そう問われたら、即座に「鉄砲」という答えが出てくるでしょう。
では「鉄砲を最初に普及させた人物は?」と聞かれて、即答できる方はどれほどいらっしゃるか。
鹿児島から南へ約50kmの距離にある種子島――その領主であった種子島時堯(たねがしまときたか)こそ、最初に鉄砲を広めたとされる戦国大名。
鉄砲伝来については他の見方もありますが、それはさておき彼は一体どんな人物だったのか?
戦国大名としての功績はどれほどのものなのか?
種子島時堯の生涯を振り返ってみましょう。

種子島時堯の銅像/wikipediaより引用
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種子島氏とは
そもそも種子島氏とは、どんな一族だったのか?
伝説上では平清盛の孫・行盛の息子である平時信を先祖としています。

平行盛/wikipediaより引用
史料上で確認できるのは五代目とされる時基からで、当時は肥後氏を名乗っていました。
肥後氏は、鎌倉初頭に島津氏によって地頭代に任じられた名越氏の家臣だったとされます。
名越氏は北条氏の一門ですので「鎌倉幕府のお偉いさん一族の家臣」といったところですね。
島津氏
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名越氏(北条氏一門)
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肥後氏(後に種子島氏)
鎌倉幕府が倒れた後も肥後氏は残って室町時代を迎え、時基は応永十五年(1408年)、七代当主・島津元久より屋久島と口永良部島を与えられたとされます。

島津七代当主・島津元久/wikipediaより引用
口永良部島と屋久島、そして種子島は、鹿児島の南端から約50km以内に並んだ3つの島です。
西郷隆盛が二度目の流罪で飛ばされたのは、沖縄本島に近い沖永良部島ですのでご注意ください。
この3島は、鹿児島へ渡るよりも互いの島で行き来したほうが近く、そのため肥後氏の一部が種子島に根付き、島名を一族の名にしたようで。
彼らは島津氏の家臣というわけではなく、種子島氏という独立勢力の立ち位置を保ちたかったようです。
理由は交易――要はお金儲けですね。
交易の恩恵を授かり中央とのパイプを構築
京都で応仁の乱が起きた頃から、遣明船の航路が新たに追加されました。
◆新たな遣明船ルート
土佐沖
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九州東海岸
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南西諸島
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中国・福建
旧国名と現在の県名で見てみますと、土佐(高知県)から日向(宮崎県)海岸に沿って大隅(鹿児島県)まで行き、その後、種子島や奄美大島、琉球(沖縄)などを経由して中国へ向かうコースですね。
このルート開拓は、種子島氏を含む南西諸島の国衆たちにも恩恵を与えてくれました。
日本刀や工芸品などを贈り、銅銭などを貰い、足利義満時代には利益が40倍にもなったという試算もあるほど日明貿易は儲かりましたので(詳細は以下の記事へ)
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勘合貿易(日明貿易)は利益20倍で爆儲け!日本刀を輸出して生糸や銅銭をゲット
続きを見る
そのルート上にある種子島氏にとっても豊かになるだけでなく、人脈の構築にも役立ったのです。
具体的には、遣明船オーナーである細川氏や大内氏との関係が深まりました。
そしてこの繋がり、宗教的な面にも影響していきます。
細川氏や堺商人は日蓮宗(法華宗)を庇護していたため、南西諸島でもこの宗派が推進。
文明元年(1469年)には、種子島氏が治めていた種子島・屋久島・口永良部島が、当時の当主・種子島時氏によって日蓮宗となりました。
その普及には京都の本能寺も関係していたとされます。
時堯の生い立ち
はるか彼方の南西諸島にありながら中央との接点も多かった種子島。
享禄元年(1528年)、種子島時堯が生まれます。
父は種子島氏の十三代・種子島恵時(しげとき)で、母は島津忠興の娘です。
血縁関係の話を先にしますと、時堯にとって父方の祖母(恵時の母)が島津家臣・蒲生宣清の娘でした。
また、時堯にとって叔父にあたる茂清が、その蒲生氏へ養嗣子に出ており、島津氏に近づきやすい立場だったといえます。
島津氏としても、貿易の要にあたる南西諸島の諸氏と結び付きを強めておきたかったのでしょう。
時堯の幼少期に起きていた島津氏内の勢力争いでも種子島氏が参戦しています。
島津勝久率いる薩州家と、島津忠良と島津貴久が率いる相州家が対立したのですね。

島津貴久/Wikipediaより引用
時堯は当初、薩州家についていたものの、その後、相州家側に鞍替えしたと見られ、最終的に勝利者サイドに立つことができました。
島津貴久は、義久・義弘・歳久・家久の島津四兄弟の父であり、薩摩中興の祖とされる人物です。
「機を見るに敏」なところも時堯にはあったのでしょう。
そして天文九年(1540年)頃、今度はその種子島氏で内紛が起きてしまいます。
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