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【源義光】
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【後三年の役】で兄弟奮戦
永保3年(1083年)、陸奥守となった源義家は現地へ赴任しました。
そこで清原氏の内紛に介入して【後三年の役】が始まります。
名前が似ているせいか、この戦い、【前九年の役】と同様の蝦夷討伐にも見えますが、実態は清原氏同士の内紛です。
にもかかわらず義家は、朝廷から追討の宣旨が出される前に、陸奥守の権限によって勝手に介入し、戦いが勃発したのでした。
いきおい朝廷は、義家を突き放します。
そんな最中、義家苦戦の報が京都の源義光へ届きました。
左兵衛尉であった義光は「兄の救援に向かいたい」と朝廷に奏上しますが、案の定、許可は得られません。
そこでどうしたか?
官を辞したのか、それとも無断で京都を離れたため解任されたのか。経緯は不明ながら、官を捨ててまで東北へ駆けつけると、兄と馬を並べ、清原武衡・清原家衡と戦ったのです。
義家と義光の兄弟は、見事に、敵の立て籠もる金沢柵を落とし、武衡・家衡の首を取りました。
こうして合戦は終わります。
なんというドラマチックな展開でしょう。
源氏といえば身内争いが盛んなことで知られるのに、河内源氏の兄弟愛は素晴らしいじゃないか――そんな歴史ロマンを抱きたくなるかもしれませんが、当時の情勢を考えると事はそう単純でもないでしょう。
京都では、関白・藤原師通の庇護を受けた三兄弟の真ん中・源義綱が勢力を伸ばしていました。
義光にとっては、もはや付け入る隙がない。
となれば、東国はどうか?
義光がそんな考えでもって戦場へ出向いたとしてもおかしくありませんし、そう考えた方が自然。
そしてその狙いは大きく当たります。
朝廷下で運命が急転
朝廷の意向を無視しながら、源義光の加勢もあって勝利した源義家。
この【後三年の役】は義家の命運を暗転させました。
寛治元年(1087年)、義家は京都で勝利の報告をするのですが、義家に目をかけていた白河天皇の譲位もあってか、朝廷ではこの戦いをあくまで私戦――勝手にやったこととみなしました。
つまりは恩賞が与えられず、しかも翌寛治2年(1088年)には陸奥守の解任となったのです。
併せて荘園も停止され、義家は収入源を失いました。
一方、中央で足場を固めていた源義綱は、寛治6年(1092年)に陸奥守を任じられ、寛治7年(1093年)に出羽で平師妙・師季親子が乱を起こすと、翌嘉保元年(1094年)に義綱の郎党がこれを鎮圧するなど、堅実な働きぶりを示しました。
結果、従四位下を与えられ、美濃守に任じられます。
源義光はどうか?
こちらも刑部丞、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上にまで昇進。
義光は常陸や甲斐の豪族から妻を娶り、東国との結びつきを強めてゆきました。
朝廷は、非常に巧みでした。
兄・義家を実質的に罰するような処断をする一方、弟たちには地位を与えた。
このころの武士は、まだまだ朝廷にコントロールされていたのです。
それゆえ白河法皇が力を持つと義家も復権し、承徳2年(1098年)、従四位下に叙せられ、昇殿が許されました。
一方、源義綱は、彼が頼っていた藤原師通が承徳3年(1099年)に亡くなると、勢いに翳りが見え始めます。
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