大河ドラマ『青天を衝け』では、明治新政府で休む間もなく働く政治家や官僚たちの姿が描かれていました。
倒幕後に立ち上げた新政府だけに、やることは山積。
猫の手も借りたいぐらい働きまくった――確かにそんなイメージはありますが、現実はさにあらず。
明治初期の政府では、何もすることがなく、煙管をボーッと吹かしているような者も大勢いたとか。
なぜ、そんなバカなことが起きていたのか?
というと、岩倉や薩摩藩上層部なども反対していた強引な武力倒幕を西郷らが進めてしまったため、公務員(幕臣)も一斉に追い出され、国の土台までが破壊されてしまったからです。
キチッとした引き継ぎが必要なのは、今も昔もどんな業種も変わりません。
では、このとき追い出されてしまった幕臣たちは、どうやって生活したのか?
その後の幕臣たちを見てみましょう。
※以下は西郷らによる武力倒幕の記事です(記事末にもリンクあり)
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なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めたのか?岩倉や薩摩藩は“下策”に反対
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国家ビジョンがないままの倒幕
天皇を中心とした新政府を作るのだ――。
そんな風に描かれる明治維新だけに、当然ながら、明確な国家ビジョンがあったと思われがちです。
歴史の授業からしても、そんな印象をお持ちになられるでしょう。
しかし実態を見てみればそうではありません。
そもそも諸外国の事情をよく知っていたのは圧倒的に江戸幕府であり、国として機能させるためには彼等の力が不可欠でした。
ところが、です。
例えば、戊辰戦争の中で、新政府軍は有能な幕臣・小栗忠順を冤罪で処刑しています。
小栗は、大隈重信が「明治の近代化はほとんど小栗の構想の模倣に過ぎない」と評したぐらいの傑物。

小栗忠順/wikipediaより引用
彼だけでなく、日本各地に小栗に準ずるような優秀な幕臣・佐幕派の者たちもいました。
これは明治新政府の元藩士たちが無能ということではありません。
政権を握っていた上級官僚・役人たちに、それだけの情報やシステムが浸透していたということ――だったら明治新政府も幕臣を雇えばよかったではないか?
そう思われるでしょう。
そこで、いったん視点を変えて、将軍サイドに目を向けてみたいと思います。
徳川への忠義があるために
勝海舟と山岡鉄舟が、西郷隆盛との間で進めた交渉により、徳川慶喜の首はつながりました。
明治維新後は、徳川家先祖伝来の土地とされた駿河藩70万石へ移住。
慶喜本人は趣味と女中との子作りに悠々と生きておりましたが、家臣はそれどころではありません。

隠居生活で狩猟を楽しんでいた慶喜/wikipediaより引用
将軍様のお膝元、直接徳川家に仕えていた幕臣には選択肢が示されました。
1. 主である徳川慶喜と共に駿河へ移住する
2.朝臣(朝廷の家臣)として新政府に仕える
3.武士の身分を捨て、農業や商業等を始める
「1」は、苦しい生活が待ち受けていました。
なにせ70万石まで石高を減らされたのですから、食べていくだけでも相当苦しい。一家揃って餓死するような悲惨な例もありました。
現実的に食い扶持を稼ぐためには「2」を選ぶしかありません。
ところが、です。この「2」を選ぶのが幕臣には辛かった。
そもそも幕府随一の頭脳とされた小栗忠順が冤罪でいきなり処刑されてしまい、明治新政府に対して何ら信用が持てません。
そして幕臣には徳川への忠誠心もあった。
新政府軍が無益な内戦(戊辰戦争)などに持ち込まず、選択肢「2」を選ばせるような政治的展開にしていればよかったかもしれません。
ともかく幕臣には江戸時代に醸成された忠誠心があり、江戸城で拳銃自害を遂げた川路聖謨や、はるばる函館まで転戦した幕臣を考えれば簡単に「2」など選べません。

川路聖謨/wikipediaより引用
しかも、そうした状況は彼らだけの問題でもありませんでした。
幕府と新政府の二君に仕えた者に対しては、出入りの商人も失望し、生活必需品すら買えなくなったこともあったといいます。
それでも「2」を選んだ場合、勝海舟や榎本武揚のように、旧幕臣から筆誅を加えられることもありました。
「3」は、実力があれば選ぶことができる道であり、福沢諭吉や栗本鋤雲が代表格です。

