鳥文斎栄之

鳥文斎栄之作『青楼美人六花仙 』「扇屋花扇画」/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

歌麿のライバル・鳥文斎栄之~十代将軍・家治に気に入られた旗本絵師の生涯とは

1829年8月1日(文政12年7月2日)は鳥文斎栄之の命日です。

「ちょぶうんさい えいし」と読む浮世絵師でして、その特徴は元旗本ということでしょう。

大河ドラマ『べらぼう』でも恋川春町大田南畝など、武士の身分で戯作者となったり狂歌師になったり、当時は色々な活躍の場がありましたが、鳥文斎栄之にはもう一つ肩書を加えられそうです。

喜多川歌麿のライバル――。

ご存知、染谷将太さん演じる歌麿は、横浜流星さん演じる蔦屋重三郎にプロデュースされ、当代きっての売れっ子となりました。

一方、鳥文斎栄之は、西村まさ彦さん演じる西村屋与八により、人気の浮世絵師となっていくのです。

しかも、当時は歌麿に勝るとも劣らぬ人気を博しており、【美人画】を得意としていた――そんな栄之の事績と生涯を振り返ってみましょう。

 


知る人ぞ知る絵師・鳥文斎栄之

「六大浮世絵師」の一人に数えられ、浮世絵師の代表格である喜多川歌麿。

そのライバルならば、もっと世に知られていてもよいのに、そうではない――鳥文斎栄之は、様々な条件が重なって世に埋もれてきました。

彼の初となる大規模展が開催されたのは、2024年1月6日から3月3日にかけての「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」です。

千葉市美術館で開催された「サムライ、浮世絵師になる!鳥文斎栄之展」(→link

会場となった千葉市美術館は決して規模が大きいとはいえず、そもそも東京でもない。

日本での知名度の低さを物語っているとも言えますが、主催者側のモチベーションは高く、展示品の中にはボストン美術館や大英博物館からの里帰り品も含まれていました。

つまり栄之は、海外のコレクターを魅了し、収集されていた――美しい【美人画】は、国境を超えて愛されていたのですね。

それなのに、なぜ歌麿とはこうも知名度で差をつけられてしまったのか。

大きな要因として流通量の差が挙げられます。

栄之は、版元と本人の方針もあり、高級路線で売っていたため、必然的に流通量は少なくなり、特に歌麿と比較するとその差は顕著。

他ならぬ鳥文斎栄之が描いた喜多川歌麿/wikipediaより引用

印刷による大量生産を前提とした【錦絵】ではなく、直に描く【肉筆画】の比率が高く、限られた層にしか所有されていなかったのです。

そんな商業的な理由から、後世において知名度では差をつけられてしまった栄之。

歌麿と比して技量が劣るとか、単純なことではありません。

彼らの絵を世に送り出していた版元、蔦屋と西村屋の姿勢を表しているともいえる。

だからこそ2025年大河『べらぼう』の放映は、大きなチャンスでしょう。

ついに鳥文斎栄之(ちょぶうんさい えいし)という偉大な絵師が世に知られる機会がやってきたのです。

 


江戸で美人画が求められた理由

徳川家康が江戸に幕府を開くと、それに続く徳川秀忠徳川家光は、この街を大きくしてゆきました。

弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図/wikipediaより引用

街を一から作るとなれば、男性の労働力は必須。

若く、腕力に富む若者を集めた結果、江戸は男女比が歪な、女性が少ない都市となってしまいます。

そんな男たちの欲求を解消するため、幕府公認の吉原ができ、女性の数が少ないゆえの機会的同性愛も盛んになりました。

男色・衆道
日本が「男色・衆道に寛容だった」という説は本当か?平安~江戸時代を振り返る

続きを見る

江戸の男女比の歪みは、時代が下るにつれて緩やかに改善されてはゆきます。

しかし、完全に解消されるわけでもなく、妻を持てない、吉原なんて高嶺の花、最下級の女郎を買うか……といった男性たちの発散として、もう一つの選択肢が出てきました。

絵です。

現代では「二次元」という呼び方のほうがわかりやすいでしょうか。

印刷技術の向上により発行部数の増加が可能となり、肉筆画以外も普及。

【錦絵】という多色刷り技術が確立すると、リアリティのある美女が登場しました。

【美人画】の登場です。

 


美人画の人気絵師たち

美人画のジャンルを大々的に広めたのが、鈴木春信(1725年?〜1770年)。

春信は一時代を築き、そんな巨匠から少し遅れて生まれたのが、ポスト春信ともいえる鳥居清長であり、宝暦2年(1752年)に生誕しています。

鳥居清長『雛形若菜の初模様 大文字屋内まいずみ』/wikipediaより引用

さらに同ジャンルで最大の巨匠ともされる喜多川歌麿は、没年と享年から逆算して1753年(宝暦3年)頃の生まれと推測され、鳥文斎栄之は、それよりやや遅れた宝暦6年(1756年)。

つまり三人とも宝暦年間生まれであり、まとめるとこうなります。

鈴木春信(1725年?〜1770年)

鳥居清長(1752年~1815年)

喜多川歌麿(1753年?~1806年)

鳥文斎栄之(1756年~1829年)

生まれは近い。

されど育ちはそれぞれ異なる。

清長は、鳥居派の一人として腕を磨き、晩年は流派興隆のために尽くしました。

「美南見十二候 六月 品川の夏(座敷の遊興)」
歌麿のライバル・鳥居清長~美人画で一世を風靡した絵師は今まさに注目を浴びる時

続きを見る

歌麿は若い頃の事績はあまり残されておらず、蔦屋重三郎の売り出しにより、華々しくデビューを遂げ、スター街道を駆け上がりました。

そして栄之は、500石取の旗本であり、歴とした武士でした。

武士でありながら浮世絵、しかも【美人画】を手がけるという意外性こそ、売り出しポイントといえます。

では実際にどうだったのか?

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-江戸時代, べらぼう
-