歌川広重

歌川広重/wikipediaより引用

江戸時代

元御家人の地味な絵師だった歌川広重が世界のヒロシゲブルーになるまでの軌跡

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広重の絵に見える日本社会の変貌

ときは幕末前夜の嘉永年間、歌川広重の画業に象徴的な作品群が生み出されています。

「天童広重」と呼ばれる肉筆画です。

出羽国には織田信雄を藩祖とする二万石の天童藩がありました。

このころ日本各地の藩は財政難にあえいでおり、天童藩が出した苦肉の策は、領民に御用金を貸し、その返礼品として広重の肉筆画を贈るというものでした。

豪華返礼品で納税を募る……って、どこかで聞いたことがありませんか?

そう、現代のふるさと納税ですね。

嘉永2年から4年(1841ー1843)にかけて制作されたこの絵は、絹本の掛け軸であり、広重の肉筆画ともなれば、落ち着きと格調の高さに満ちています。

もらった側からすれば、これぞ武士の好む質実剛健さかと納得できたことでしょう。

江戸っ子の歓心を引くことこそが、浮世絵師の宿命といえました。

広重はさらにそこから枠を超えて、武家好みの本格的な絵を手掛けるようになったのです。

武家出身の浮世絵師が、他にいなかったわけではありません。

徳川家治のそば近くに仕えた鳥文斎栄之は、狩野派を学んだ拡張高い作風が特徴とされました。

しかし、その栄之は、浮世絵師となったことで、狩野派から破門されています。

本来は、武士の絵と、浮世絵は、超えられない垣根があったはずなのです。

それが天童藩側から、広重に依頼しているのですから、身分制度が崩れていたことを感じさせる現象と言えました。

 


幕末動乱から身を遠くに置き没す

「天童広重」が制作されてからほどなくして、嘉永6年(1853年)、浦賀にペリーの黒船が来航しました。

多くの浮世絵師も影響を受けることとなったこの一件。

還暦に近い広重はその例外と言えました。

彼は【風景画】を描き続けながら、人生そのものの区切りを考えた行動をとるようになります。

順に見て参りますと……。

安政2年(1855年):「一立斎」の号を講釈師に与える

安政3年(1856年):還暦を迎えて剃髪し法体となる

安政5年(1858年):9月6日の早朝、息を引き取る

死因は、当時流行していたコレラ説もありますが、確定はできません。

享年62。

以下のように辞世が伝わっています。

東路に 筆をのこして 旅の空 西のみくにの 名所を見む

江戸はじめ東国の景色は見たままに描いてきた。けれども西国は旅することができなかった――さらなる画業への思いが残された歌とされます。

後世の作とする説もありますが、広重らしい歌と言えるのではないでしょうか。

門人の広宣が二代目広重を名乗り、広重の養女であったお辰の婿となりますが、慶応元年(1865年)にお辰と離縁し、広重の名を捨てます。

そして、その後の慶応3年(1867年)頃、お辰の婿となったのが三代目広重。

三代目は二代目を上書きするように「二代目」と名乗ったため、注意が必要であり、明治末から大正にかけて、四代目広重が襲名されています。

五代目は四代目の実子となります。

二代目以降の広重は、新時代を描く【開化絵】を手掛けました。

列車が行き交い、洋服姿の東京の人々が描く浮世絵を残したのです。

広重の絵は、江戸時代の美しさが残されています。

様々なカレンダーやパッケージに残され、これが定番だと刷り込まれているでしょうし、ゴッホやモネが取り入れたことから斬新だとも説明されたりします。

しかし、実は西洋画家の目を通さずとも、当時の江戸っ子にとっても十分新しかったのです。

広重の生み出した絵は、幕末へ向かう時代の象徴とも言えます。

武士でありながら、食べていくために絵筆を握る姿は、身分制度の崩壊を示しているでしょう。

西洋画から透視図法を取り入れる。海外から入っていたベロ藍を用いる――グローバル化が確実に進んでいたことも浮かんできます。

身分制度や国境、他にも様々なしがらみを超えていた広重。

その作品が海を超えて愛されることは必然だったのかもしれません。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
内藤正人『もっと知りたい 歌川広重』(→amazon
太田記念美術館『別冊太陽 広重決定版』(→amazon
小林忠『浮世絵師列伝』(→amazon

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