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【比企能員】
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娘の若狭局が二代目将軍の妻に
建久九年(1198年)は比企能員にとって躍進の年となりました。
娘の若狭局(ドラマではせつ)が、頼朝の嫡男で二代目将軍・源頼家の妻になったのです。
若狭局は同年中に一幡を生んでいるので、夫婦仲も良かったのでしょう。
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結婚の前から関係があった可能性もありますが、この時代ですからそれもままある話。
しかし、その栄光も長くは続きません。
正治元年(1199年)に源頼朝が亡くなってしまうのです。
新将軍となった頼家は、能員にとっては婿であり、順当に行けば孫の一幡がいずれ将軍を継ぐのですから、重臣の中でも非常に有利な位置にいます。
当然、十三人の合議制にも入ります。
しかし、そもそもこの制度が「専横のきらいがある頼家の歯止め役」という観念(名目)で作られたことを考えると、「合議制ができる前の能員は、頼家にとって都合の良い義父だった」可能性が否定できません。
頼家は、能員の息子たちを含めたごく一部の若者を指名し、こう宣言していました。
「彼らを通さなければ、自分への目通りは許さない」
要は、古株の重臣たちを軽んじた政治ということですね。
頼家が近習らを引き連れて能員の家に行き、蹴鞠などで憂さを晴らすことも多かったと言います。
おそらく母の北条政子や実家を快く思ってなかったのでしょう。
しかし北条氏からすれば「頼家が母の実家より嫁の実家をアテにしている」ことになり、関係悪化は避けられません。
頼家にしてみれば、何かとうるさい母親や北条氏より、愛する妻や優しい義父のほうが好ましかっただけかもしれませんけど。
ただし、為政者としては、あまりに配慮に欠ける行動でした。
比企能員の変
次第に政権内の空気がキナ臭くなっていく建仁3年(1203年)8月、事態が動きます。
もともと体の弱かった頼家が、体調を崩して危篤に陥ってしまったのです。
まだ嫡子の一幡は幼く、弟の千幡も元服前の少年。
頼家が亡くなってからでは遅い……と判断した北条時政は、
「関東の地頭職と日本国総守護職を一幡、関西の地頭職を千幡に相続させよう」
と言い出しました。
当然、比企能員と若狭局は不満を持ちます。
「嫡子である一幡が全てを相続するべきです!」
そうして頼家の回復を待ち、時政の排斥を進言しました。
頼家も日頃から時政や北条氏には不満を持っていましたので、これを好機と捉え、比企能員に時政追討を命じます。しかし……。
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時政排斥の計画が、北条政子の耳に入ってしまうのです。
政子は、敵対する息子ではなく、父の時政を優先し、報告。
計画を耳にした時政は建仁三年9月2日、比企能員を呼び出しました。
「仏事について相談があるので、我が家へお越しいただきたい」
これから討とうとしている相手に呼び出されるとは何事か? 当然ながら能員は疑心暗鬼となり、比企氏の間でも動揺が生じたようです。
一族の者たちは「万が一を考え、武装していってください」と勧めます。
しかし、能員は「害意があると思われ、かえって怪しまれる」と反対。
平服で時政邸に向かったのが運の尽きでした。
邸へ入るとき、左右から時政の手の者に引き倒され、そのまま殺されてしまうのです。
慌てて逃げ帰った従者が能員殺害のことを比企氏の面々に知らせると、彼らは一幡の館(小御所)に立て籠もって防戦を試み……結局、北条軍に攻め込まれてしまいます。
同日の午後4時頃、残った比企一族の者達は、館に火をかけ、自害。
さらにこの夜、能員の岳父・渋河兼忠が同じく北条氏の手の者によって誅殺されました。
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