古賀政男/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

朝ドラ『エール』野田洋次郎さん配役のモデル・古賀政男とは?

日本の芸能界、歌謡界に偉大な足跡を残してきた方たち。

佐藤千夜子
藤山一郎
菅原都々子
渋谷のり子
ディック・ミネ
アントニオ古賀
美空ひばり
森進一
五木ひろし
小林幸子

一人も知らないという日本人はいないでしょう。

彼らにはある共通点があります。

半世紀かけて4000曲を手掛けた昭和歌謡の巨人・古賀政男――。

第2回国民栄誉賞を受賞した偉人であり、2020年の朝ドラ『エール』にも登場する「木枯正人」のモデルです。

ドラマでは人気ロックバンドRADWIMPSの野田洋次郎さんが演じていますが、この偉大なる作曲家とはどんな人物だったのか?

その足跡を追ってみましょう。

※文中敬称略

 

8人きょうだいの古賀政男 生活は苦しく

古賀政男は明治37年(1904)11月18日、福岡県三潴郡田口村(現・大川市)にて、父・喜太郎、母・セツの五男として生まれました。

男6人女2人の8人きょうだい五男。出生時の本名は正夫と言いますが、本稿は改名後の“政男“で統一します。

『エール』の主人公モデルである古関裕而より5才上でした。

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古賀喜太郎が農業の合間に、瀬戸物を天秤に乗せて売る――つつましい一家であり、政男の誕生時、父は40を過ぎていました。

幼いきょうだいの面倒は3番目に生まれた姉が見て、年上の兄たちは丁稚奉公に出ている。そんな明治の一家です。

しかし政男が5才の時、父は肝臓病で亡くなりました。享年50。

母子家庭となった古賀家で、一家の暮らしむきはますます苦しくなります。

そんな生活の中、幼い政男の心に残るのは、音楽でした。

たまに来るサーカスで聞いたクラリネットの音。

水遊びをして聞こえてきた水中の音。

流しの芸人が弾いていた月琴に興味を持ち、古い羽子板に三味線の糸を張り、お手製の弦楽器を作り、手拭いを頭に乗せて弾いていたことも。

セツは、幼い我が子を抱えた田口村での生活に限界を感じるようになります。さらに悪いことに、自宅で火災が起きてしまうのです。

かくしてこの母子家庭は、海を越えることになりました。

古賀家の長男・福太郎は、古賀が生まれた翌年の明治38年(1905年)に朝鮮・仁川(インチョン)で丁稚奉公を始めていました。

父が亡くなると、福太郎は他の家族も呼び寄せることとしたのです。当時、政男の上の男子は、全員が朝鮮にいました。

 

仁川に渡るも兄と母の折り合い悪く

明治43年(1910年)、韓国併合から2年後の大正元年(1912年)――。

セツは家財道具を売り払い、旅費を捻出しました。

信玄袋とバスケット2個だけにおさまる、僅かな荷物を持ったセツは我が子3人を連れ、下関から関釜連絡船に乗船。

田口村から、異国であり都会である仁川にやってきた母は、心細さで押しつぶされそうでした。

しかも、電報を打っていた福太郎は出迎えにきておらず、三男・金蔵と四男・久次郎しかいません。金蔵は母の荷物すら薄汚いと触ろうとしない。セツは不安を強めてゆきます。

福太郎の元で始まった新生活は噛み合わず、母子は離れて暮らすこととなりました。

セツは海を越える前も、なんとかして息子たちには頼らないよう工夫をこらしていました。なぜ、我が子を頼ろうとしなかったのか? それは福太郎の母への冷たい態度を見れば、明らかでした。

朝鮮についた翌年、姉・フジが嫁いでゆきます。

このとき弟の政男は寂しさのあまり、結婚式すら出ないで川岸で泣きじゃくっています。

昭和14年(1939年)の『誰か故郷を想わざる』は、古賀からこの思い出を聞いた西条八十が作詞し、古賀が作曲したもの。つまりこの歌の”故郷“は、田川村だけではなく仁川のことでもあるのです。

大正3年(1914年)、福太郎はのれん分けされ、京城(ソウル)に店を構えることとなり、田口村から嫁を迎えました。

母も再び加わり、古賀一家は全員が暮らすようになります。

しかし、セツにとっては心休まることでもありませんでした。兄たちは結婚し、子が生まれてゆくのです。

結婚すると、福太郎たちは母を無給の乳母のようにこきを使う。セツはかわるがわる孫を背負い、赤ん坊が漏らす小便で背中がいつも湿っていたとすら回想されています。

生まれた孫の世話を任される。使用人同様の扱いをされる。姑として嫁との仲には苦しめられる。

あまりの酷使ぶりに疲れ果てたセツは、手首を切る自殺未遂まで起こしています。

優しく厳しい母が、傷ついている。古賀本人と弟も、義理の姉から叱り飛ばされてばかりの日々。「物乞いをしてもいいから戻ろう……」と帰国をと訴えるものの、叶うことはありません。

古賀は福太郎のことを、心の底から憎むようになっていきます。母への崇拝のような愛と、兄への憎悪が古賀の胸に刻まれたのでした。

 

善隣商業学校へ入学

苦しい生活の中、古賀の救いは大正琴でした。

いとこである草刈家の良介が、「そんなに好きならあげる」とくれたのです。

しかし、福太郎はこのことに激怒。良介がかばって、やっとその場はおさまったのでした。

古賀は、一人で押入れにこもって大正琴を弾く日々を続けます。

義理の姉たちが持っている三味線、琴、筑前琵琶の音も、彼にとっては救い。辛い日々を癒すのは、母の愛と音楽だけでした。

古賀は音楽学校を目指すために、その道へと進学したいと考えていました。

母のセツも我が子の音楽への情熱をどうしたものかと困惑しながら、その天性を伸ばしたいと思っている。

しかし、弟の進路を決めるのは福太郎です。兄は商人になることを強制し、善隣商業学校への入学を強いるのでした。

それでも古賀にとっては、兄の店で使い走りをさせられるよりはずっとマシでした。テニスに興じ、級友たちと街を闊歩する生活、そして儚げな女学生相手の初恋。青春を謳歌していたようではありますが、音楽の専門教育を受けられなかったことを気にする言動が後に出てきます。

