平秩東作/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』平秩東作(木村了)平賀源内の遺体を引き取った長老は蝦夷地にも渡る

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「寝惚先生」を見出した平秩東作

『べらぼう』第18回において、大田南畝はこんな風に説明されました。

平賀源内にその才を激賞された、かつての天才少年です――。

この経緯を、平秩東作が自著の『莘野茗談』(しんやめいだん)で書き記しています。

大田南畝がまだ若く、少年であった頃、平秩東作によればまだ17歳の彼が、慰みに作ったという【狂詩】(漢詩のパロディ)を20首ばかり見せてきた。

これがなかなか出来が良く「申椒堂」(しんしゅくどう)こと須原屋市兵衛に見せたところ、とんとん拍子で出版が決定。

その二年後、平賀源内が跋文をつけた『寝惚先生文集』が刊行された。

大田南畝の回想シーンに、破顔一笑しながら跋文(ばつぶん)を記す平賀源内が出てきてもおかしくはないですね。

天明年間には文壇の頂点に立ち、若き文人を見出していた平秩東作。

大田南畝が彼に対して敬愛の念を抱くのは自然なことであり、となれば平秩東作も【狂歌】の大ブームに関わらないわけがありません。

そもそも大田南畝が「寝惚先生」として世に出した作品は【狂詩】、つまりは漢詩のパロディでした。

漢詩をおちょくるとなれば知識が必須。

きちんとした【書物問屋】が扱う漢籍を読みこなせなければできません。

【狂歌】ブームの前段階として、この【狂詩】があります。

明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)の【狂詩】の会があり、平秩東作はそこにも参加していました。

唐衣橘洲/国立国会図書館蔵

『べらぼう』は明和9年から始まりますので、その3年前ということになりますね。

それから時代がくだり、平賀源内の痛恨の死を経て、江戸文壇には間口が広い【狂歌】ブームが引き起こされました。

今度は漢詩ではなく【和歌】のパロディなので、難易度はずっと低い。

つまりは武士だけでなく、町人の参加も可能になり、身分秩序が崩れた愉快な文壇と熱狂的なブームは、かくして煮えたぎってゆきます。

第21回放送を終えた『べらぼう』では、今まさにそんな場面へ流れつつありますが、平秩東作に関しては文壇ではなく別の場所で見ることになりそうです。

それが蝦夷地です。

 


蝦夷地探検をこなして歌に詠む

蔦が絡まるように興味深い人脈を繋いでゆく『べらぼう』の平秩東作。

これまた前述の通り、源内に対して「蝦夷地には砂金がある」と持ちかけたのは平秩東作でした。

当時の江戸文壇では蝦夷地やロシアのことも話題にのぼっていてもおかしくはなく、そこで掴んだ情報だったかもしれません。

田沼意次が蝦夷地情報を掴んだタイミングは、仙台藩医・工藤平助からの提言があってからとされる説があります。

それを前倒しすることはありえないことともいえず、かつ江戸文人のネットワークと田沼政治の繋がりを描く上ではなかなか重要な描写といえます。

【狂歌】の文壇には大田南畝ら武士も参加しています。

ただの旗本御家人やどこかの藩士であれば、趣味を楽しんでいただけで終わります。

しかし、そこには土山宗次郎もいました。

田沼政治において、勘定奉行につながる有力な人材です。

その縁ゆえか、平秩東作はなんと天明3年(1783年)から翌年にかけて、蝦夷地へ赴くのです。

伊能忠敬『大日本沿海輿地全図』の蝦夷地/wikipediaより引用

アイヌの人々や蝦夷地の風土について見聞を深め、その様を『東遊記』として発表。

【狂歌】文壇でも蝦夷地について詠み、名作を残しています。

しかし、そうした熱狂も程なくして終わりを迎えてしまうのです。

いったい当時の江戸に何が起きたのか。

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