明治の近代化は、ほとんど彼の構想を模倣したに過ぎない――大隈重信はそう語りました。
司馬遼太郎は、彼のことを「明治の父」と呼びました。
木戸孝允は、幕府の改革を目の当たりにし、徳川慶喜のことを「家康公の再来か」と感嘆しました。
しかし、これは差し引いて考える必要があります。慶喜は江戸に身を置くことはなく、京都での政治を動かす立場に過ぎません。関東における近代化は有能な幕臣たちが立案、実行したものでした。
明治新政府は、この関東の近代化を無視できてはおりません。明治維新後、江戸は薩長への反発がくすぶっています。
そうした事情もあってか、大久保利通は首都を関東ではなく、関西の大阪に遷都する計画を立てていました。
しかし、江戸は既に近代都市への一歩を踏み出しており、それを活かす方が効率的。新時代へ踏み出したにも関わらず、日本の首都は江戸改め東京となり、今日に至るまで続いています。
では、そんな江戸の近代化を進めたのは誰なのか?
筆頭にいたのが、2027年大河ドラマ『逆賊の幕臣』主役である小栗忠順(おぐりただまさ)でした。
常人には無い慧眼でもって日本の未来を描いていながら、慶応4年(1868年)閏4月6日、いわれなき冤罪により処刑されてしまった悲運の幕臣なのです。
果たして小栗とは一体どんな人物だったのか?

左から村垣範正、新見正興と共に写る小栗忠順(右)/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
文武の才あれど頑固で風変わりな旗本
文政10年(1827年)。
安祥譜代(あんじょうふだい・松平氏以来の家臣)禄高2千5百石の小栗家に、男児が生まれました。
神田駿河台にて生を受けたこの子は剛太郎(以降、忠順)。忠高と邦子夫妻にとって、夭折せずに育った一人の子となりました。
父の忠高は小栗家に末期養子として入っており、同家一人娘である邦子の成長を待って結婚していました。
同年に生まれた人物には、西郷隆盛、山内容堂、河井継之助がいます。

西郷隆盛/wikipediaより引用
そんな家に生まれた小栗忠順は、武士らしく文武の習得を始めます。
7歳からは安積艮斎の私塾「見山楼」で漢籍を習いました。ここでははぼーっとしていて、そこまで賢そうには見えなかったと伝わります。
剣術は島田虎之助の直心影流。
柔術は久保田助太郎。
砲術は田付主計。
幼いころから際立っていたのはいじっぱりな性格で、強固な意思で友達を顎で使い回す姿。そんな性格であるためか、周りと喧嘩になることが多いものでした。
そんな彼はいつしか「頑童」と噂されるようになりました。自分とは話にならないと判断した相手には、とにかく冷淡でもありました。
のちに勝海舟は、彼を評して「生粋の三河武士で、了見が狭い」と語っています。頑固で何かに夢中になると視野が狭くなるところがあったのでしょう。
忠順は14歳の頃になると、風変わりなところがますます目立ってきます。
12、13ともなると早くも喫煙を覚えました。煙管でタバコをふかし、盆を叩く様子はひどく大人びていたとか。
目上の大人相手に一歩も引かず「フン、フン」と相槌を打つ。この生意気な少年は一体どうなるのか? 周りはそう噂するばかり。
賢いといえばそうだが、どうにも理屈ぽくてかなわん。あいつはなんだ、天狗か? 狂人か? 冷腸漢(風情を理解しない男)か?
そうした証拠や証言が残されています。
忠順はやたらと細かく、当時の暮らしぶりがわかるほどの家計簿をつけていましたが、反面、情緒的な文章は残さず。ゆえに彼の事績を辿るためには、周囲の証言が重要となってきます。
例えば、花見に行ったとき。
花にも美人にも目もくれず、気にするのは水利や川の堤防のことばかりで、周囲の人たちもうんざり。
詩を詠むわけでもない。酒にも興味がない。書画に興味があるのかないのかもわからない。骨董品にも興味を示さないくせに、名人が描きあげたものは価値を納得して買い求めてゆく。
武術については剣、馬、弓のみならず、砲術の重要性を理解して習い、航海術や造船にも興味津々でした。
こうした技術を学ぶうちに、黒船来航よりもはるか前に、結城啓之助との対話を経て「開国論」にまで到達するほどだったのです。
「本多上野介に吉良上野介」「関係ないね」
天保14年(1843年)。
小栗忠順は17歳で登城を果たしました。