学生生活の中で、古賀はこの時代らしい楽団も結成しました。

大正琴、明笛。ハーモニカ、バイオリン。東洋と西洋の楽器が入り混じったもので、演奏する曲も、歌謡曲、詩吟、都々逸と、バラエティに富んだものであったのです。

昭和45年(1970年)、古賀はこの母校に時計台を寄贈しています。

それだけでは満足できません。マンドリンという楽器が欲しいと、当時大阪にいた兄・久次郎に頼み込み、手に入れます。マンドリンを奏で、守り抜くことこそ、商人になるよう目を光らせる兄・福太郎との対決です。

福太郎からしてみれば、学生生活と音楽を謳歌する弟・政男は役者の真似をしているどうしようもない道楽者。幼い頃から働いてきた兄からすれば、複雑な気持ちがあったのだろう……と古賀は振り返っています。

 

民謡「アリラン」に影響を受け

大正11年(1922年)、古賀は善隣商業を卒業しました。そして、兄・久次郎のいる大阪で商売を学ぶという名目で、京城を離れます。朝鮮時代はこれで終わりました。

しかし現地で耳にした音楽は、彼に強烈な印象を残しています。

伝統的な祭りで奏でられる、朝鮮の笛や太鼓。

福太郎の店にいた従業員たちが口ずさんでいた民謡。

そんな民謡には「アリラン」もあったことでしょう。胸に満ちてくる悲しみが込められたその歌を、古賀は耳にしていたのです。当時その地を生きる人々は、日本に支配される祖国の悲しみを込めて歌っていたものです。

1926年、日本の元号では大正15年、京城で映画『アリラン』が上映されます。主人公は三・一独立運動に関わった青年。この映画を通して「アリラン」は朝鮮半島に広まってゆきます。

音楽と社会、そして歴史とは、切り離せるものではない。このことは、古賀政男の人生にも影響を与えてゆきます。

 

日本に戻った古賀が身を寄せたのは、兄・久次郎の金物問屋でした。

兄の中でも、久次郎は弟に好意的。自分には才能がないけれども音楽が好きで、得意とする弟に好意を持っていたのです。

とはいえ、そんな久次郎の元で働く店員たちは、音楽では飯が食えないと厳しい目を向けてきます。

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やがて大阪での商人としての道ではなく、上京を目指すようになった古賀。いとこの草刈良介に手紙で相談し、こっそりと電車賃を握りしめ、大阪の金物問屋を後にします。

そんな弟の背中に、久次郎が声を掛けてきます。止めるのではなく、しわくちゃの紙幣を握らせて、兄は弟を見送ったのです。

大正12年(1923年)春。
久次郎に背中を押され、古賀は東京へたどり着きました。

いとこの良介と始めた同居人生活。福太郎は手紙で勘当を伝えてきたものの、今さら止められません。

そして明治大学予科入学。マンドリン倶楽部を創設し、音楽家の道を目指します。明治時代ほど華やかでもなく、苦学生が増えてゆく大正という時代を、古賀は生きてゆくのでした。

この先、日本は激動を迎えることとなります。

 

自殺衝動の中に生まれたメロディ『影を慕いて』

入学を果たしたこの年の夏休み、古賀は京城の兄のもとへ向かいました。

福太郎は勘当した弟を見て激怒しましたが、母と姉の顔を見にきたと反論する古賀。姉のフジは夫を失い、3人の子を抱えて苦労を重ねていました。

古賀は母、姉とその子3人を連れて、田口村へと向かいます。

老母は気丈にも、故郷で駄菓子屋でも開き、娘と孫3人と生きていこうと決意を固めていたのです。

そんな夏休みを終えた9月1日、電車に乗り込み東京を目指します。広島駅で古賀は、驚愕のニュースを耳にするのです。

関東大震災――。

慌てて千駄ヶ谷の下宿に戻ると、幸いにも愛用のマンドリンを含めて、被害は少ないものでした。

そうは言っても復興中の東京暮らしは厳しいものです。母の仕送りを受け、ギターを買い、空腹をこらえながら暮らす日々を過ごします。

マンドリンすら質に入れようかと思いましたが、母の仕送りに助けられ、その愛を古賀は忘れませんでした。

音楽を教え、独学で学び、秘められた恋すら苦い結末で終わる。そんな鬱々とした日々を過ごす古賀。

そうして迎えた昭和3年(1928年)とは、暗さと不穏さを増すばかりの時代でした。

三・一五事件。

治安維持法改正。

張作霖爆殺。

第二次山東出兵。

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大学を出たばかりで、世の中は出迎えてくれないだろう。何かに飛び込む情熱もない。卒業記念に東北へ旅したときに、古賀の胸にはふっと自殺の衝動が湧いてきたのでした。

しかし、噴き出す血をハンカチで抑えた古賀の胸に、詩とメロディが湧き上がってきたのです。

最初の作品『影を慕いて』のアイデアが生まれました。

失恋、絶望、不安、苦しみが、初めての古賀メロディーになったのです。

この曲は、古賀が親しくしていた新宿にあるカフェの女給からは「古臭い」と酷評されました。

そのため、すっかり自信を失ってしまった古賀。ところが、この曲が華々しく世に認められるのです。

マンドリン倶楽部は公演に人気歌手・佐藤千夜子をゲストに呼びました。このとき彼女がこの曲の楽譜を目にして気に入り歌いたいと望み、ビクターからレコードとして発売されたのです。

哀しき古賀メロディーは、かくして世に出たのでした。

 

