大河ドラマ『べらぼう』の第20回放送でクローズアップされた狂歌――。
桐谷健太さん演じる大田南畝の「狂歌の会」に出席した蔦屋重三郎は、その場でしこたま酒を飲まされ泥酔しながらも
「ありゃあ、ぜってぇ流行る!」
と期待に満ちている姿が描かれました。
皆さんは、この日、狂歌の会を仕切っていた人物を覚えていらっしゃるでしょうか?
元木網(もとのもくあみ)――。
見た目はハゲ頭で人の好さそうなお爺さん。それがなんともフザけた名前で、司会進行を務めていました。
いったい彼はどんな人物なのか?
そもそも実在する人?
というと、実は文化8年(1811年)6月28日がその命日だったりします。

元木網/国立国会図書館蔵
不思議な存在のある元木網の事績を振り返ってみましょう。
隠居後にブレイクする江戸っ子も
ジェームズ小野田さん扮する元木網。
湯屋の主人時代と比べて大きく変化した部分があった点にお気づきだったでしょうか?
答えは髪型です。
剃髪しており、隠居後であると示す装いとなります。
吉原「つるべ蕎麦」の半次郎も、一見すると剃髪に思えますが、後ろ姿を見ると後頭部にほんの少し髪が残っていて、小指のように細い髷がある。
いっそのこと剃ったほうがスッキリするんでは?と思えますが、彼はまだ現役ゆえに髷を作っているわけです。

葛飾北斎作/wikipediaより引用
元木網はこの髷を落とし、57歳で隠居しました。
と、一口に隠居と言っても、当時はどんな状態なのか、日々をどう過ごすのか?ご不明な方も多いでしょう。
そこで先に確認しておきたいのが、昨年の大河ドラマ『光る君へ』の世界です。
寿命が短い平安時代では、40ともなれば長寿の祝いが実施され、その一方で引退時期については曖昧でした。
出世した公卿ともなれば、本人が申請するか亡くならない限り勤め続けることができ、上役の席が空かねば出世もできないため、下位の者たちがストレスを溜めてゆく様子が描かれたものです。
あるいは下級貴族ともなれば、生活のためいくつになっても働かねばならず、例えば清少納言の父・清原元輔も高齢で地方赴任し、そこで亡くなりました。
日本の総人口に対しほんの一握りしかいない貴族であっても、厳しい人生を送っていたことがわかります。
では、江戸時代の都市部はどうか?
まず、平均寿命はかなり伸びました。
『べらぼう』の頃の江戸町人ともなると、生活レベルも向上しています。
余裕のあるうちに稼業を後継者に譲り、不惑(40歳)も過ぎればそろそろ隠居を視野に入れることが理想の人生です。
まだ体力には余裕があるため、仕事に身を削ることもなく、悠々自適にセカンドライフを過ごすことができる。
そんな余裕のある階層が出てきたのです。
そうなると、むしろ隠居後こそ、歴史に名を残す人物もでてきます。
最大の例が伊能忠敬でしょう。

伊能忠敬/wikipediaより引用
忠敬が日本中を歩き回り、正確な地図を作り上げたのは隠居後のこと。
江戸時代の文人は、なかなか悠々自適で良い人生を送ることもでき、こうして余裕のある層がいたからこそ江戸の文化も盛り上がったものです。
そんなセカンドライフを過ごす者たちの中でも、いわゆるリア充おじさんに当たるのが、この元木網(もとのもくあみ)でした。
湯屋の大野屋喜三郎、夫婦で狂歌を楽しむ
元木網は享保9年(1724年)生まれ。
出身は、武蔵国杉山とされています。現在の横浜市近辺ですね。
江戸時代ともなると「江戸で一山当てたい!」という人もいるもので、その日暮らしで商売するなり雇われるなりして、それなりに生きていくことができました。
そうして江戸に出てきた元木網は、京橋北紺屋町で湯屋を営み、大野屋喜三郎となります。
ドラマに出演した第3回時点では、この湯屋の経営者でした。
劇中での彼は、蔦重の作った『一目千本』を大喜びで受け取っていました。
センス抜群であり、人脈もある彼の審美眼はその価値を見抜いていたのでしょう。
湯屋のおじさんがなぜああも風雅なのかというと、彼には趣味がありました。
それが狂歌です。
彼の妻は智恵内子(ちえのないし)という狂名を名乗り、同じ趣味に興じています。

