天保7年(1836年)11月17日は、発明家の飯塚伊賀七(いがしち)が亡くなった日です。
当人の歴史よりも「からくり人形」や「和時計」など、彼が携わった作品の数々のほうが有名ですかね。
TOPに掲載された画像がその復元品です。
江戸時代も後期に入ると、このような精密機器の一歩目が踏み出されていました。

飯塚伊賀七/wikipediaより引用
時代的には、大河ドラマ『べらぼう』の舞台でもあり、劇中で触れられるかどうかは不明ですが、文化が成熟していった同時期に別のテクノロジーへ心血を注いだ伊賀七の生涯を振り返ってみましょう。
伊賀七の生まれた谷田部藩とは
伊賀七は、谷田部藩(やたべはん/現・茨城県つくば市)の名主の家に生まれました。
谷田部藩は、細川ガラシャの夫として知られる細川忠興、その弟・細川興元が実家を離れて立てた藩です。

細川興元/wikipediaより引用
石高1万6000石ほどの小さな藩で、関東では珍しい外様大名でした。一時的に茂木(もてぎ/現・栃木県茂木町)を本拠にしていたため、”茂木藩”と呼ばれることもあります。
谷田部藩も江戸時代の大名の例に漏れず、凶作や借金・一揆に苦しんだことも多々ありました。
途中で女系になったり、養子を迎えたりして血統は変わっていても、明治時代まで細川家がこの藩を治め続けたことは大きな特徴かと思われます。
小さな藩だからこそ幕府のお叱りを受けにくかっただけでなく、以下の理由から細川家がその立ち位置をキープできた要因と考えられます。
・興元が関ヶ原の戦いと大坂の役で手柄を挙げた
・忠興との兄弟仲がよろしくなくても一応和解している
・本家の熊本藩細川家が江戸時代初期に幕府の信頼を得ていた
・熊本藩との繋がりを保ち続けた
・歴代藩主の努力
実は、谷田部藩や藩主家に関する記録はあまり多くありません。
四代藩主の細川興栄が、興元の子孫にあたる姉小路家から婿養子を取ったこと。
七代藩主・興徳が二宮尊徳(金次郎)を手本として藩政改革を行ったこと。
そういった特徴からして、割と頭が柔らかいというか、臨機応変な家風の土地だったのかもしれません。
藩祖といえる細川幽斎(藤孝・忠興の父で明智 光秀の盟友)の薫陶と血のなせる技でしょうかね。