こんな暗くて重苦しい曲がウケるのか……

昭和4年(1929年)の明治大学卒業後、古賀は音楽を人に教えて暮らす日々を送っていました。

不況の世の中「卒業してはみたけれど」と呼ばれた彼のような存在は少なくありません。ビクター入社を目指していた古賀もその願いは叶わず。

それが一転するのが、昭和5年(1930年)のことです。

『影を慕いて』を聞いたコロムビアが、月給120円という大破格で採用を持ちかけてきたのです。

自分は作曲家でもない――そう驚く古賀ですが、就職を承諾。初月給のうち50円は苦労をかけた母に「立派に勤めてみせる」と手紙を添えて送金しました。

そしてコロムビアで、甘い声を持つ青年歌手・藤山一郎と出会います。

昭和7年(1932年)に藤山一郎が歌った『影を慕いて』は大ヒット。

このあとも古賀メロディーは順調にヒット曲をリリースし続けます。藤山の『キャンプ小唄』、女性歌手・関種子の『乙女心』が売れたのです。コロムビア側も驚くほどでした。

コロムビアは、古賀をさらに厚遇し、作曲へ専念することを奨励。印税の支払いも約束します。

「次もヒット曲を頼むよ」そんなプレッシャーをかけられるようにして、新たに渡された詩は、やや古風で重々しいものでした。北海道出身の高橋掬太郎が作詞したこの詩に、苦労をしつつも古賀はメロディをつけていきます。

歌い手の藤山一郎も戸惑いながら、クルーナー唱法を取り入れつつ、レコーディングへ。

古賀自身ですらどこまで当たるかわからない。ジャズが流行しつつあるこの時代に、都々逸のような重苦しい曲でよいものだろうか?

当人たちですら疑心暗鬼に思っていた昭和6年(1931年)、『酒は涙か溜息か』は発売されました。

 

と、この暗い曲が大当たり!
戦前最大の大ヒット歌謡となったのです。

 

スランプの古関を救ったのは古賀だった

かくして古賀は「コロムビアのドル箱」と呼ばれるようになりました。

赤字続きであったコロムビアが黒字へ転換できるほど。入ってきた印税の中から故郷の母に送金も続けます。

関東大震災のあと、貧しさのあまりマンドリンすら手放そうかと思っていたとき、母が送ってくれた5円85銭。その優しさを何倍にもして、長生きして欲しいと祈る手紙を添えて送ったのでした。

そんな大活躍を続ける古賀の前に、ライバルが登場しました。

ポリドールの江口夜詩です。

江口の音楽を聞いて鮮烈な驚きを感じた古賀は、負けじとますます作曲にのめりこんでゆく。

コロムビアはこの江口とも契約を交わすのですが、朝ドラ『エール』の主人公・古関裕而にとっては、災難でした。伸び悩んでいたところに気鋭の新人が入社し、ますますスランプ陥ったのです。

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コロムビアは古関を解雇しようとまで考えます。

と、これに対して怒ったのが古賀。作曲家にスランプはつきものであるとかばいました。

古関には金子という強気な妻がおりましたが、古賀はそうではありません。

そんな中、昭和7年(1932年)年末、古賀は和田竜夫文芸部長に勧められ、専属歌手である中村千代子と結婚することとなりました。これにはもう一人の千代子という女性のことを考えねばなりません。

かつてビクターとの契約を目指していた古賀は、ビクター所属の人気歌手である小林千代子に心惹かれていました。

しかし彼女にはパトロンがついており、古賀は諦めるしかなかったのです。

そんな古賀を自社につなぎとめるため、コロムビアは別の千代子との縁談をすすめた――そんな思惑が感じられる縁談でした。

古賀は、所属会社との契約や待遇に不満があれば、行動を起こす人物です。このことは後で証明されることとなります。コロムビアはそうならないよう、手を打っていたと考えられるのです。

かくしてコロムビア内での華々しい夫妻として、盛大な結婚披露宴があげられました。

媒酌人は山田耕筰でした。

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結婚するもすぐに離婚 そしてテイチクへ

結婚一年目となる昭和8年(1933年)は、古賀にとって辛い年でした。

彼のみならず、日本全体が暗い世相に覆われていました。

そんなときにコンビを組んでいた藤山一郎がビクターへ移籍してしまったのです。

「古賀メロディー」という言葉ができるほど有名となり、流行作曲家としての重圧がかかっていた彼にとって、身を切られるような衝撃。一方で彼の新妻も、新婚を楽しむどころか、夜毎友人を連れて家へ戻ってくる夫に戸惑いを感じてしまいます。

甘い新婚生活すら味わえず、心がすれ違うばかりの日々。

古賀が理想とする女性像は、故郷にいた母です。

母への熱愛は有名であり、比較すると他の女性では満足できません。母のような忍耐と包容力を求められた女性にしたって困るばかりででしょう。

精神状態が極めて悪化していた古賀は、妻との生活に耐えきれず、10月には離婚。このときも仲介したのが山田耕筰でした。

古賀の離婚劇は、雑誌や新聞で面白おかしくかき立てられました。

そのせいなのか結婚はしていません。近寄る歌手もいたものの、その下心を思うと気乗りがしなかった、自分はプラトニック主義であったと本人は振り返っています。

彼本人の回想と、派手なゴシップと、どちらを信じるべきか。今となってはわかりかねるものがあります。

真相はさておき、彼はこのあと結婚することはありませんでした。

離婚、そしてライバル江口によってかきたてられる気持ち。藤山の移籍。古賀は焦りを感じるようになりました。離婚だけではなく、作曲家としての別離も迫っていたのです。

昭和9年(1934年)――。

女性で自社に古賀を繋ぎ止めようとしたコロムビアの狙いは、完全に裏目に出てしまいました。

離婚騒動に疲れ果て、病気になってしまった古賀は、別荘を借りて療養に入ったのです。

ある日、温泉旅館に浸かっていると、気さくな男性が隣に入って声をかけて来ました。

奈良でオモチャのようなレコード会社をしている南口。そう名乗ると「掃き溜めに鶴かもしれへんけど」と断った上で、自社に古賀を誘います。

彼こそテイチク・レコード(帝国蓄音機)の南口重太郎でした。

関西弁で気さくな様子に、古狸のような腹を感じつつ、コロムビアにはない何かがある。コロムビアには不信感がある。彼の病気を真剣に考えていない会社側にも不満を感じておりました。

ただ、この温泉での出会いは、あくまで古賀の言い分であり、真偽は不明。古賀はテイチクで音楽作り始めた時、正木真という変名を使っており、移籍には計画性が感じられます。

かくして古賀はテイチクへの移籍を決めるのですが、黙っていられないのはコロムビアです。

契約違反を訴え、ピアノや家具まで差し押さえようとしたのでした。

 