江戸城/wikipediaより引用
あまりにズケズケとした物言いだけに、反発を買って左遷されることはあったものの、突出した才能があるため、飛ばされては復職を果たすことを繰り返しました。
嘉永2年(1849年)には、林田藩前藩主・建部政醇の娘である道子と結婚しています。
彼は目の前で見たことにより判断を下し、理論を信じていました。そして迷信の類を嫌っていました。
例えば「上野介」を名乗るようになったとき、周囲はこう言います。
「上野介ねえ。本多上野介(本多正純)に吉良上野介(吉良義央)だろ。縁起が良くないなぁ」
「なァに、名前で人が変わるものかよ」
忠順の本質は、幼少期から完成していたのでしょう。
理屈ぽく、その見通しは当たる。一方で、頑固で世渡りが下手なため衝突してしまう。
そして迎えた嘉永6年(1853年)。
ペリーが来航。激動の時代が訪れました。

ペリー来航/wikipediaより引用
2年後の安政2年(1855年)、父が病死すると29歳で小栗家を相続します。
安政4年(1857年)に御使番、安政6年(1859年)には本丸御目付となり、その十日後には遣米施設目付任じられました。
かくして小栗忠順は世に出たのです。
井伊直弼に抜擢され、アメリカへ
ペリー来航後、幕政は騒然とします。
安政5年(1858年)、幕臣・岩瀬忠震とハリスが交渉し、締結された【日米修好通商条約】の中には、日本側の使節がワシントンで条約書を交換するという条件がありました。

岩瀬忠震/wikipediaより引用
そのため幕府は遣米使節を編成するのですが、ただでさえ課題山積みの中、幕閣内では政治闘争が起きており、人選は難航します。外国奉行を使節のトップに据えるにせよ、これが揉めました。
このとき任命権限を有していたのは大老・井伊直弼。
このとき、堀田正睦、岩瀬忠震、水野忠徳らは政治闘争等問題により任命されず、若干小粒の人事となりました。
正使・新見正興は明治になるとすぐに命を終えています。副使・村垣範正は器不足で「岩瀬忠震が副使であれば」と囁かれていました。
正使・副使・監察は「三使」とされ、使節団のトップにいます。そのうち2名が代打の上に頼りないというのは困りもの。となると、監察がいかに重大かわかろうものです。
この使節派遣において、井伊はある問題を精査したいと考えていました。
アメリカへ日本の小判がむやみに持ち出されている。
ドルの価値を見定めねばならぬ。
それができるほど経済に通じている適任者は誰か?
これを解決できる逸材、「監察」として、白羽の矢が立たったのが、他ならぬ小栗忠順――かくして77名の使節団第三位にその名が加えられたのです。
かくして忠順は「三使」が乗船するポーハタン号に、忠順は遣米使節目付、三使末席「監察」として乗り込みました。