知恵内子/国立国会図書館蔵
湯屋を営んでいた頃から、夫婦揃って唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)宅の狂歌合に参加していたのです。なんとも充実した生活ではありませんか。
そんな人脈のある彼だからこそ、『一目千本』の口コミ効果を増大させられたことも伺えます。
いわば、ちょっとしたインフルエンサーだったんですね。
そんな彼は57歳というまだ余力のある歳に隠居剃髪し、土器町に「庵」を構えました。
江戸文人は世捨て人を気取り、棲家を「庵」と喩えることもしばしばあります。
こうした都市部で隠者を名乗ることは「市隠」と呼ばれて認められていた、なんとも充実した世界です。
なお、江戸時代は火災が多いこともあってか、頻繁に引っ越しをする江戸っ子は多いもので、彼もそうでした。
三大狂歌師となった元木網
江戸の文壇の特徴は、参加型(サークル型)となっていくことです。
隠居した元木網も、当初、無報酬で狂歌指導を始めたところ、続々と門人が集まるようになり、ついには当時の三大狂歌サークルにまで成長。
大田南畝や唐衣橘洲に並ぶ集団を率いていました。
◆三大狂歌サークル
・四方赤良(太田南畝)の「山手連」
・唐衣橘洲の「四谷連」
・元木網の「落栗連」
サークルも突如湧いて出たものでもなく、この時代ならではの徒花といった感はあります。
『べらぼう』では【狂歌】文壇が本格的に登場する前に、その前触れとなる場面はありました。
第14回放送で吉原の忘八たちが集い「和歌の会」を開催し、百人一首のパロディで会話をこなしていたものです。
和歌をパロディにする遊びがこの時代にはできていたという証ですね。
もちろん即興で詠む遊びであって、高邁な思想があるわけでもなく、まだまだブーム突入前で地ならししているような状態でして。
地に種が蒔かれて初めて芽が吹き出すように、江戸では武士が習う教養が種となります。
泰平の世が続き、武芸は廃れ、文武のうち「文」に励むのが当時の武士。
おもしろおかしく言葉遊びする町人たちのもとへ、唐衣橘洲(幕臣の小島源之助)や四方赤良(太田南畝)ら、

唐衣橘洲(左)と大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵
教養を持った武士が加わることで【狂歌】は一歩前進するのです。
この二大狂歌師に次ぐ位置に、元木網はつけていました。
江戸の泰平を讃える狂歌師たち
教養を加えた“狂歌詠み”たちは、自らの生きる泰平の世を讃えるようになります。
現代人からすれば「なんだ、ただのリア充自慢かよ」となるかもしれませんが、これには思想背景がありました。
大河ドラマ『麒麟がくる』を思い出してください。あの作品では主役の明智 光秀が、戦乱が続く世を嘆き「麒麟がくる泰平の世をめざす」と誓っていたものです。

明智 光秀/wikipediaより引用
江戸時代は戦乱がない。これは麒麟到来後の世ではないか――武士らしく朱子学的に考えればそうなります。
江戸はめでたい、理想的な世だ、寿(ことほ)ごうではないか!
それがサークルのノリとして、教養を基にして設定されるのです。
実際『べらぼう』第20回放送では、狂歌サークルの皆さんがはしゃぎ回りながらリア充自慢をしていましたよね。
あるいは蔦重が大田南畝の自宅を訪問した際も、「先生はなんでもかんでも“めでてぇ”んですか」と言い、「了見しとつで、なんでもめでたくなるものよ」と答える場面もありましたね。
馬鹿馬鹿しく思えるかもしれませんし、実際その通りなんですが、あの光景は戦乱の世を生きてきた者たちから見たら、涙ぐみたくなるようなモノでしょう。
それに彼らはある意味「時代を先取りしていた」ともいえます。
サークルでは、身分制度の意味はありません。
武士も、町人も、揃って「屁! 屁!」と踊り、その様は馬鹿馬鹿しいようで実は大変先進的なのです。
男女の別もありません。
儒教倫理では「男女七歳にして席を同じうせず」と言われ、男女が一緒になって文学を楽しむことはまずないはず。
しかし、あの場には元木網の妻である智恵内子も、仲間としてのびのび歌を詠んでいました。
彼らを見ると「なあんだ、我々と大して変わらんよな」と思うかもしれません。違います。彼らが時代を先んじていたから起きたと言えるシーンなんですね。
なお、蔦重の妻も「垢染衛門」という名で狂歌詠みに参加しています。
狂歌にビジネスチャンスを見出せ!
狂歌とは、所詮はパロディであり、馬鹿馬鹿しいものでもあります。
当時の世相を知らねば理解しにくく、その場で読んで終わりとする刹那的なものに過ぎません。
いくら遊んで盛り上がっても、その場で終わり、別に記録するほどのことでもない。
それが暗黙の了解でした。
しかし、記録に残し、あえて優劣をつけようという流れになってゆくのは、サークル同士で対抗心が生まれていったためでもあります。
ログを残し、出版し、世の中に問う――。
四方赤良と唐衣橘州という、武士出身者が己の教養と価値観、文才を競う二人は鎬を削ったものでした。

唐衣橘洲(左)と大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵
元木網は競うというよりもレフリー役であり、狂歌選集の編集や選者を務めています。
大勢の作品をまとめ、ジャンルごとに分類しまとめてゆく。
そんな作業を元木網ら狂歌仲間同士で集い、成し遂げていったのです。
となると、ここにビジネスチャンスを見出すものがいてもおかしくなありません。
そう、蔦屋重三郎の出番です。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
耕書堂ではこんな書物を出しました。
・狂歌集
・狂歌師細見
・狂歌評判記
作品集や、そのランキング集に、批評。
現代の出版物にも通じる本を蔦重は出してゆくのですね。
風呂屋出身だったはずの狂歌師が、なぜ『べらぼう』でああも目立つようになったのか。
その理由は今後きっちりと見えてくるでしょう。
彼が蔦重のもとで話し込む様子も想像できるではありませんか。
重商主義の田沼時代らしい狂乱のようで、実はこの裏には蔦重の戦略が隠されているのです。その様子を楽しみにしていきましょう。
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【参考文献】
揖斐高『江戸の文人サロン: 知識人と芸術家たち』(→amazon)
沓掛良彦『大田南畝:詩は詩佛書は米庵に狂歌おれ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
佐藤要人・藤原千恵子『図説浮世絵に見る江戸っ子の一生』(→amazon)
他