「映画は日活、レコードはテイチク」

古賀がテイチクに移籍した夏、こんな電報が届きました。

「ハハ、キトクスグカエレ」

慌てて故郷に戻ったものの、死に目には会えませんでした。享年64。

セツは、フジの口から我が子の活躍を知ってはいたものの、なかなか会えずじまい。姿を見せることができず、無念の思いを抱く古賀でした。

母の死は、ますます彼を音楽にのめり込ませます。

それに比例するようにテイチクは売り上げを伸ばしてゆきます。当時広まりつつある映画の影響でした。

映画音楽でも古賀メロディーはヒットを飛ばし、

「映画は日活、レコードはテイチク」

と言われるほどでした。

昭和11年(1936年)、古賀はビクターとの契約が切れる藤山一郎をテイチクに誘いました。

そして発売された『東京ラプソディー』はまたしても大ヒット。その印税で母のために立派な仏壇を作らせます。このあと病気に罹ったとき母が夢枕に立ち回復したと、振り返っています。

 

ディック・ミネの発掘をしたのも古賀です。

 

古賀・藤山のコンビによって、テイチクは黄金時代を迎えたのです。

しかし順調なようで、古賀とテイチクには違和感が生じ始めていました。いわば歌謡バブル状態になっていたのです。

 

軍歌に走るテイチクを辞める

テイチク社員の増長。奢る平家のような状況に、古賀は嫌気が差しておりました。

温泉で出会ったことになっている南口のことも、古賀は自伝で南口を”古狸”と呼んでいます。

古賀の言い分ではテイチク側だけが悪いようには思えますが、そう単純な話でもありません。

契約内容において、古賀はコロムビアともテイチクとも揉めています。自身とそれ以外の社員との開きがあまりに大きく、軋轢が生じやすい状況で、古賀は実力に見合う好待遇を主張し、それに周囲が反発する構造が見て取れるのです。

作曲というのは、一人でできるものでもありません。古賀のハードワークの影には、彼を支える社員の努力もあるのです。

しかし、古賀はどうにもワンマン型で、自分の功績にするところがあった。こうなると、ますます社内環境は悪化してゆきます。

【古賀vs南口と社員】

この背後には、変わりゆく世相の変化もありました。世界には暗い影が迫っていたのです。

高まる軍国主義。

世相の荒廃。

消えゆく昭和モダニズム。

実はこうした流れは、テイチクにとって渡りに船でした。同社はなにも古賀だけに頼っていたわけではなく、浪花節、講談、漫才といったレコードも出していました。

音楽界は“大和魂”路線が当時の売れ筋になると見据えました。となると狙いは明白。

軍歌ですね。

西洋音楽――ジャズやモダニズムの影響を受けた。そんな繊細なアーティストである古賀は、テイチクの販売スタンスに嫌気がさしていきます。

かくして映画『人生劇場』の音楽を最後にして、古賀はテイチクを辞める決意を固めたのです(とは自伝による本人の弁ではあります)。

 

しかし、これはあくまで後出しであり。

言い訳めいていることを念頭に置いて、この先を読み進めていただければと思います。

 

菅原都々子との間に何があった?

古賀と音楽について話を進める前に、この人物との関係に触れていきたいとは思います。

古賀の人生をドラマにしたところで、入るとも思えない生々しい関係です。

菅原都々子――。昭和26年(1951年)の第一回紅白歌合戦出場者のうち、最後の存命者が菅原都々子です。

存命の人物のことであるだけに、書いている側としても難しいものがあったと、断らせていただきます。

 

奇妙なことに、古賀は自伝で養子について語る時、菅原都々子に関する話は除外してあります。男児二人のみを記載しているのです。

それでいて、死の直前には周囲に「都々子にも知らせるように」と語っていたのですから、意図的な除外だとわかるのです。

では一体何があったのでしょうか。

昭和12年(1937年)、都々子を養子としたと自伝の年表では記されています。

その経緯は、こうでした。

昭和2年(1927年)、都々子は青森県上北郡三本木町(現・十和田市)に生まれました。

父・菅原陸奥人は東京で音楽を学び、浅草オペラ歌手・河合丸目郎(かわい まるめろう)として活躍。その後、夢破れて故郷に戻り、新聞記者となったのです。

そんな父は、幼い都々子に夢を託し一人上京させます。行き先に待っていたのが、古賀でした。

三曲歌い終えた当時9歳の彼女を、古賀はしっかりと抱きしめました。

「僕が探していたのはこの子だ!」

このあと、20時間かけて青森の家に戻った都々子は、「お父ちゃんとお母ちゃんのところが一番、もうどこにも行きたくない」と思いました。

しかし、父はこのあと、テイチクの古賀先生のもらい養女になれと通告。幼い彼女は、古賀のもらい養女・古賀久子となります。

幼い都々子は東京で古賀に託されたあとも、わけがわからず、青森へ戻る運賃や方法を考えていました。

父の面影を年上の男性に見出そうとする一方、古賀が優しい言葉をかけてこようと、冷静に考えていました。こんな言葉は本心からのはずがない。独占欲が強いから、実父と愛情を分けようとしないだろう――。

都々子は冷たい目で養父を見つめていたのです。

養女は、実父を恋しく思い、養父に懐かない。

養父は、自分に懐かないからこそ、実父から遠ざける。

こうして二人は悪循環に陥ります。

当時都々子の父は、ポリドールの作曲家・陸奥明として上京していました。手放した娘を思い、しばしば古賀の家まで来ては都々子の様子を尋ねていたのです。

しかし、古賀は父と娘の再会を拒み続けたのでした。

 

“泣きべそ声”の背景にある

実の親子による再会は一度ありました。

古賀が正式な養女にしたいと菅原家に伝え、父も身を切る思いで了承した時のことです。この時ばかりは父娘再会の許可がおりて、都々子は父の元へ向かいました。そうまでせねば会えなかったのです。

そして都々子が思い切った決断をします。

昭和15年(1940年)夏、3年間の苦労の後、都々子はついに家出を決行。青森時代の恩師に、窮状を訴えました。

この恩師とともに父の住まいを訪れて決意を語り、古賀のもとで土下座してまで頼み込みます。古賀はそれでも20歳まで手元に置きたいと未練を見せたものの、もはや都々子は限界だったのです。