ポーハタン号/wikipediaより引用
この「監察」がなぜか「スパイ」と英訳されてしまい、自らスパイ名乗るとは何ごとか?と懸念されたとか。
ただ、迎えるアメリカ側としても、使節団の中で小栗上野介こそもっとも油断ならぬ知性を備えた人物として認識されていたのです。
それだけ際立っていたのでしょう。現在でもWikipedia英語版はじめ、小栗忠順は“Oguri Kozukenosuke”表記が一番通じるようです。
そしてここでは歴史の知識アップデートも必要となります。
この使節の主役はあくまでポーハタン号に乗り込んだ「三使」です。
しかしかつては教科書や日本史の授業ですら、荷物輸送のために随行した予備の咸臨丸をメインであるかのように扱うことすらありました。
これは咸臨丸に勝海舟と福沢諭吉という、筆と弁が立ち、明治以降発言力が高い二人が乗り込んでいたことが大きい。
勝が大々的に抜擢されたといえるのは、この咸臨丸が日本に戻ってからのこと。『逆賊の幕臣』PRにおいても「小栗は勝のライバル」とされるものの、遣米使節派遣時は小栗が圧倒的上位で実は比較になっておりません。
ポーハタン号にいた「三使」が明治以降、語る機会がなかったことも問題です。三名のうち二名は明治になった前後に亡くなり、残った一人も活躍したとは言い難い余生です。
この理不尽な状況は修正され、今はポーハタン号こそメインであったと認知されつつあるものの、あくまで授業の範囲か、幕末好きでも幕臣好みの間だけのことかもしれません。
『逆賊の幕臣』でこの認識が修正されるとすれば、実に大きな意義があるのです。
二ヶ月の船旅ではひどい船酔いに悩まされ、皆顔面蒼白となりつつ、ハワイを経由し、アメリカへ向かってゆきました。
3月18日、サンフランシスコに到着すると、汽車に乗りました。このとき忠順と思われる日本人が質問をしていたことが記録されています。
「建設費はどれほどかかりましたか?」
「建設資金はどのように調達したのですか?」
ペリー来航時から、船の構造を探る奴がいる。アメリカでは汽車の建設費用を聞いてくる奴がいる……そんな好奇心がそこにはあります。幕臣たちは保守的で消極的だったわけではありません。
一行がワシントンに着くと、好奇心旺盛な人々の目線が待っていました。
「あれが男? なんだか女みたいだなぁ」
「あの刀はなんだ? なんで二本も差しているんだろう?」
「あの剃った頭はいったいなんなんだろう?」
「ダボっとしたズボンだねえ。あの上着は肉屋っぽい。サンダルはなんだろう?」
大興奮で歓迎の声が巻き起こりました。
最年少17歳の立石斧次郎は、愛くるしい見た目と明るいのある性格ゆえ、アイドルになったほど。
「トミー・ポルカ」という歌まで作られ、全米からプレゼントや手紙が届いたとか。アメリカ人はわざわざ汽車で旅をして日本人見物にまで出向いてきたものですが、女性たちの目は“トミー”に釘付けでした。
忠順は調子に乗りすぎた彼を注意したこともあったそうです。
トミーの人気はアイドルとしてのものですが、幕府が送り出した三使(正史・副使・補佐)は政治的な意味で注目の的です。
『ニューヨーク・ヘラルド』は、忠順のことをこう記しました。
「活気と知性、威厳、意思力があり、使節団の中でも最も油断ならぬ人物である」
彼はアメリカの目から見ても、只者ではなかったのです。
そんな忠順の好奇心は、海軍製鉄所で見た製鉄に最も惹きつけられました。

ワシントン海軍工廠を視察する使節団(前列右から二番目が小栗忠順)/wikipediaより引用
木材や竹に頼った日本は火災に弱い。鉄が貴重で、火災の後は焼け跡から鉄を拾って使い直す。
砂鉄をたたらで生産する日本と、鉄鉱石を高炉で溶かす製鉄ではまるでちがう。
どうすれば日本でも大量製鉄ができるようになるのか?
そのことを痛感させられたのです。
忠徳はこの時代らしく、日本を「神州」、外国人を「夷狄」と呼び、敵対心を募らせていました。しかしアメリカからの帰国後、そんな考えはすっかり消え去り、どうすれば追いつけるのか、日夜頭を悩ませることになるのでした。
そしてこのとき忠順が持ち帰った“ネジ”こそが、日本近代化の象徴とされ、現在も群馬県高崎市東善寺に保管されています。
『青天を衝け』では、このネジを舌の上に載せた状態で忠順が斬首されましたが、あの状態では現物が残りにくいことでしょう。
しかも不運なことに、あの場面が印象的で誤解も広まっているようで、2027年『逆賊の幕臣』で解かれることを願ってやみません。
通貨交換レートを分析し、金流出を防ぐ
もちろん井伊直弼から託された自分の役目も忘れません。
小栗忠順はフィラデルフィアで造幣局へ向かいました。アメリカ側は見学だけだろうと思っていましたが……。
「日米の貨幣価値を調べるため、金貨の成分を知りたい」
アメリカ側は焦りました。
今まで貨幣価値の不平等をつき、圧倒的に有利な取引をしてきたのに、それがついに暴かれてしまうのです。
「お時間がかかりますが……」
「それでも分析結果をいただきたい」
忠順は食事を造幣局まで持ち込み、粘りました。この忍耐強さにはアメリカ側も驚くほかありません。
日本側はこの調査結果をもとに、アメリカ側に貨幣交換比の是正を求めます。
しかし、交渉はアメリカ側に拒絶され、実りませんでした。そこで日本側は使節団帰国後、対策を取ることにします。
金の含有量を三分の一にまで減らした「万延小判」を発行したのです。