栗本鋤雲/wikipediaより引用
文才がある者たちは、外から国作りを見てやるのだという気概に溢れていました。
ただし、現実的に食べていくことは難しく、福地桜痴のように、新政府に都合よく使われる御用記者となってしまうケースもあります。
そもそものスキルがない場合、家財道具を売りに出して食い繋ぎ、慣れぬ仕事をする他ありませんでした。
幕臣から藩士に戻る
身分として幕臣に取り立てられていたけれど、所属していた大名家に戻る――そんなケースもあり、廃藩置県までは可能でした。
わかりやすい例として、斎藤一をあげましょう。

斎藤一/wikipediaより引用
浪人として新選組に入る(新選組は会津藩お預かり)
↓
新選組幹部である近藤勇、土方歳三らが「幕臣」としての身分を選ぶと、斎藤一は彼らに従わず、会津藩で別行動を取る
↓
明治維新後は会津藩士から斗南藩士となる
新選組の分裂は、各人の心情的な対立があったとされます。
しかし、当時の身分について考えてみると見えてくるものがあります。
幕府に直接雇用された幕臣か? それとも会津藩所属か?
前者だと考えれば、会津藩と別行動をとる。
後者なら、会津藩のために動く。
斎藤一は会津藩としての行動を選んだ典型例であり、それは死後であっても続いています。彼は、会津に墓を建てて欲しいと言い残し、それが実現されました。
このように、元の藩士としての所属を回復し、戻った者もおりました。
とはいえ、これも廃藩置県までのこと。
以降はどこかに再就職を果たすしかなく、斉藤の場合は、警視庁に巡査として就職。
その後も会津藩時代の人脈を頼りに、働き口をみつけてゆくのでした。
『るろうに剣心』の斉藤一も味がありますが、史実の彼もまた、明治を生きる元武士の一典型として興味深いものがあります。
漫画『ゴールデンカムイ』で言うと、門倉という人物がいて、彼の父が北海道へ渡った会津藩士あたりと推察できます。
彼等のように負け組の子孫たちが、北海道でたくましく生き抜いていたのです。
海外移住という驚きの手段
驚きの選択肢としては、海外亡命というルートもありました。
例えば徳川慶喜。
勝海舟、山岡鉄舟による助命交渉が失敗した場合、慶喜はイギリスに亡命する案がパークスと勝によって密かに進められていました。
幕臣では塚原昌義がいます。

塚原昌義(1860年にワシントン海軍工廠で撮影)/wikipediaより引用
遣米使節に入り、海外通でもあった塚原は【鳥羽・伏見の戦い】で幕府軍の副総督を務めました。
敗戦後、味方から指揮の拙さを責められた塚原は、横浜からアメリカへ逃亡。
明治3年(1870年)末に帰国すると、翌年4月末に自首しています。
ただし翌年の明治5年(1872年)になると赦免され、武田昌次と名を改め明治政府に出仕したのでした。
これは幸運な成功例と言えます。
水戸藩では、海外逃亡に失敗し、悲惨な最期を迎えた人物もいます。
ときは明治元年(1868年)。
そのころ、天狗党の乱で非業の死を遂げた武田耕雲斎の孫・武田金次郎が、敵対する諸生党を血祭りにあげていました。
諸生党の首魁は市川三左衛門弘美。
東京に潜伏していた市川は、形勢不利と見て、フランス渡航を計画していました。
しかしあと一歩というところだった明治2年(1869年)、天狗党に捕えられてしまいます。
そして同年4月、水戸郊外・長岡原で「逆さ磔」にされて処刑されたのでした。
いかがでしょう?武力討幕は、日本各地に流血や怨恨を産み、幕臣の再出発を阻んだのです。
集団移住の実例もあります。
会津藩士たちがカリフォルニアに移住して「若松コロニー」を築いた例です。
日本初のアメリカ移民とされますが、現地に溶け込んでしまったのか、痕跡が消えてしまいます。
おけいという若い女性の墓が発見されるまで、忘れられていたのです。
この若松コロニー出身者という設定の少女が、漫画『GUN BLAZE WEST』にコリス・サトーとして登場しておりました。打ち切りであることが惜しまれます。
名もなき者たちの再就職
では大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一は、どうか?
当初は駿府で慶喜の元にいながら、政府に出仕。
そのあと民間人となり「資本主義の父」にまで上り詰めます。