かくして生きている人形、籠の中の鳥のようであった幼い歌姫は、やっと解放されたのでした。

彼女の3年間は、現代の観点からすれば児童虐待の日々でした。養父である古賀は、彼女にパーマをかけ、化粧やマニキュアをしました。

都々子が喜んでいればまだしも、彼女にとって苦痛でしかなかったのです。本来は明るい性格であった都々子ですが、、そんな彼女に大人たちに“泣きべそ声”を要求しました。本人からすれば辛いものでしかありませんでした。

菅原都々子の『月がとっても青いから』がドル箱になったテイチク。

南口はこう言いました。

 

「都々子だけは、首にしないでつなげておけよ」

なんとも気持ちが落ち込んでしまう、人をもの扱にするような言い草ですよね。

菅原都々子と古賀政男の関係は、戦前日本の歌謡界、社会にあった暗部を見せつけられるようなものです。

朝ドラ『エール』において、この関係が描かれるとは思いません。けれども、こうした事実を見なかったことにしてよいものかどうか。そこは考えねばならないのではないでしょうか。

古賀は自伝から、菅原都々子との関係を削除しました。このように自伝とは“信頼できない語り手”のものであることは、念頭においた方がよろしいかとは思います。

そしてここから先は、そのことが重要になります。

自伝と他の証言が食い違う時期は、菅原都々子にとって試練の時代とも重なります。

戦時歌謡曲の時代です。

自伝からは古賀なりの弁解が読みとれます。自分の歌は軟派であり、軍部の意向には沿えなかった――。

そんな自伝の記述も参照しつつ、日本歌謡界の“エール“の送り方を見ていきましょう。

『エール』の制作統括・土屋勝裕の言葉を公式サイトから引用します。これを踏まえた上で、ここから先をお読みください。

古関さんは、人にエールを送る“応援歌”を多く残しています。このドラマも、そんな“エール”になれればと思いました。

「エールってなんだろう?」と考えたとき、私は思いやりのことだと感じています。相手への思いやりがあって初めて、「頑張れ!」という言葉が、本当に届くエールになる。裕一はまさに、相手を理解し、共感し、思いやることで、初めてエールを送ることができるキャラクターです。

その思いやりが人を助ける。あるいは、誰かの思いやりで裕一が助けられる。ドラマを通じて視聴者の方々にもエールが届き、「今日も頑張ろう!」とか、「あの人を応援したい!」と思っていただけたらうれしいですね。

 

突然の方針変換 古賀に何があったのか?

昭和14年(1939年)、古賀は音楽親善大使として渡米しました。

満州の動向を契機にキナ臭くなっていく日米関係を取り持つため、ソフトパワーが模索されていた時代。

ニューヨークのNBCでは、全世界向け放送番組に『酒は涙か溜息か』等、8曲の古賀メロディーが登場しました。

15分にわたって流されたのですから、これは快挙と言えます。

南米大陸のアルゼンチンでも歓迎を受けました。この旅行では、音楽の知識も吸収できており、意義深いものではあったのです。とはいえ、それが明かされるのは戦後のことでした。

それでは戦前は?

古賀本人の言葉はこうでした。以下、仮名遣いはそのままとします。

「昨年、私はアメリカ大陸を音楽行脚して来たが、そこで何を学んだか? と問はれても、私は何も学ぶものはなかったと答へるより他はない。といふのは、私はアメリカからの帰途、船中で相生太夫の義太夫のレコードを聞いて、器然として、私はこれだ! と心の中で叫んだのである。殊に、あのサワリの妙味、あれこそほんたうの日本の唄であり、日本人の唄なのだ。日本人の心の唄なのだ。こんなに立派なものがあるのに、わざわざアメリカなどに勉強をしに行く必要がどこにあっただらう? 日本人は、もっと日本を見つめる必要はないだらうか? 日本の大衆が共感するものは、日本の中にある。外国に学びに行く前に、日本の中にあるものを、もっと学ぶ必要はないだらうか? と、私はしみじみ思った」

西洋音楽の巨人であった山田耕筰との交流。ジャズの要素を取り入れたモダニズム。そうした路線はどこへ消えてしまったのか?

あまりのことに、唖然としてしまうような発言です。

彼の曲への評価は、スティーブン・フォースター等と比較するものもあります。そういういわば“バタ臭さ(西洋流)”が持ち味ではなかったのでしょうか。

古賀に何があったのか?

そのことを考えるうえで、弟・治朗の存在は欠かせません。古賀は自伝で、アメリカ旅行から帰ってくると、弟が勝手に家を他人に渡してしまったと、何かをぼかして記載しています。

弟を兄である古賀は「現在の若い人たちから見ると一種の性格破綻者だが、当時はこのタイプの青年がけっこう多かった」と振り返っております。

その破綻の中身が重要なのです。

 

皇道世界政治研究所

治朗は明治大学柔道部に所属しており、六段の腕前でした。血気盛んで親分肌、豪傑肌と古賀は振り返っています。

金ができると盛大にばらまき、“あやしい仲間”を募っていたと古賀は思い返しているわけです。

とはいえ、いくらなんでも一大学生にそんなことができるわけもない。背後には兄からの金があったとしても、何の不思議もないところです。“あやしい仲間”にせよ、あまりに大物なのです。

大学生が社会を左右するフィクサーと知り合いだなんて、現代からすれば漫画かドラマの話のように思えますが、これが史実であるのが興味深いところです。

なにせこの治朗は「皇道世界政治研究所」という団体設立に深く関与しているのです。

皇道世界政治研究所とは?