万延小判/wikipediaより引用
忠順の毅然とした態度、計算スピード、正確な見解は、アメリカを敬服させました。
要は、通貨交換レートに不当な差があると認めさせたのですね。
忠順の目的も終えた帰り道、一行は太平洋横断で帰国しようとしますが、ポーハタン号の修理に時間がかかりすぎる。
仕方なくナイアガラ号で大西洋を横断することとなり、結果、彼らは日本人初の世界一周体験者となりました。
この旅行で、彼らは世界の姿を見ました。
船酔いに苦しむ日本人を親切に助けてくれる親切なアメリカの水兵。
水夫の葬儀に上官が参加する身分のなさ。
選挙で選ばれる大統領。
阿片戦争に敗れ、支配されつつある清。
奴隷を使役する西洋諸国の人々。
当時の日本人には誰もなし得ない見聞を広め、そして帰国の途についたのです。
外交と経済通として活躍
帰国すると、日本はおそろしいことになっておりました。
徳川斉昭が【戊午の密勅】で朝廷を政治に引き摺り込んで幕政を乱し、【将軍継嗣問題】で失脚者が相次いでいました。

徳川斉昭/wikipediaより引用
使節が帰国する8ヶ月前、小栗忠順を抜擢した井伊直弼は【桜田門外の変】で殺害。
志士による尊王攘夷テロの嵐が吹き荒れています。
攘夷を唱えなければ武士ではない――そう藩士たちが訴えるため、大名の中にも攘夷を唱える者が出てくる有様。
期待を込めてアメリカに渡った一団は、攘夷派から真っ先に狙われかねない厄介者と化してしまったのです。
アメリカで仕入れた知識を語ったら、軽蔑されるどころか、殺されかねない。そんな恐ろしい状況の中、忠順は明晰な頭脳ゆえに抜擢され続けます。
「外国奉行」としての交渉役が役割となったのです。
忠順の政治外交姿勢は、井伊直弼路線でした。
もしも井伊直弼が生きていたらどうなっていたのか?
それは忠順の言動を辿れば把握できます。
忠順は、幕府と朝廷が共に政治を進める【公武合体】に批判的でした。
互いを干渉させない方がことはスムーズに進む。その点を重視していたのですが、この考え方は的中します。朝廷とりわけ孝明天皇を幕政に干渉させたため、幕府の権威は失墜し、倒幕へ繋がってゆきます。

