建仁三年(1203年)10月3日は、運慶快慶が東大寺南大門の金剛力士像を完成させた日です。
運慶と言えば、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場したのを覚えておられるかもしれません。
才気あふれる仏像の彫師(相島一之さん)で、ざっくばらんな性格を北条時政も気に入り、阿弥陀如来の前で一緒にお酒を飲んでいましたね。
そんな彼が作ったのが、京都奈良の修学旅行でもお馴染みの金剛力士像など。
今なお我々に多大なインパクトを与える数多の仏像は如何にして作られたのか?
今回は二人の来歴を交えて、その足跡を振り返ってみましょう。
ちなみに同じ「慶」の字がついていますが、彼らはおそらく血縁関係ではありません。
「慶派」という仏師(仏像を作る職人)の流派の通字みたいなものです。
まずは運慶から見てみましょう。
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運慶は興福寺を拠点にした仏師康慶の子
運慶は、奈良・興福寺を拠点に活動していた仏師・康慶の子であるとされています。
生年を含めて、若い頃のことはよくわかっていません。
息子(長男)の湛慶が承安三年(1173年)生まれという記録があるため、運慶自身は1150年代頃の生まれとみられています。
彼が手掛けた中で、現存している最古の作品は、安元二年(1176年)に完成した奈良・円成寺の大日如来像。
造像だけでなく写経も行っており、寿永二年(1183年)には法華経の書写を完成させたことがありました。
現在では「運慶願経(うんけいがんきょう)」と呼ばれているものです。
巻末に48人もの仏師の名前が書かれており、起請文のような意味も強かったようです。
仏像を作る仕事をしているのですから、当たり前といえば当たり前ですが、運慶たちの信仰心の厚さがうかがえますね。
快慶は源義経と同じ頃に生まれたか
次は快慶について。
彼も生没年ははっきりしていません。
少なくとも寿永二年(1183年)には仏師になっていたことがわかっています。
この頃20代ぐらいだとすると、1160年代頃の生まれでしょうか。
運慶か快慶のどちらか、あるいは二人ともが源義経(平治元年=1159年生まれ)と同世代ということもありえますね。
快慶作の現存する仏像で最も古いのは、現在アメリカ・ボストン美術館に所蔵されている弥勒菩薩立像だといわれています。
文治五年(1189年)の作とされていますので、寿永二年辺りで仏師になっていたとしたら、数年で作風を確立させたことになりますね。
快慶にはもうひとつ特徴があります。
快慶は運慶と比べて真作とわかっているものが多いのです。
彼は、自作の仏像に「巧匠アン阿弥陀仏」という銘を刻んでいました。
実はこれ、当時の仏師としては珍しいことでした。
刀工などもそうですが、鎌倉あたりまでの職人は銘を入れないことも多かったようですね。
銘がないために後世に真作が伝わりにくく、有名な割に実物があまり見つからない職人も多くいます。有名な例だと、刀の「正宗」などでしょうか。
「アン」は梵字(お経の言語であるサンスクリット語の文字)なので、カタカナで表記するしかありません。字面が間抜けですがご勘弁ください。
この「アン」を「安」と置き換えたのか、快慶に似た様式の仏像を「安阿弥様(あんなみよう)」とも呼んでいます。
また、阿弥陀如来像を多く残していることから、快慶自身が熱心な阿弥陀信者だったと考えられています。
大きなお寺だけでなく、小さなお寺の仏像も多く手がけており、強い仏心を持っていた人物だったろうということがうかがえますね。
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