責任提唱者:明大及び大東文化学院総長・鵜沢総明、陸軍大臣・林銑十郎、陸軍中将・中島今朝吾、外務省情報部長・白鳥敏夫、出版業者・藤沢親雄

目標:神・天皇を中心中軸として仰ぎ奉り、大東亜共栄圏、八紘一宇の完成を目指す

この弟の活動について、自伝で古賀の回想は歯切れが悪く、巻き込まれたようなスタンスを貫いてはおります。

ただ、大邸宅を弟が勝手にのっとったとは考えにくい。しかも、彼の交際範囲はこれほどまでに多彩であったのです。大作曲家の弟であればこそ実現できたのでしょう。

この治朗は、昭和18年(1943年)にビルマ戦線に送り込まれます。

大阪で演奏会を開いていた古賀が駆けつけると、酔い潰れたような弟の姿がありました。

このとき彼は割腹しており、腹に包帯を巻いて出征したのです。ビルマで戦死したとされていますが、兄としては傷が悪化して亡くなったのではないか……と回想しております。

 

どこか歯切れの悪い古賀の語り口であり、自伝からは困った弟と突き放す気持ちすら感じられます。

しかし実際のところ、古賀は弟の思想と完全に共鳴。

戦時中に発せらた彼の言葉を引いてみますと……(仮名遣いは原文ママ)。

「日本は神の国だ!」

「いたずらにセンチな歌は否定されるべきです。大衆の低俗なセンチメンタリズム追従した曲は邪道です」

「日本人は多種多様な生活様式をもっているから、まずそれを一元化して一つの指導精神をあたへなければならない」

「あちらの“ジャズ”はおそろしく野放途なんですね。けしていい傾向ではありません。ここで問題になるのは魂です。信念ですね」

「いまのメロディの検閲にしても、ドンドン行ってくれたほうがかへってよいとおもふ。ぼくなどは少なくとも歓迎しますね。一定の方向が指示されるわけだから、非常に作曲しいい」

「新体制下における流行歌手は先刻もいったように、日本人としての認識をふかめ、音楽的大和魂をもって向上をめざすんだね」

「大和魂がこのまま世界にのびるかというと、それは入れられない。大和魂に全世界をみつめる度量がなければ、ぜんぜん入れられないのであります。それはたんに戦争好きな国であってだめだ」

「日本のよいものは犠牲的精神、子は親のために兄弟のために働く。延(ひ)いては天皇陛下のために働く。この犠牲的精神こそ人類の誇るべき宗教だ。この尊い宗教を日本人はぜんぶもっている。これを(アメリカの)新聞記者をあつめて吹く。いまにこの大和ダマシヒは世界に君臨する」

「これから日本の音楽家は日本内地のみとの狭い考えをすてなければならない。すでにわれらの同胞には(朝鮮)半島あり、台湾あり、また満州、支那あり、南洋あり広く五族も六族も飽和してかつこれをリードするべく使命を課せられている」

「日本はいま東亜共栄圏の確保を目ざして、世界に君臨せんとするときにあたって、日本精神の発揚がとなえられている。われわれ音楽家のすべてがこれに邁進するになんの躊躇もない。ただ曲をつけるとき日本の言葉を理解しておかねばならない」

「向ふでよく『あんな弱いシナをいぢめるのはおまえたち悪いじゃないか』とくる。それはシナ人が分からないのだ。戦争はしているけれどもその良民には日本から米を運んで食べさせているじゃないか。お前たちは本当にシナの人民の生活を知らないのだ。とにかく何も知らない無知蒙昧な人間だ。日本とは教育の程度がちがう。手を握って行かうといふのにさうしないから一つ擲(なぐ)らなければならぬ。決してシナをにくんで戦争しているのじゃない。人類の崇高なものは犠牲的な精神だ」

兄弟で思想が一致していても、全く不思議がないとよくわかります。

 

『そうだ その意気』を発表

実のところ古賀にとって、当時の国威発揚は好都合なところもありました。彼には、山田耕筰のように専門の音楽教育を受けられなかった劣等感があったのです。

それが爆発し、純粋な日本の歌謡を創造してこそ頂点に立てるのだと思っていた感が伝わってきます。結果、クラシックは所詮ものまねだと罵倒し、ジャズは野放図だと決めつけるようになるのでした。

古賀は実力のある作曲家ですので、こうした思いは当然のことながら、“エール”となります。

その発露が「国民総意の歌」でした。

真珠湾攻撃が行われる昭和16年(1941年)、読売新聞社主催により、古賀が審査員を務める「国民総意の歌」の公募が行われたのです。

しかし古賀は全て選外とし、自らが作曲し、盟友・西条八十が作詞した『そうだ その意気』を発表するのでした。

 

歌った中には、李香蘭もおりました。

山口淑子という本名を持つこの女性歌手は、満洲国の「五族共和」の象徴として、スターの座にのぼってゆくのです。

石原莞爾や甘粕正彦らと共通する思想をバネにして、当時の古賀は作曲し、指揮棒をふるい、歌手を歌わせ、出征する兵士の背中に“エール”を送っていたのです。

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台湾原住民アミ族出身の高砂義勇隊員中村輝夫(スニヨン、漢名・李光輝)は、終戦後の昭和43年(1968年)までインドネシア・モロタイ島に潜伏しており、発見時は大ニュースとなりました。

終戦後も彼は三八式歩兵銃の手入れを怠らず、古賀が作曲した歌を口ずさんでいたのです。

まさに古賀メロディーは、こうした「五族共和」に対する“エール”の象徴でもありました。

古賀の手掛けた軍歌は、実に数多く存在します。戦時中にテイチクからコロムビアに移籍していますが、作風に変化はありません。

『出征ぶし』
『動員令』
『殉死爆弾二将校』
『恨みは深し通州城』
『勇敢なる航空兵』
『軍国ざくら』
『血染めの戦闘帽』
『上海凱旋歌』
『上海血戦譜』
『戦士の道』
『白衣の勇士に贈る』
『総進軍の鐘は鳴る』
『打倒米英』
『陥したぞシンガポール』
『一億体当りの歌』

中でも際立っていたのは、兵士を見送る母の思いを歌うものです。

古賀と、藤山一郎には音楽だけではない共通点もありました。子が母を思う気持ちは悪いものではないようで、状況次第でしょう。

最悪の状況で発揮されたものの代表例として、出征兵士の母の気持ちを代弁した歌があげられると思えてくるのです。

昭和12年(1937年)、鹿児島から飛び立った山内達雄中尉は、帰らぬ人となりました。

彼の母・ヤスは東京帝国大学を出ており、我が子の死を『忠烈行』として漢詩に残すほどの教養がありました。

そんな彼女は、海軍省人事局に手紙を送り、その一部は新聞の見出しを飾りました。

「あれよ、あの機 永遠に生く」

この美談を歌にした『山内中尉の歌』を作曲したのが古賀政男、歌い上げたのが藤山一郎でした。

藤山は演奏旅行の際に、長崎でヤスに面会します。海軍からの花輪に飾られた遺影の前で、藤山は歌い上げるのでした。

 

