平秩東作/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』平秩東作(木村了)平賀源内の遺体を引き取った長老は蝦夷地にも渡る

大河ドラマ『べらぼう』では何とも不思議な名前の方たちが多数登場します。

現代で言えばペンネームであり、特に狂歌師たちは元木網(もとのもくあみ)やら知恵内子(ちえのないし)やら四方赤良(よものあから)など、振り切った名前が非常に多い。

そんな、ぶっ飛んだキャラたちの中で、いささか不思議なのが平秩東作(へづつとうさく)かもしれません。

俳優の木村了さん扮する戯作者であり、実はドラマの中では何度か平賀源内と行動を共にしていた人物。

第21回放送が終わった時点ではまだ謎多き存在ですが、『古今狂歌袋』に描かれた姿は以下の画像の通り個性バツグンなだけでなく、

平秩東作/国立国会図書館蔵

自著の中でも大田南畝との面白エピソードが記録されていたりします。

眼鏡をかけた姿がかなりクセが強い――平秩東作の史実における事績を振り返ってみましょう。

 


『べらぼう』で不思議な立ち位置の平秩東作

史実の平秩東作(へづつとうさく)とは一体どんな人物だったのか?

本題に入る前に『べらぼう』における彼の特殊な立ち位置をおさらいしておきましょう。

というのも本来は戯作者である彼が人物相関図では不思議なポジションにいるからです。

第16回までは平賀源内と共に「江戸市中の人々」に掲載され、「蔦重と関わる人々」とされていました。

しかし、源内が死亡退場した第17回以降は、なぜか「幕臣・諸大名」の中にいて、しかも肩書は「内藤新宿の煙草屋」になっている。

一体これはどういうことなのか?

彼を考える上で重要なのは「平賀源内を慕っていた」という点でしょう。

多才だった源内は本草学者でありながら戯作もこなすなど、マルチな才能が大きな特徴でした。

平賀源内/wikipediaより引用

『べらぼう』では若く見える平秩東作は、実際のところ享保11年(1726年)生まれで、寛延3年(1750年)生まれの蔦屋重三郎よりずっと年上、実は源内よりも二歳上です。

そして平賀源内が亡くなる直前、安永8年(1779年)の54歳時点で、剃髪していました。

内藤新宿の煙草屋・稲毛屋金右衛門としての商売から隠居して「娯楽に生きる」と宣言しているのです。

そんな彼の取扱が難しいのは

平秩東作は◯◯です――

とは言い切りにくい点でしょう。

彼が慕った平賀源内と同じで、二人とも才能の幅が多方面に渡っていて「これぞ」という的が絞りにくい。

平秩東作は天命年間の文壇長老格であり、誰しも一目置く存在でありながら、実に蝦夷地探検までこなした、非常にエネルギッシュな人だったことがわかります。

そんな彼をドラマの脇役として出す場合、肩書をどうするのか、実に悩ましい。だからこそ、源内の後継者枠として扱われているのかもしれません。

『べらぼう』の劇中でも、戯作者としてより、別の活動をしている場面が多い。

例えば、源内と共に秩父・中津川鉱山の開発に携わっているときは、待遇に怒った船頭から首を絞められる場面もありました。

そうかと思えば、エレキテルがイカサマ扱いされて落ち込んでいる平賀源内に、蝦夷地で採れる砂金を持ち込んで励ましたこともあります。

いったい何者なの? と、問いたくもなる登場の仕方なのです。

当時は、どこか胡散臭い人物のことを「山師」と呼んでおり、源内もまた、自嘲を込めて己をそう呼んでいました。

では平秩東作は……?

 


稲毛屋金右衛門は天明文壇の長老格となる

平秩東作は享保11年(1726年)に生まれました。

前述の通り、平賀源内よりも2歳年長。

大河ドラマ『べらぼう』ではかなり若く見えますが、平賀源内と同世代にあたり天明文壇の長老格とされています。

実は、息子ほど歳の差があった大田南畝ら後進の才能を見出したのが彼です。

大田南畝(四方赤良)/国立国会図書館蔵

彼の父は元々尾張藩士であり、そこから内藤新宿の煙草屋・稲毛屋金右衛門となりました。

平秩東作は父の屋号を継承し、幼名は八十郎、後に八右衛門となり、さらに父を継いで金右衛門となります。

姓は立松、名は懐之(かねゆき)、字は子玉。

最も有名な“平秩東作”は、戯作者としてのペンネームである「戯号」となります。

当時の文人らしく、東蒙山・嘉穂庵という号もあり、とにかくルーツも名前もなかなか掴み所のない人物と言えるでしょう。

武士の父を持つためか、若い頃から教養がありました。

宝暦年間には江戸の文人ネットワークにも参加。

当時のこうした集まりには、平賀源内や大田南畝もおり、そこから人間関係が広まっていったことが想像できます。

『べらぼう』第16回放送において平賀源内が亡くなりましたが、罪人であるがゆえに遺体を見ることができず、そこを踏まえて蔦重は「源内さんは生きている」と思うことにしていました。

史実では、このとき源内の遺骸を引き取ったのが平秩東作とされています。

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