細川藤孝(細川幽斎)/wikipediaより引用
少し藩の説明が長くなりました。伊賀七の話に戻りましょう。
庶民にも学問が広がった時代
風土は人の成長や思想に自然と影響するものです。
自然災害や決して豊かではない周囲の人々の姿を見て、少年の日の伊賀七は
「何かひと工夫凝らして、皆を楽しませたり仕事をラクにする方法はないだろうか」
といったようなことを考えるようになったのではないでしょうか。
伊賀七の師匠が誰か?
実はこれが不明ながら、谷田部藩には江戸から数学者や蘭学者が度々来ていました。
谷田部は水戸と江戸の中間地点でもありますし、当時は遊歴和算家(各地を巡って数学を教える学者)などもいたので、立地に恵まれたともいえそうです。
時代はすこし前になりますが、関東甲信越には関孝和という天才和算家がいましたね。詳細は以下の記事をご参照ください(記事末にもリンクあり)
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世界レベルの頭脳だった和算の大家・関孝和「算聖」と呼ばれたその生涯とは?
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伊賀七もそういった人たちから学問を教わったと考えられています。
村人が水の中の杭を抜こうとしたところ、伊賀七が算盤を使って何やらの計算をし、楽に抜けるよう助けたという逸話もあります。
例によってそっくりそのまま事実を伝えているとは限りませんが、
「はたから見ると何の数字を弾いているのかわからないが、それが他者の助けになっていた」
ということは事実だったのでしょう。
伊賀七の家族は両親の他に姉と妹が一人ずついたとされていますが、早いうちに二人とも亡くなっています。
この時代では珍しくない話ですけれども、早いうちに肉親を失う悲しみを続けて味わったことから
「人手が少なくてもやっていけるような方法はないだろうか」
と思い至ったのかもしれません。
もともと江戸時代の子供は成人する前に死ぬ確率が高く、さらに伊賀七の青年期辺りまでは干ばつ・飢饉・洪水・流行病といった災害も多発していたため、これは致し方ないことです。
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江戸期以前の乳幼児死亡率は異常|将軍大名家でも大勢の子が亡くなる理由は?
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家督を継いだ後も災害の記録を多々残しており、娯楽だけでなく名主としての責任感も強かったことがうかがえます。
むしろ真面目過ぎたのか、当主をやっていた頃の記録はあまりありません。
名主として地域に尽くす
伊賀七の足跡を示すものは多くありません。
しかし、天明八年(1788年)には谷田部の地図を作っており、この頃までには測量の知識を蓄え、機材も作製していたと考えられています。
測量や設計技術は他の地域にも知られていたようです。
下総の布施村(現・柏市布施)の布施弁財天にある鐘楼堂は、伊賀七の手によるものだと伝えられています。
この弁財天は”関東三弁天”に数えられる霊験あらたかな神社でしたが、元禄四年(1691年)に建てた鐘楼堂が老朽化したため、建て直せる人を探していたのだとか。
谷田部と布施は決して近い距離ではないので、なぜ伊賀七に白羽の矢が立ったのかまでは不明です。
・飯塚家が弁財天を信仰していたから
・伊賀七の測量技術がこの地域にまで聞こえてきていたから
などが考えられています。
飯塚家からは大工も手配されているので、信仰心の割合が高かったのかもしれません。
発明家として名を挙げていくのは、40代後半のことです。
伊賀七の代表的発明品は?
40代後半というと、年齢的に考えると、家督を譲ってからでしょうか。
”現役時代はバリバリ働き、引退してからは自分の興味関心が強い分野を極めて後世に名を残す”
というのは、江戸時代の人にはたびたびあるパターンです。
伊能忠敬などが良く知られていますね。
伊賀七の発明品はデカイ算盤から建築物まで多岐にわたりますが、特に有名なのはこの辺です。
・酒買い人形
伊賀七の家の斜め向かいにあった酒屋まで、お使いをしに行けたという人形です。
人形の手に持った酒瓶に酒を一定以上注いで向きを変えると、また家まで歩いていったといいます。
距離は2.8mほどだったそうですが、当時この発想が出てきたことがスゴイですよね、元祖アンドロイドといえるかもしれません。同様の「豆腐買い人形」もあったとか。
・茶くみ女(人形)
こちらも文字通り、客人のところまで茶碗を運べたという人形です。
茶碗を取ると止まり、茶碗を載せるとまた歩くようにできていたとか。
「伊賀七の家を訪れたらとからくり人形に出迎えられた」という話もあるので、酒買い人形や茶くみ人形の他にも、違うタイプの人形がいくつかあったんでしょうね。
”人形だらけの家”というと、RPGに出てくるマッドサイエンティストの家のようですね。
「コワイ!」と思うか、「面白い!」と思うかは、見た人の感性に大きく影響されそうです。

国立科学博物館に所蔵されている茶運び人形とその内部構造(復元品)※伊賀七の人形ではありませんが
・五角堂+α
その名の通り、床が五角形になっている建物です。
伊賀七の作ったもののうち、唯一飯塚家に残っているものでもあります。

茨城県指定史跡「五角堂」/photo by On-chan wikipediaより引用
中には米つき機などの農業機械や、2mもある大型和時計などが置いてあったとか。
機械そのものは分解されてしまいましたが、つくば市谷田部郷土資料館などで復元されています。
エレキテルの発明者という説もあるほど
他に、伊賀七は人力飛行機や木製自転車なども作ったそうです。
彼がエレキテルの発明者という説もあるくらいですから、当時は「あの人ならなんでも作れるに違いない」と思われていたんでしょうね。
発明品があまりにも多彩すぎて掴みきれない感じもしますが、名主としての責任感の他に、とても優しい人だったのではないか……という気がします。
農業機械があれば作業効率が良くなりますし、
「からくり人形が普及すれば、身寄りのない人や病人・けが人・老人なども生活が楽になる」
と考えていたのではないでしょうか。
伊賀七は、自分の発明品に現代でいうところの製造年月日や取扱説明書のようなものを書き添えることもあったそうです。
自分だけのためではなく、人のためにいろいろなものを作っていたとしたら、この点もしっくりきますよね。
文字に残しておけば、伊賀七がいないところや死後も使い方がわかりますから。
だいぶ美化した予想かもしれませんが、ただの趣味でやるにしては大掛かりなものが多いので、あながち間違いでもないんじゃないかと。
★
伊賀七の遺した作品や記録は、その大部分が戦後に解体されたり、再利用されて失われたといわれています。
しかし「なくなったと思われていたものがひょっこり出てくる」のも珍しいことではありません。
伊賀七への注目がさらに強まって、研究する方が増えたり、血縁にあたる方の家が見つかったりすれば、彼の発明品が出てくる可能性もゼロではないでしょう。
その日を楽しみに待ちたいですね。
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【参考】
田村竹男『飯塚伊賀七―民間科学者からくり伊賀伝 (1979年) (ふるさと文庫―茨城)』(→amazon)
有澤隆『図説 時計の歴史 (ふくろうの本)』(→amazon)
飯塚伊賀七/茨城県(→link)
飯塚伊賀七/Wikipedia
五角堂/Wikipedia




