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【比企能員】
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頼家の不可解な急死
政変の余波は、遠く九州にまで及びます。
比企能員の義理姉にあたる丹後内侍の子・島津忠久が【大隅・薩摩・日向】の守護を辞めさせられたのです。
ただし、後の実朝時代に御家人として復帰し、さらには薩摩の地頭職を許されているため、そこまで深い関係だとは思われなかったようですね。
一方で、二代目将軍・源頼家にも厳しい結末が待っていました。
比企能員の殺害から数日後、政子の命によって出家させられると、そのまま月をまたがずに修善寺へ幽閉され、翌年ナゾの急死を迎えるのです。
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ここまでが比企氏の乱、あるいは比企能員の変と呼ばれる事件。
梶原景時の変しかり、この時期の鎌倉幕府では”被害者のほうが事件の名についている”のが特徴といえるかもしれません。
基本史料である『吾妻鏡』が北条氏視点で書かれているため、事件名にも影響したのでしょう。
一族滅亡とはいわれていますが、能員の妻たちや、当時2歳だった末子・比企能本は一命を助けられ安房へ配流となりました。
能本は僧侶となり、順徳天皇に仕え、承久の乱後は配流先の佐渡にも行ったとか。
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さらに、四代目将軍・藤原頼経の御台所となった竹御所(頼家の娘・能本の姪)のはからいで、能本も鎌倉に戻ることができたそうで、その後は日蓮に帰依しました(京都で日蓮宗に帰依したという説も)。
蛇足ながら、ちょっと怖い話も。
竹御所が出産により亡くなると、比企能本は彼女の菩提を弔うため、比企氏の館があった比企ヶ谷に法華堂を建てました。
また、文応元年(1260年)北条政村の娘が若狭局の怨霊に取り憑かれるという事件があり、このときも供養のため法華堂が建てられました。
政村は元寇の直前に七代執権を務めていた人です。
乱から57年も経ってなお「比企氏の祟り」といわれるのは、当時の人々がそれだけ比企氏側に同情していたのかもしれません。
この二つの法華堂が、現在の妙本寺の起源とされ、悲劇を今に伝えています。
屋敷の焼け跡から見つかったとされる一幡の着物の袖を祀った”一幡の袖塚”。
比企一族の供養塔。
若狭局が身を投げたとされる井戸など。
悲しい由来を持つ寺院ですが、四季折々の景観が素晴らしい場所でもあります。
JR鎌倉駅からもほど近く、このエリアの中では平坦な場所にあるので、訪問しやすいかと。
鎌倉を訪れる際には、観光先の一つに選ぶのも一興かと思います。
比企氏と頼朝 あらゆるところに絆あり
最後になりましたが、比企尼の娘たちも見ておきましょう。
比企能員の義姉妹となる彼女らも、源氏や北条氏と密接な関係にありました。
宮仕えをしていた長女の丹後内侍は、両親と同じく関東に下って安達盛長の妻に。
彼らの間に生まれた娘が、頼朝の弟・源範頼に嫁いでいます。
丹後内侍は宮仕えのときに島津忠久を生んでおり、この縁で先程の守護解任の話となりました。
島津忠久は、薩摩島津家の始祖となった御家人で、歴史の流れを感じさせますね。
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次女は河越尼と呼ばれている人。
武蔵河越荘の武将・河越重頼に嫁ぎ、後に源義経の正室となる郷御前などを産んでいます。
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重頼は義経の縁者として誅殺されてしまいましたが、河越尼にはお咎めがなく、河越荘の管理を任されました。おそらく比企尼の娘だったからでしょう。
三女は伊豆の豪族・伊東祐清に嫁ぎ、平家方だった夫は処刑。
その後、源氏一門である平賀義信に再嫁しました。
義信との間には平賀朝雅が生まれ、彼は北条時政の娘を正室に迎えています。
そこから時政失脚にもつながっていくのですが、ここではその話は置いておきましょう。
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比企尼の次女・三女は頼家の乳母も務め、その流れで能員も乳母父となったようです。
この時代、乳母には乳をやる母親代わりの女性という他に、成長した後の後見役になることもありました。
乳母父はそういった役目を務める男性のことです。
字面からするとわかりにくいですが、傅役や後見者と言い換えればわかりやすいでしょうか。あえて”乳母父”という場合は、乳母の近親者や夫である場合が多いようです。
比企尼は女婿である盛長・重頼・祐清らにも流刑中の頼朝を支援するよう命じていたとされます。
頼朝が比企尼だけでなく、比企氏の関係者全てに深く感謝していたのも頷ける話です。
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長月 七紀・記
【参考】
上横手雅敬『鎌倉時代 その光と影』(→amazon)
他