工藤平助

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』工藤平助(おかやまはじめ)意次に蝦夷地を認識させた仙台藩医だった

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仙台藩医となる

宝暦4年(1754年)、21歳になった工藤平助は工藤家300石の家督を継ぎ、医師として剃髪しました。

翌年、養父の丈庵が没しています。

それから数年もすると、工藤平助は江戸中で名医として知られるようになってゆきました。

諸大名から裕福な商人まで、彼の診察を受けようとわざわざ訪れるほどで、患者のみならず弟子志願者も多く門を叩きます。

医学以外にもさまざまな才知を発揮した平助は、仙台藩有力家臣の覚えもめでたく、藩主にしても自慢の名医。

江戸詰であるため、さまざまな有名人との交流も生まれてゆきます。

平助の意外な才能として“料理人”が挙げられます。

アイデア豊かな彼の料理はのちに「平助料理」と呼ばれ、彼の料理は藩主も舌鼓を打ったほど。

役者の中村富十郎がわざわざ料理を食べに工藤家にやってきたこともあるとか。

初代中村富十郎の『娘道成寺』勝川春章/wikipediaより引用

身分制度が綻びつつある時代らしく、彼の家には歌舞伎役者も侠客も、はたまた博徒まで出入り。

平助は江戸っ子らしい人付き合いがよくさっぱりとした人柄で、分け隔てなく幅広く付き合う人物だったのです。

江戸は人脈が重要ですので、キャラクターは非常に重要でした。

 


仙台藩の誇る才人として

工藤平助の時代、仙台藩主は伊達重村でした。

映画『殿、利息でござる!』では羽生結弦さんが演じた人物です。

彼は田沼時代の大名らしく、華やかで派手、厳しい言い方をすれば少々軽薄なところがある人物といえます。

伊達重村/wikipediaより引用

そんな重村の耳に、某藩の名物俗医師である梶原平兵衛の噂が入ってきました。

俗医師とは剃髪しない医者のことであり、例えばフィクションの『赤ひげ先生』が該当します。

すると安永5年(1776年)頃、仙台藩主・伊達重村は平助に還俗蓄髪を命じました。

梶原平兵衛と対抗させようとしたわけです。

この話は平助の娘である只野真葛が著した『むかしばなし』の中に書き留められています。

築地に大きな二階建ての屋敷を建てた平助の元には、さらに多くの人が出入りするようになりました。

仙台藩の誇る才人となり、私塾「晩功堂」も開いて、ますます人脈も広まってゆくのです。

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