映画やゲームなどで、主人公やヒロインが捕まってからの逆転は一番の見せ所としてよく出てきます。
本日はその中から割とダイナミックな例を一つ振り返ってみましょう。
舒明天皇十三年(641年)10月20日は、蜂子皇子(はちこのおうじ)が亡くなったといわれている日です。
読み方は「はちのこ」じゃなくて「はちこ」ですね。
お名前だけではピンと来ませんが、「聖徳太子の従兄弟」と言えば少し興味も湧いてくるでしょうか。
蜂子皇子の父・崇峻天皇(すしゅんてんのう)と、聖徳太子の父・用明天皇が兄弟なんですね。
ちなみに推古天皇もきょうだいで、彼等の父親は欽明天皇となります。
いかにも古代の皇室らしい血縁関係です。
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父の崇峻天皇が蘇我馬子に暗殺された!
蜂子皇子は、欽明天皇二十三年(562年)、崇峻天皇の第三皇子として誕生したとされています。
この時代は皇族も多いですし、第三皇子でしたので、おそらく最初から皇嗣とは見なされていなかったでしょう。
順当に行けば、そのまま父や次代の天皇を支えていたと思われます。
しかし、崇峻天皇五年(592年)に大事件が起きます。
父である崇峻天皇が、臣下の蘇我馬子に暗殺されてしまったのです。
他の国でも王の暗殺は大事ですが、崇峻天皇の場合は
【記録によって確定している中で、唯一暗殺された天皇】
ということになっています。
しかも暗殺当日に埋葬まで済まされており、当時の深い闇がうかがえます。
崇峻天皇は以前から馬子と対立していたため、蜂子皇子にも身の危険がありました。
都から逃れるべく、彼は聖徳太子を頼って宮中を脱し、さらに丹後・由良(現在の京都府宮津市由良)から船に乗り、近畿からも脱出するのです。
小気味いい程テンポのよい逃亡劇ですが、この先、向かったのが西ではなく北だった、というのがまた興味深いところです。
西だと都との交通ルートが確立していた=追手もかかりやすいと考えたのでしょうか。
由良は由良でも今度は山形
しかも季節は旧暦11月。現代の暦であれば12月下旬です。
海路が確立していたとは言いがたい時代に、荒波で知られる冬の日本海を逃亡ルートに選んだというのは、かなりの度胸というか運任せというか。
「朝鮮半島や中国を目指したら、船が流され、たまたま北に行ってしまった」なんてことは……?
現代から見ると疑問の尽きない展開ながらも、ともかく蜂子皇子の運は尽きていませんでした。
彼を乗せた船は、現在の山形県鶴岡市由良の地に到着するのです。
「出発したところと同じ地名の場所にたまたま着いた」というのもなんだか不思議な~ですが、海辺によくある地名らしいので、不自然過ぎるというわけでもありません。
ここで蜂子皇子は、美しい光景を目にします。
八人の乙女が岩の上で、神楽を舞っているところに出くわしたのです。
彼がその美しさに惹かれて上陸したため、その場所を「八乙女浦」と呼ぶようになったのだとか。
「皇族+地方+歴史」というと崇徳天皇や後鳥羽天皇のように流刑が連想されますが、蜂子皇子の場合は地方へ行ったきっかけがそもそも「上方からの脱出」だったという点が大きく違いますね。
しかも脱出した先で八人もの美女に出会うとか、実にうらやまけしからん話です。
三本足の神鳥に導かれて羽黒山へ
これがハリウッドやネズミの国の話であれば、八人の乙女のうちの誰かとくっついて幸せに暮らしました……みたいな話になるのでしょうけれども、蜂子皇子は全く違う道をたどりました。
海岸から現れた三本足の神鳥に導かれて、羽黒山に登ったといわれているのです。
三本足の鳥といえばやはりヤタガラスでしょうか。
ヤタガラスは皇室の祖先と言われるタカミムスビのお使いですから、蜂子皇子がこの地まで無事にたどり着いたのも、タカミムスビの加護だったのかもしれませんね。
そして蜂子皇子は羽黒山で神仏と接触し、現在「出羽三山」と呼ばれる地域の信仰を創始したといわれています。
自らも並々ならぬ苦労をしてきたためか、この地では人々の悩みを聞いたり、面倒を見たりと、他者のために尽くしたそうです。
そのうち「能除仙(のうじょせん)」や「能除大師」、「能除太子(のうじょたいし)」と呼ばれるようになりました。
近年になって蜂子皇子の肖像画や像が公開されたのですけれども、何というかその、仏教や皇族を描いたものとは思い難い姿になっています。
以下のパンフに掲載されているのですが。
「人々の悩みを聞き続けた結果、醜い姿になってしまった」という考えなんだそうで。
現代でも精神科医がうつ病になることがあるといいますし、古代の割にはとても現実的な話ですね。
一方で、伝承が事実だとしたら、蜂子皇子が亡くなったのは79歳。
当時としては相当な長寿といえます。
絵や像はあくまで後世のイメージで、本当はもっと穏やかな顔をしていたのかもしれません。
また、出羽三山神社にある皇子の墓は東北地方で唯一の皇族の墓であり、現在も宮内庁によって管理されているとのことです。
つまり、宮内庁では「蜂子皇子の伝説は事実である」とみなしていることになりますね。
皇族の墳墓は基本的に学術調査が許可されていないため、真偽を確かめるのも難しそうですけれども。
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