ヤスは頭を下げ、感極まった様子でこう語ったのでした。

「なんという、あなた様の芸術はすばらしいものでございましょう。全くお国の宝でございます。なにとぞその立派なお宝を大切になさいますよう。ある場合は軍人の号令以上に人を動かすのは音楽でございます。せがれが軍人としてご奉公申し上げたのも、あなた様が音楽でご奉公なさいますのも、お国に尽す道はひとつでございます。何とぞ、ご精進下さいますよう。あなた様のただ今の歌のレコードは毎日聞いております。あれを聞いておりますと、達雄と話しているような気が致します……」

歌とは軍需品です。確かに彼女が言うように、軍の号令以上に人の心を動かすのです。この人の心の中には、母のものや周囲のものもありました。

 

軍歌の帝王に君臨したのはエールの古関

かくしてヤスのような教養ある帝国の母の姿が、国民の手本となってゆきます。

古賀の手掛けた『軍国の母』は、その集大成を見るような一曲です。

 

かくして古賀メロディーが響く中、我が子の出征や戦死を嘆く母は「軟弱な非国民め!」と足蹴にされるような世の中へ向かってゆく。

そういう世界へと“エール”を送った歌謡の罪を、軽視してよいものでしょうか。

もちろん、こうした状況は古賀政男一人のものでもありません。

歌謡界全体が同じような状況です。

軍服を身につけ、軍刀を手にして、皇紀2600年を祝う『神風』を作曲した山田耕筰。

海軍軍楽隊出身であった古賀のライバル・江口夜詩は『月月火水木金金』を作曲しました。

 

そんな中、軍歌の帝王ともいうべき地位に君臨していたのは、古賀と江口にとっては後輩にあたる古関裕而でした。

それまでスランプもあった古関ですが、『露営の歌』以来、頂点に立った感があったのです。

古関は福島の呉服商の子であり、商業高校しか出ていません。専門の音楽教育を受けていないという点では、古賀に通じるものがありました。専門教育を受けぬ作曲家がエリートを追い抜きかけない、そんな皮肉な下剋上が軍歌の世界で起きていたとも言えたのです。

言論の自由がなく、逆らえば命すら奪われかけない厳しい時代です。

自伝で古賀はこう総括しています。

「歌謡曲の世界にも戦争讃美者がいた。軍部や官憲の鼻息をうかがって、かつての仲間の追放に協力した卑劣なオポチュニストもいた。私は戦争にはほとんど協力しなかったが、すべては悪夢だったのだ。あの生きることの困難な時代を、せめて無事にながらえたことを喜ばねばならないと思った」

ただ、これも苦しい言い訳としか思えない。苦しい弁解を、ここでちょっとまとめてみますと……。

・古関裕而ほど協力していない。

→数を見ればそうなりますが、内容的には五十歩百歩ではないでしょうか。

・『そうだ その心意気』を、ある軍人が「軟弱だ。戦意を高めるどころか、なんだか悲しくなるじゃないか」と言った。

→本気で軍部がそう思っているのであれば、あれほど多くの曲は依頼されなかったはずです。

・戦後自宅まで在日朝鮮人が訪ねてきて「日本名を名乗っているが、実は同胞ではないのか」と語りかけてきた。

→朝鮮半島の人々からそこまで好かれていると言いたいのかもしれませんが、それほどまでに当時は朝鮮半島出身者が名乗り出られなかったということです。彼自身が朝鮮半島に住んでいたことも、もちろん影響しています。戦後、古賀は韓国の歌謡界とも交流しておりますが、それはそれ、これはこれです。

・戦時中はみんなそんなものだった。

→古賀政男、古関裕而、江口夜詩、山田耕筰、西条八十、藤山一郎……錚々たる面々が音楽で戦争協力したことは確かです。

それはそうなのですが、ここで一人の音楽関係者をあげてみましょう。

 

淡谷のり子「私を殺して戦争に勝てるなら、どうぞ」

古賀の三歳下、明治40年(1907年)生まれのの女性歌手・淡谷のり子です。

彼女は慰問先の戦地で、『雨のブルース』を歌いました。

 

戦意を昂揚させない退廃的な曲として、昭和17年(1942年)には販売禁止とされていたものです。

このジャズの影響を受けたしっとりとしたメロディを、彼女その美声で歌い上げます。兵士たちがその曲を望んだからのことでした。

彼女がしっとりと歌いだすと、演芸係の将校が姿を消してゆきます。

他の将校は身を隠しつつも、じっと聞いているのでした。

舶来ものの香水、華麗な黒いドレス、つけまつ毛をした目、濃い化粧。その服装の時点で、彼女は軍部にとって苦々しい存在でした。

コンサート会場で、その服はなんだと軍刀を突きつけられ、彼女はこう返したことがあります。

「このドレスは私の軍服です」

怒り狂った軍人から、こうすごまれたこともありました。

「殺すぞッ!」

「私を殺して戦争に勝てるなら、どうぞ」

淡谷のり子はこう返したのでした。

軍歌を拒否して好きな歌を歌い上げることすら、命がけであった戦争中。それでも、彼女のような歌手がいたことを忘れてはいけません。

 

作曲家たちの戦争責任は?

