天保11年(1840年)12月3日は国友藤兵衛(一貫斎)の命日です。
天保年間の1840年といえば“幕末前夜”という印象を持たれるかもしれませんが、生まれは安永7年(1778年)ですので、その少し前。
大河ドラマ『べらぼう』の時代であり、ドラマでも取り上げられたら面白いのになぁ……という印象の人物です。
というのもこの藤兵衛、本来は鉄砲鍛冶だったのですが、ひょんなことから天文学に目覚めて自ら望遠鏡を製作したり太陽の黒点を発見したかと思えば、オランダの空気銃を魔改造したり、さらには著書を発刊したり。
「江戸のダ・ヴィンチ(→link)」などとも称されるほど多才な人物で、大河ドラマに登場するに相応しい事績の持ち主なのです。
では実際に、国友藤兵衛はどんな生涯を送ったのか? 振り返ってみましょう。
なお、藤兵衛は「とうべえ」と読み、一貫斎(いっかんさい)も別名として知られた名ですが、今回は藤兵衛表記で統一させていただきます。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
鉄砲鍛冶の悲哀
国友藤兵衛は安永七年(1778年)10月3日、近江国坂田郡国友村(滋賀県長浜市)に生まれました。
彼の家は代々続いた鉄炮鍛冶で、藤兵衛で九代目。
国友近辺で鉄砲鍛冶が盛んになったのは天文年間(1532年~1555年)頃とされていて、その後、織田信長が大量に発注したことがあるため、少なくとも16世紀後半には定着していたと思われます。
余談ですが、国友村は石田三成の出身地・石田村の隣です。
幼い頃の三成も、国友に行ったことや、鉄砲鍛冶と触れ合ったこともあったのかもしれませんね。
しかし、江戸時代になると鉄砲の出番が激減し、商売としては成り立たなくなってゆきます。
そのため鉄砲鍛冶たちは包丁や火箸、錠前など、他の金属製品を作って糊口をしのいでいくようになりました。
似たような立ち位置の刀鍛冶は、まだ一定の需要があり、明治時代に入るまでは刀一本で生活できましたが、鉄砲だとそうもいかず……。
元文元年(1736年)、幕府の鉄砲方が車じかけの巨砲の開発を怠って閉門に処されたことがあります。
江戸時代のど真ん中でも兵器開発は続けておくべきだ――そんな風に見なされていたことがわかる事例ですが、戦国時代と比べたらどうしたって規模は縮小され、多くの職人を雇える状況ではなくなっていました。
既得権益をぶっつぶせ!
国友藤兵衛は寛政六年(1794年)に家督を継ぎます。
この時点で「何か他のことに技術を転用しなければ……」と感じていたようで。
折しも日本近海に外国船が来訪するようになり、海防強化の必要性が高まっていたため、鉄砲の需要もいくらかは増えました……が、それだけでは心もとないのが現実。
国友村では一部の”年寄”と呼ばれる人に利益が搾取され、多くの鉄砲鍛冶が困窮する一因になっていました。
これを打破するため、藤兵衛は自由競争制を促し、近隣の譜代藩である彦根藩と取引することで収入を上げようと試みます。
その努力が認められ、文化八年(1811年)には彦根藩御用掛となり、二百目玉筒(大砲の一種)を作りました。
しかしこれが【彦根事件】と呼ばれる騒動に発展してしまいます。
「藤兵衛が自分たちを通さずに彦根藩へ近づいたのはけしからん!」
国友村の鍛冶年寄たちがイチャモンをつけてきたのです。
稼ぎが減ったならば、それを取り戻すべく自らが技術を上げるなり、藤兵衛を窓口として商売を拡大するなり、他に前向きな方法などいくらでもあったでしょう。
実は天明五年(1785年)にも、年寄たちは別の事件を起こしていました。
幕府から貰った鉄砲の代金を、持ち帰る担当だった年寄が途中でなくした(ことにした?)というものです。
本当に盗難だった可能性もなくはないですが……。
そのときは、代金をなくした年寄が裁判の途中で亡くなったことによって未決着にされてしまっています。ウヤムヤにも程がありますね。
もしもその時のお金があれば、藤兵衛が年寄りの頭を飛び越えて商売に励むこともしなくて済んだかもしれません。
結局、この騒動は、江戸で裁判により決着が付けられることになりました。
裁判は長引き、決着したのは文政元年(1818年)のこと。
藤兵衛たちが勝利を収めました。
結果的にこの裁判は他にも藤兵衛にメリットをもたらすことにもなっています。
それは何か?
※続きは【次のページへ】をclick!