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【国友藤兵衛】
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災い転じて福となした江戸滞在
国友藤兵衛は江戸で様々な金属加工の技術や製品、さらには天文学などに触れる機会を得ました。
彦根藩を通して諸大名に招かれ、新たな武器”弩弓”などの発明もしています。
さらには江戸でオランダの空気銃を知り、これを改良して文政二年(1819年)、独自の『気砲』を制作します。
実に、オランダ製の空気銃より高性能で、最大20連発もできたそうで。
たちまち藤兵衛の空気銃は大名たちの人気の的となり、注文と試射の依頼が殺到します。
中には、一丁35両もの金額で売れた気砲もあったとか。
貨幣制度が複雑だった時代のことなので価値がわかりにくいですが、庶民が武家や商家へ一年奉公して一両稼げるかどうかといった時代です。
つまり35人雇えるような価格で藤兵衛の気砲が買われたということですので、高評のほどがわかりますね。
藤兵衛は多才だったのでしょう。
気砲を作るだけでなく、その扱い方をまとめた『気砲記』も執筆・出版したのです。
やがて、これらの高評は隠居していた松平定信の耳にも届きました。
定信は政治の表舞台からは去ったものの、老中時代にやり残した海防政策についてはまだ強く興味を持ち、憂慮もしていたようです。
そこで、海防の要になる銃火器の開発の改良策を書物にまとめるよう、藤兵衛に命じたのでした。
定信の命に従い、藤兵衛は文政元年(1818年)、鉄砲政策のマニュアル本『大小御鉄砲張立製作』を著し、献上します。
翌文政二年(1819年)には加賀藩の前田家にも献上。
しかし、加賀藩は19世紀に入ったあたりから火災や冷害の被害が大きかったこともあってか、なかなかこの本を活かせなかったようです。
鉄砲鍛冶の技術が望遠鏡制作に
国友藤兵衛が江戸滞在中に特に強く関心を持ったのが天文学でした。
そして驚くことに、様々な発明をしてきた藤兵衛は、金属加工や研磨技術を駆使して望遠鏡を作ってしまうのです。
確かな技術があったとしても、未経験の物を作り上げるのは至難の業でしょうから、藤兵衛の頭の柔らかさには脱帽してしまいますね。
天保三年(1832年)に反射望遠鏡の製作を始め、五年ほどかけて完成させたのです。
さらにその最中の天保六年(1835年)正月から翌年二月までは独自に太陽を観察し、黒点の存在を発見。
これによって
・黒点は太陽の面上にある温度の低い部分=燃えていない部分
・同じ黒点を見ることは二度とない
・黒点の数は増減する
ことを確かめました。
ヨーロッパにおける黒点の初観測は1828年であり、詳しい記録は残っていませんので、藤兵衛の記録が黒点に関する最古のものといっても過言ではなさそうです。
藤兵衛は、月や木星を観測して詳細な図面も描いており、当時の日本で観測されたものとは思えないような精度だとか。
大坂の天文学者・間重新(はざま・しげよし/間重富の子)とも交流があったようで、重新から譲り受けたと思われる資料が国友家に現存しているとのことです。
もう少し、天文学に興味を持つのが早ければ、藤兵衛は天文学者として名を残したのかもしれませんね。
藤兵衛の制作した望遠鏡は四台残っており、火縄銃や気砲などと共に展示されることもあるようです。
機会があれば、ぜひ実物を見てみたいものです。
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長月 七紀・記
【参考】
国友鉄砲ミュージアム(→link)
泉秀樹『江戸の未来人列伝 (祥伝社黄金文庫 い 14-1)』(→amazon)
中江克己『江戸のスーパー科学者列伝 (宝島SUGOI文庫)』(→amazon)
国史大辞典
日本国語大辞典
日本人名大辞典