戦争が終わると、協力した音楽関係者は狼狽します。

古関裕而は、米軍兵が自分を探していることを聞き、命の危険すら感じました。西条八十も、もはやこれまでかと覚悟していました。

このコンビの曲『比島決戦の歌』にはミニッツとマッカーサーを罵る歌詞があったのです。

戦後まもなくの昭和20年(1945年)、音楽評論家の山根銀二から戦争犯罪責任を追及された山田耕筰。これに対して「果して誰が戦争犯罪人か」を書いて反論したのです。

戦争が悪化してくると、古賀は山梨県河口村に疎開していました。

ある日、村役場の職員が慌てて駆け込んできます。米兵が古賀を探しているというのです。戦争犯罪人として巣鴨プリズンに入れられるのかと焦っていたところ、米兵は彼に握手を求めてきました。

「ミスター・コガ!」

古賀メロディーを愛していて、日本映画でもその音楽を聞いてきた、日本語上達もあなたのおかげだと、缶詰まで届けてくれたのです。

この逸話を語り、古賀は自分は戦争に協力していないからこそ、米兵も好意的であったとアリバイにしてはいるのですが……それも苦しい言い訳としか思えません。

米兵個人の寛大さを示す話であり、古賀に戦争責任がないということではないでしょう。

2017年朝の連続テレビ小説『ひよっこ』には、ヒロインみね子には叔父の宗男がおりました。

彼はビートルズ来日に浮かれ騒ぎ、なんとしても聞きたいと熱望して、みね子たちを驚かせます。

 

古関裕而は宗男が死戦を彷徨ったインパールを慰問し、あの無謀な作戦を招いた牟田口廉也と牛肉を食べていました。

そして古賀は、宗男のような兵士の背中に“エール”を送り続けていたのです。

宗男のような元兵士が、日本の歌謡ではなくイギリスのビートルズを求めたとしても、無理のないところかもしれません。

宗男と同年代の大正末期、昭和初期生まれの世代では、一銭五厘(戦時中の葉書の送料。召集令状=赤紙一枚で命を捨てさせられたことを皮肉ってこう呼んだ)で自分たちを戦地へ駆り出した明治生まれのへの不信感が漂っていました。

歌謡界もこうした目から逃れられません。

戦地へ赴く兵士へ音楽でエールを送っておきながら、その反省をするどころか言い逃れをして、大御所として存在し、偉そうな顔をしている。

そんな姿に不信感を感じていても、無理のないところなのです。古賀の自伝では言い逃れが目立つのは、確かなことです。

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敗戦でうち沈んだ日本人の心に、歌謡曲はともしびとなった――。

一時は引退を決意するものの、作曲を再開した理由として、古賀は自伝にこう記しています。

ただ、これも当時の現実を見ていけば、随分と美化してあると言えるわけです。

一時引退というのも、GHQの目を恐れていたことを思えば当然。古賀のような歌謡界の大物たち、文化人たちは、戦時協力で裁かれるのではないかと怯えながら生きていたのです。

それに生活ということもあります。生きていかねばならないのです。

 

古賀メロディーを歌っている限り……

西条八十作詞、古賀政男作曲の歌がまだもヒットするようになりました。戦後日本の歌謡界とは、新しい酒を古い革袋に入れるような状態でした。

古賀の後進世代は、戦争で亡くなった者も多かったことでしょう。

昭和22年(1947年)には「古賀プロダクション」設立。

昭和23年(1948年)、『湯の町エレジー』がヒットを飛ばします。

 

昭和25年(1950年)には、ハワイに養子二人を連れて旅行へ赴いています。

翌年にはブラジルに行き、引き裂かれた日系移民の姿を見ています。

日系移民たちは、日本が戦争に勝ったか負けたかで論争を引き起こし、おそろしい事態を引き起こしていたのでした。

「日本人らしさを強制する親世代についていけない」

そんな二世の悩みを聞いたという古賀。自伝の書き方からは、彼自身が日本人の生き方である大和魂を歌で国民に植えつけてきたという贖罪の念は、あまり感じられません。

昭和34年(1959年)、日本作曲家協会が生まれると、古賀は会長に選出されました。

この協会は「レコード大賞」を創設しています。

東京オリンピックのために『東京五輪音頭』を作曲したのは昭和39年(1964年)のこと。古関裕而は東京オリンピックマーチを作曲しています。

このオリンピックを見ていて、戦争経験者の中にはゾッとするような既視感を覚えた人もいたと回想されていますが、兵士へエールを送った作曲者が歌を作っているという要素も関係しているのかもしれません。

 

そんな昭和30年代、古賀メロディーを歌い一世を風靡した女性歌手がいました。

美空ひばりです。

古賀はかつて菅原都々子という少女歌手を求め、そして破局に至りました。

しかし、幸いにも美空ひばりとはそうはなりません。彼女こそ、戦後の古賀メロディー再出発になくてはならない存在でした。古賀メロディーは昭和を牽引する彼女のような歌手にも歌われたのです。

 

上り調子の日本にも、古賀メロディーは響いていたのです。

昭和43年(1968年)には、紫綬褒章受賞を果たしました。

晩年の古賀は、信仰にのめり込んでいました。

大邸宅の部屋、廊下の隅々まで観音像を祀り、灯明をともして一日中歩いていたというのです。

庭には観音堂すらありました。彼なりの孤独か、贖罪か。今となっては知るよしもありません。

そして昭和53年(1978年)に死去。享年73。

没後、第2回国民栄誉賞に選ばれます。まさしく、作曲家の頂点に立った人生でした。

ただし、彼はこう語り残しています。

古賀メロディーを歌っている限り、日本人はハッピーになれない――。

複雑な悲哀を抱えた大作曲家ではあったようです。そんな古賀政男の人物をどう描くのか。『エール』に期待しましょう。

最後に、かの淡谷のり子が述べた、昭和歌謡界に対する言葉を引用します。

軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。情けなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。私は美空ひばりは大嫌い。人のモノマネして出て来たのよ。戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。

淡谷のり子は美空ひばりを評価しないものの、助言はしておりました。

後輩への嫉妬のようで、戦時中の彼女の態度や美空ひばりの背後に古賀政男がいることを踏まえれば、納得できるものではあります。

戦後歌謡界には、あの戦争の影が落ちている――淡谷のり子は、そのことが許せなかったのかもしれません。

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文:小檜山青

【参考文献】
古賀政男『古賀政男 歌はわが友わが心』(→amazon
佐高信『酒は涙かため息か 古賀政男の人生とメロディ』(→amazon
菊池清麿『評伝 古賀政男』(→amazon
館野アキラ『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』(→amazon
『阿久悠のいた時代:戦後歌謡曲史』(→amazon
辻田真佐憲『古関裕而の昭和史: 国民を背負った作曲家』(→amazon
早川タダノリ『「日本スゴイ」のディストピア: 戦時下自画自賛の系譜』(→amazon

 



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