大治2年(1127年)10月20日は源義光の命日です。
「いったい誰なの?」と思われる方は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の八嶋智人さんを思い出してください。
源頼朝のライバル関係であり、甲斐からやってきた武田信義――その曽祖父がまさに“源義光”であり、
源義光
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源義清
│
源清光
│
武田信義
その後の武家社会に絶大な影響を与えた方でもあります。
なぜなら信義の子孫にいるのが武田信玄であり、また義光の別の子からは佐竹義重などの佐竹氏も輩出されました。
いきなり、まくし立てるように説明して申し訳ありません。
他にも『鎌倉殿の13人』で北条時政の婿であった平賀朝雅も子孫ですし、もはや数え上げたらキリがないほど。
こうなると「なぜ義光の流れはこれほど発展できたのか? 当人はどんな武士だったのか?という疑問も湧いてくるかもしれません。
「新羅三郎義光」とも称される源義光の生涯を振り返ってみましょう。
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河内源氏三兄弟
源義光の事績を振り返るには、まず本人を含めた三兄弟で見ていくのがよろしいかと思われます。
彼らがその三人で、生没年は諸説あります。
三兄弟の父は源頼義で、母は平直方の娘。
異母兄弟ではなく、同じ母の子と伝わります。
生まれた場所は河内国南部、現在の大阪府羽曳野市でした。
同エリアを拠点とする河内源氏の三兄弟は、それぞれ元服した寺社を取ってこう名乗ります。
八幡太郎義家
賀茂二朗義綱
新羅三郎義光
「新羅三郎義光」とは不思議な呼称だなと思うのも、こうした由来があったんですね。
後に武名を轟かせる三兄弟。
それは名門・河内源氏だからこそ、と思ってしまうかもしれませんが、義光の生誕時点でそこまで強かったわけではありません。
むしろ、源氏の一系統に過ぎず、河内源氏を特別な存在にしたのは義光と兄二人であり、彼らの活躍は鮮烈でした。
では、何がどう鮮烈だったのか?
それには平安末期における“武士”の存在を確認しておくのが良いかと思われます。
東北「蝦夷」の討伐へ
頼朝を中心とした源平合戦に入る前、平安時代の武士はいかなる存在だったか?
一言でまとめるなら武力だけの存在です。
当たり前と思われるかもしれませんが、鎌倉時代のように武力を用いて政治力を行使するまでには至らず、朝廷や貴族に仕え、警護や犯罪者の討伐を行うのがもっぱらの役目でした。
当時の地方は山賊や海賊が横行していて、賊を取り締まるのに実力行使が必要だったからです。
しかし時代は変化してゆきます。
藤原道長を頂点とした摂関政治の全盛期は終わりを告げ、程なくして院政へ突入。
院政には、権力を分散させることで、摂関政治を抑制する役目がありました。その影響で、寺社勢力が台頭し、荘園経営も変化し、社会の在り方も変わってゆきます。
源義光の父である源頼義の時代は、ちょうど、院政前夜を迎えていた頃でした。
武士の役割も拡大され、警護から討伐軍の派遣まで。
特に最大の討伐対象となったのが東北地方――朝廷に反抗的な「蝦夷(えみし)」でした。
当時の武士の戦いは弓と馬が必須ですが、古くから馬産地として知られる東北地方は、馬に慣れた有能な兵を備えており、中央貴族から非常に恐れられていました。
彼らと真っ向から渡り合えたのが河内源氏です。
まず義光の父である源頼義と兄の源義家が【前九年の役】で活躍。
現地で独立反抗的な動きをしていた安倍氏の討伐に成功しました。
当時19歳だった義家は、天喜5年(1057年)11月、【黄海(きのみ)の戦い】で奮戦し、その強弓が語り継がれることになり――そうした活躍もあって、康平6年(1063年)には従五位下出羽守に叙任されます。
実際の戦場で義家がいかに恐れられていたか?
『梁塵秘抄』に収録された今様からうかがい知ることができます。
鷲のすむ深山(みやま)には なべての鳥は棲(す)むものか おなじき源氏と申せども 八幡太郎はおそろしや
【意訳】鷲のいる深い山には、普通の鳥は住まないよ。同じ源氏といっても、八幡太郎は恐ろしい!
「八幡太郎」の名前が鳴り響く様が伝わってきますね。
では、肝心の義光はどうだったのでしょう。
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