大河ドラマ『べらぼう』も中盤に入り、注目度の高まっているエリアがあります。
蝦夷地(北海道)です。
アイヌとの交易や金銀銅山などの鉱物資源、そして隣国ロシアからの接触など――実はペリー来航のはるか前から“開国”の予兆があった土地であり、ドラマの中でも史実でも、開明的な田沼意次が強い興味を抱いた地でもありました。
そのキッカケとなったのが工藤平助です。
本業は仙台藩医であり、同時に意次の目を蝦夷地へ向けさせた学者の一面もあり、迫りくるロシアの脅威を早くから訴えていました。
なぜ一介の医者にそのようなことができたのか?
工藤平助の生涯を振り返ってみましょう。

工藤平助が著した『赤蝦夷風説考』/wikipediaより引用
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江戸で生まれ、医術を学ぶ
享保19年(1734年)、紀州藩江戸詰の藩医・長井大庵に三男となる長三郎が生まれました。
長井大庵の諱は「基孝」であり、「大庵」は医者としての名乗り。
江戸時代は職掌ごとに名前が変わるものでした。
長三郎は三男の末子ということもあってか、あまり学問をせず、のびのびと育てられますが、13歳のときに人生が一変します。
父・大庵の友人に、工藤丈庵という医者がいました。
仙台藩に仕えており、藩医の座がちょうど空いたところであり、51歳の丈庵にその座を得る機会が巡ってきたのです。

江戸時代の医者/国立国会図書館蔵
しかし藩医となるには妻帯が条件。
丈庵は28歳の妻を娶ることにしましたが、当時としてはかなりの高齢です。
そのため養子もとることにして、白羽の矢がたったのが丈庵の友人である大庵の三男・長三郎でした。
かくして仙台藩医の子となった長三郎は、将来の道が定められると知識を身につけるため勉学に励み、様々な才能が花開いていくこととなります。
なお、ここから先は「工藤平助」と記載します。
学問に花ひらく才能
平助の養父・工藤丈庵は、文武両道の人物で、柔術・剣術・弓・槍・馬までこなしました。
将棋や絵にも通じていて才知あふれる人物。
丈庵は、医学ではなく、まず当時の学問の礎となる漢籍教養を長三郎に教えることとしました。
江戸時代を通して、日本人男性の教育の基礎は漢籍読解となり、身についていないと「無教養」の烙印を押されます。
平助もまず、四書五経を身につけることにしました。
そこで丈庵は、幼い平助に『大学』を渡します。
漢字だらけの本を寝食も忘れ、必死でかじりつくように読む平助。へとへとになってやっと読み終えたかと思えば「今度はこれだ」と『論語』が渡される。
平助は十日ほどで四書を読みこなし、二~三ヶ月後には漢籍読解をこなせるようになりました。
江戸時代の学問とは自由がなく、堅苦しいというイメージがあるかもしれませんが、基礎さえ学べばあとはむしろ自由度が高いともいえます。
江戸時代も半ばを過ぎると、様々な知識が日本中に渦巻き、身分を超えて学ぶ機会もありました。
当時は文系と理系という区別もありません。
芸術系も教養に入り、そこから先は数多の知識を身につけてゆくことになります。
学ぶことが好きで吸収の早い才人にとっては、ともかく楽しい、そんな日々が待ち受けているのです。
平助はたちまち学問にのめり込み、もっと早く学んでおけばよかったと悔やむほどでした。
江戸詰の仙台藩医嫡男は、学ぶには最高の環境が揃っていました。
漢方医学は実父の長井大庵、中川淳庵、野呂元丈。
国学者の村田春海。
家族ぐるみでつきあいのあった三島自寛。
蘭学を医学に取り入れていた杉田玄白、前野良沢、大槻玄沢、桂川甫周。

杉田玄白/wikipediaより引用
儒学者の服部昆陽。
そして儒学者でありながら蘭学に通暁している青木昆陽。
オランダ通詞の吉雄幸作。
彼を通じてオランダ経由の西欧に関する知識を得ることもできています。
平助自身はオランダ語や蘭学を学ぼうとしたわけではありません。
しかし、徳川吉宗以降の時代、学ぼうと思えば蘭学への関心や知識が流れ込んでくる状況にあります。
江戸の文人はネットワークを形成しており、その流れの中には常にオランダの知識が流れ込んでくる。
この流れの中には、北の大国たるロシアに関する情報も含まれていました。
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