江戸時代 べらぼう

『べらぼう』土山宗次郎(栁俊太郎)貧乏旗本が誰袖花魁を身請けして迎えた惨い斬首

狂歌師たちの宴会代を払い、吉原では誰袖花魁を贔屓にする――。

大河ドラマ『べらぼう』に登場する土山宗次郎とは一体何者なのか?

金回りの良さはまるで悪徳商人のよう。

しかし、実際は武士であり、田沼意知の下で働いていることが劇中で示されています。

この謎多き土山宗次郎、史実を踏まえると、今後ドラマでも中心にいると言えるのかもしれません。

というのも、蝦夷地をめぐっては田沼や松前藩、吉原を舞台にしては蔦重や誰袖花魁などと絡み、常に重要な場面に顔を出すような存在になり得るのです。

いったい土山宗次郎とは何者だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


150俵取の微禄旗本として生まれ

元文5年(1740年)、勘定組頭を務める土山家に、後に宗次郎として知られることになる男児が生まれました。

母は土山照苗の娘とされ、旗本同士の婚姻。

禄高は150俵取という微禄です。

後に宗次郎は日下部七十郎の娘を娶ることになりますが、妻よりも妾のほうが有名であり、かつ彼の命運を決めることを頭の隅にでも入れておきましょう。

微禄ながら土山は、勘定奉行・松本秀持のもとで実力を発揮して、安永5年(1776年)には勘定組頭となります。

時折しも彼らが生きていたのは、実力で出世が見込める田沼意次の時代です。

田沼意次/wikipediaより引用

農本主義の限界を実感し、経済の立て直しを目標としていた意次にとって、土山のような人材はまさに意中の逸材。

土山は、田沼政治の目玉ともいえる蝦夷地開発において存在感を発揮します。

この地について詳しかったのです。

なぜ、江戸の旗本が蝦夷地に詳しいのか?

そこで浮かんでくるのが“とある人脈”です。

 


文人でありパリピでもあり

土山宗次郎は文芸を嗜む武士でした。

和歌は日野前中納言に入門、俳句の号は「粘之」と称し、狂歌では狂名「軽少ならん」として嗜みました。

狂歌は即興で楽しむものであり、人脈形成に大きく役立ちます。

天明狂歌を代表する人物に、大田南畝がおります。

鳥文斎栄之が描いた大田南畝/wikipediaより引用

狂名を「四方赤良(よものあから・四方の酒を飲んだ赤ら顔の意味)」といい、彼が主催する「山手連」は大層な賑わいを見せており、そこへ「軽少ならん」も出入りしていたというわけです。

彼ら狂歌師たちは江戸時代のパリピと化しました。

大田南畝がその交際記録を日記『三春行楽記』(天明2年/1782年)に記しています。

「行楽記」とは、そのまんま「遊んだ記録」という意味ですが、彼らは狂歌会だけでなく詩会に観劇、花見など、「一体どういうことなんだ?」というぐらい、とにかくずっと遊んでいたのです。

江戸っ子らしく船遊びで鯉に舌鼓を打ったり、初鰹を味わったり、高級料亭や土山邸での酒宴にも明け暮れました。

歌川広重『浪花名所図会 安井天神山花見』/wikipediaより引用640

大河ドラマ『べらぼう』でも、吉原で夜通し遊びまくり、翌朝、蔦重のいる耕書堂で蕎麦を食べるシーンがありましたよね。

あれが全く誇張でもなく、むしろおとなしい方だったとも言えるほどで、劇中でもあったように

土山宗次郎のもとに花魁誰袖がいた

という記録も残されています。

狂歌を嗜んだとされる誰袖。この絶世の美女に惚れ込んだ土山宗次郎は、後に1200両という破格の大金で彼女を身請けすることとなるのです。

大田南畝の文人としての絶頂期はこの日記のあとも続きますが「よくぞこれで倒れなかったな……」と思うほど、土山宗次郎、平秩東作、朱楽菅江らと遊びまくっていました。

四方赤良という、いかにもそれらしい狂名の通り、彼はまさしく酒豪だったようです。

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