左(1866年)と右(1867年)の渋沢栄一/wikipediaより引用
そもそも渋沢は、反幕府の志士から、逮捕されそうになって幕臣に鞍替えしたこともありますが、そこから今度は新政府の長州閥へ乗り換えるなど、かなり節操ないところがあります。
引き換えに得たのが経済的成功であり、そのような例はごくわずか。
ほとんどが苦境に落とされていました。
そんな中で一つの成功例が当時できたばかりの警察かもしれません。
幕臣は武士だから、武芸ができる――犯罪者の取り締まりにこうした技術が使えないだろうか?
そう思いつき、実行したのが初代警視総監・川路利良でした。

川路利良/wikipediaより引用
川路の発案により、警視庁では士族を多く雇用し、彼らは西南戦争にて「警視庁抜刀隊」として威力を発揮しています。
5代目・古今亭志ん生の父・美濃部戍行もこうした旗本出身の巡査です。
軍人と警官は、廃刀令後も武器携帯ができる仕事ですから、士族の登用は優れた発想といえましょう。
給料の安い巡査であっても、採用されるだけマシ。
まだまだ下はおりました。
五千円札の顔でもある作家・樋口一葉の父・則義は、かつて旗本の家に仕えていました。そのころの同僚が樋口家をおとずれ、暗い口調でこう語っていたといいます。
「いよいよ落ちぶれたら、車でも引くしかない……」
車を引くとは「車夫」になるという意味です。

人力車や馬車など、様々な車の描かれた明治期の浮世絵/Wikipediaより引用
このころ「車夫馬丁」という言葉がありました。
人力車を引っ張る。馬車馬の世話をする。単純な肉体労働者であり、否定的な意味合いで使われます。
例えばこんな感じ。
「こんなものは車夫馬丁ならば喜ぶだろうが……」
「車夫馬丁の女房ならば言いふらすだろうよ」
都市部の最下層民と言いましょうか。
なんのスキルもなく、力仕事しかできない――こうした肉体労働者の家が、東京府士族となると、当時の人々はため息をつきます。
これぞ武士の没落典型例だと。
女性の場合は、こうした肉体労働はつとまりません。
代わりに選ばれたのは、芸者となることでした。
芸者として芸だけを売るのならばともかく、年齢が高いなどの悪条件となると、遊女に身を落とすことを婉曲的に表現していることも多い。
妹を芸者にしたという士族の悲話も、人々の胸を打つものでした。
彼女らが侍る屋敷に、薩長閥の政治家がいたのだとすれば、なんとも無残としかいいようがありません。
作家たちが残す明治の悲哀
明治が生んだ作家・樋口一葉。
彼女はその優れた文才で貧しさに苦しむ市井の暮らしを描きました。
名主であったとはいえ、夏目漱石の子孫である夏目氏も徳川家ゆかりの武士とされています。
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漱石は福地桜痴に対し、「死んだら忘れられる」と辛辣な言葉を残しています。
福地が政府に都合のよいことばかりを書き、渋沢栄一と徳川慶喜の顕彰に努めていたからです。

福地桜痴/wikipediaより引用
福沢諭吉や栗本鋤雲といった現役幕臣世代の後も、幕府ゆかりの作家たちは、その才能を用いて明治の姿を残しました。
幕臣の四男として生まれた幸田露伴は、その文才をみこまれ『渋沢栄一伝』を執筆しています。
しかし伝記を書き終えた後、渋沢栄一の話題が出ると不機嫌になり、話したがらなかったとか。
なぜ幸田が不機嫌になったのか?
こうした幕臣の苦労を振り返るとわかるでしょう。
渋沢はかつて倒幕を志していた。それが保身のために幕臣となった。しかし倒幕後は、長州閥の政治家と懇意にして、贅沢な暮らし……と、生粋の幕臣からすれば、とんでもない話なのです。
それが福沢諭吉に代わり、シレッと最高額紙幣の顔になっている――当時の人々が知ったら目を白黒させそうな世の流れかもしれません。
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参考文献
- 樋口雄彦『幕臣たちは明治維新をどう生きたのか』(柏書房, 2017年, ISBN: 978-4760148872)
Amazon: 商品ページ - 安藤優一郎『幕末維新 消された歴史』(青春新書インテリジェンス, 青春出版社, 2019年, ISBN: 978-4413045616)
Amazon: 商品ページ - 半藤一利『幕末史』(新潮文庫, 新潮社, 2014年, ISBN: 978-4101344714)
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