元亀二年(1571年)6月23日、九州を代表する戦国大名・島津貴久が亡くなりました。
お察しのとおり薩摩藩の島津家です。
初代・島津忠久から始まって15代当主となる貴久は「中興の祖」とも呼ばれており、島津家ファンの方々には馴染み深い名前ですね。
島津といえば戦国時代では
・島津義久
・島津義弘
・島津歳久
・島津家久
の四兄弟が有名ですが、彼らの父親が貴久です。
今回はこの父親の若かりし頃から見ていきましょう。

島津貴久/Wikipediaより引用
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分家の当主・忠良の長男として誕生
島津貴久は永正十一年(1514年)、島津家分家の当主だった島津忠良(ただよし)の長男として生まれました。
島津氏は鎌倉時代に源頼朝から南九州へ封じられ、その後ずっと根付いてきた一族です。
この任命に公家の近衛家が関わっていたため、両家は数百年単位の付き合いがあります。
島津家そのものも戦国時代当時でも200年以上の歴史を持っており、当然一族も多く、その分権利が複雑になっていました。
当時の宗家にあたるのは「奥州家」といい、そこから「薩州家」や、貴久が生まれた「相州家」などに枝分かれ。
名前の由来は、それぞれの血筋の初代が自称していた官職からきているもので、当時の島津氏が奥州=東北や相州=相模に土地や権力を持っていたわけではありません。
貴久が生まれた頃は奥州家の力が弱まり、薩州家(奥州家の支流)と相州家の間でどちらが宗家の後継になるべきか揉めていました。
当時の宗家14代当主・島津勝久はまだ若く、島津全体を統括する力が無かったのですね。
そこで勝久はその後の島津家の運命を決める重大な決断をします。
忠良に相談し、貴久を養子として迎え入れるのです。

島津忠良/wikipediaより引用
宗家継承
翌年、勝久は家督を譲り、島津貴久は島津家の本拠だった清水城へ。
13歳で正式に島津宗家の家督を継承します。
勝久は、忠良の本領・伊作(いざく)に隠居し、忠良自身は33歳で剃髪して「愚谷軒日新斎」と名乗り、息子の後見に専念。
「本家がダメだから分家から人を選ぶ」というのはよくある話ですが、島津家ってこういうときの人選が的確なのがまたスゴイですよね。
しかし、これでトントン拍子とはいきませんでした。
薩州家当主・島津実久(さねひさ)らが貴久の養子入りに大反対し、内乱状態になってしまうのです。
しかも途中から勝久が「やっぱりもうちょっと当主をやりたい!」といい出し、薩州家側についたので余計に話がこじれていきます。
貴久との養子縁組は、家老たちが推し進めた面が強かったため、後から不満が出てきたのだそうで、事前のすり合わせってホント大事ですよね。
そこで力を発揮したのは忠良。
薩摩南部の武士たちを傘下に収め、合流して盛り返すというアツい展開となります。
最終的には実久も勝久も島津宗家から逃げ出し、ようやく忠良・貴久親子が名実ともに中心となりました。
島津家内における島津貴久の権力が確固たるものとなったのは、養子入りから13年。
本人の年齢も25歳になっています。
天文十九年(1550年)には内城(うちじょう) を築き、ここを新たな本拠に定めました。
その後も薩摩の有力国衆のうち13もの家が反抗し、しばらくは忙しい日々が続きます。
ただし、この13家とは一枚岩ではなく、長期化するうちに貴久との和睦に応じる者も現れ始め、天文二十一年(1552年)にはようやく事態も収拾。
当時はどんな時代だったか?
というと、中央では織田信長が家督を継いだ翌年であり、九州では大友宗麟が中国の大内家に養子を送り込むなどして勢力を急伸させていた頃のことです。

大友宗麟こと大友義鎮/wikipediaより引用
もしこれ以上薩摩統一が遅れていたら、島津家が九州で勢力を保つことはできなかったかもしれません。
天の采配というか、奇妙な偶然というか。
そして貴久が家中で統率を進めていた当時、戦国時代の軍事と宗教に関わるような、大きな転機が訪れました。
いずれもキーワードは“南蛮”となります。
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