へ下り、事細かに頼朝の生活を支援したといいます。
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なぜ頼朝を支援したのか?
というと、そもそも東国での源氏は評判がバツグンに高いものでした。
八幡太郎で知られる源義家が【後三年の役】において、私財をなげうち東国武士に恩賞を与えた――そんな経緯があり、以来、根強く支持されていたのです(詳細は以下の記事へ)。
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つまり、義家の子孫である頼朝が比企氏に助けられ、一方で頼朝も、その恩に報いるべく、比企氏全体を取り立てる――そうした流れがありました。
上野・信濃の守護に
比企能員は、若い頃の記録がありません。
悪評も残っていないので、真面目に働いていた可能性が高いでしょう。
洋の東西を問わず、たとえ小さな諍いでも粗野な振る舞いがあれば大袈裟に記録されるものですが、能員にはその類の話がないんですね。
讒言ばかり言っていたかのような印象の梶原景時と比較してみると、能員の逸話の少なさがそれを物語っている気がします。
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そんな能員の、幕府成立前の数少ない記録を見て参りますと……。
平家との戦いの合間に起きていた寿永二年(1183年)に起きた志太義広の謀反。
元暦元年(1184年)の源義高残党の始末など。
頼朝の命に従って着実に仕事をしていました。
平家との戦いでは、元暦元年(1184年)8月、源範頼に従って西国や九州にも渡っています。
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その翌年、鎌倉で頼朝と平宗盛が対面したときには両者の取次ぎもしているので、東西を忙しく行き来していたようです。
奥州合戦にも出陣。
華々しい活躍こそなかったようですが、忠実かつ着実な能員は頼朝に高く評価されました。
バリバリの武人タイプでもないことから、やはり鎌倉殿の13人で佐藤二朗さんのキャラが活きてきそうですね。
建久元年(1190年)秋の頼朝上洛にも供奉しており、その際、頼朝の推挙によって右衛門尉に任じられ、さらに上野・信濃の守護にも任じられています。
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能員の屋敷は、大切な京都からの使者や僧侶の宿所に用いられたといいますし、頼朝から並々ならぬ信任を受けていたのは間違いないでしょう。
建久六年(1195年)の頼朝上洛の際には「義経の残党が東海道付近におり、頼朝を待ち構えている」という噂が流れ、その対応に比企能員と千葉常秀があたっています。
※千葉常秀は祖父・千葉常胤と共に平家との戦いや奥州合戦に参加していた実戦経験豊かな御家人
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