孝明天皇(1902年 小山正太郎筆)/wikipediaより引用
そんな忠順の強硬な方針は、対馬対策が典型的です。
文久元年(1861年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生しました。ここで忠順は奇策を考えます。
対馬のような小さな藩では、外国に対応できない。むしろ開港したうえで幕府直轄領とする。場合によっては英国海軍の助力を得てはどうか?
忠順の発想には、三すくみと呼べる状態があります。
対立軸が日・英・露となればかえって膠着してよいのではないか? そんな柔軟な発想であり、後に日露戦争へと続いてゆく3カ国の関係を踏まえれば慧眼でしょう。
しかし、あまりに優れた策はかえって理解が得られ難いものです。
忠順は幕府から函館在留ロシア領事ゴシュケビッチとの交渉を命じられますが、病気だとして断りました。権限からしてゴシュケビッチと交渉をしても無駄だとわかっていたのです。
そして外国奉行の職も辞してしまいます。
幕府としては、その明晰な頭脳が惜しい。ために、その後も何らかの奉行に任じ、辞任、また別の役職に就く……そんなやりとりを幾度も繰り返しました。
幕府が混乱していたこともあるのでしょうが、忠順は全く空気を読まないマイペースな性格であったのでしょう。
『逆賊の幕臣』では、松坂桃李さんが演じる小栗忠順。
実際の彼はイケメンというよりも、個性的でした。額が広く色黒、あばたが残り、目つきが鋭いため、悪役めいた印象を与えてしまっていたとか。
幼児が彼をみただけで泣き出したこともあれば「芝居の高師直のようだ」と評されたこともあったとか。罷免される時の忠順は、ふてぶてしい顔をしていて悪党のように見えてもおかしくはありません。
演技力の高い松坂さんは、ダークヒーローを演じることも長けています。期待して待ちましょう。
忠順は自分の意見を強硬に主張するため上司と衝突してしまい、ぶつかれば辞めてしまうのです。
「また小栗様がお役替えだってよ」
「七十回を超えたって聞いているぜェ……」
江戸っ子がそう噂するほどでした。
造船所のネジから始まる日本の近代化
そんな小栗忠順には「成し遂げるべき」だと考える事業がありました。
造船所です。
当時、国防を意識する日本では軍艦製造議論が沸騰。ここで意見が分かれます。
軍艦を購入すべきか?
それとも自前で作るべきか?
藩によっては工業や軍艦製造に着手はしておりました。薩摩藩の【集成館事業】が代表例です。
しかし、藩によって重点の置き方が異なり、水戸藩・徳川斉昭の場合、【廃仏毀釈】の前身ともいえる寺社仏閣弾圧の口実として造船をしたためか、使い物になっておりません。
そうした藩ごとの対処ではなく、幕府主導ですべきである。買うだけではなく、作らねばならぬ。それが忠順の信念でした。
外国から船を買っても修理できねばそれで終わるが、造船所があれば修理はできる――理にかなった考え方ですね。
では、どこから援助を受ければよいか?
オランダは大国ではない。イギリスは信頼できない。ロシアは南下を狙っているようで油断ならない。アメリカは南北戦争で大変な状態だ。
そんな中、忠順と親しい幕臣の栗本鋤雲が、フランス人のメルメ・カションと語学を教えあって交流し、ロッシュとまで交際するようになっていました。
幕府は消去法と栗本鋤雲の人脈もふまえ総合的に判断し、フランスを選んだのです。

メルメ・カション(左)と栗本鋤雲/wikipediaより引用
かくして幕府は、忠順のビジョンとフランス指導のもと、造船と製鉄に乗り出してゆきます。
小栗忠順が持ち帰った一本のネジから、日本の近代化は始まった――その通りです。
忠順の手がけた造船所は、それまでの水力ではなく蒸気機関を利用したものでした。
フランス人技師ヴェルニーの指導を受けた製鉄所では,フランス語の授業も含め、給与を払いながら技術を学べるシステムが採用されました。
造船所のために産業を興し、製鉄のために鉱山を開発する。大砲や武器を作る。
そこには国を新しくするビジョンが明確にあったのです。
同時に軍事制度も変えられてゆきます。
どの国を模範とすべきか? そんな議論があったものの、栗本鋤雲の推進もありフランス式に決定。
しかしその影で暗躍していたのがイギリスでした。
南北戦争が終結し、余った武器を売りたいグラバーが薩摩に接近していたのです。
金がない! ならばどうする?
鉄や造船などの重工業。こうした国家事業を展開するのに必要なのが資金です。
小栗忠順の口癖はこうでした。
「カネが足りない……」
徳川幕府が取った政治体制を【鎖国】とは誤解を招くとされます。今では「いわゆる【鎖国】」といった言い方がなされます。
しかし、日本のみならず当時の東アジアが海禁政策を取り、貿易にそこまで熱心でなかったことは確かです。
【産業革命】が起きた西洋と水を開けられてしまいます。田沼意次以降、開国を目指したものの、実現できなかったことは確かです。
それでも奮闘する忠政に、盟友たる栗本鋤雲はこう言いました。
「しかしどこから金を捻り出す? もう、徳川は持たんのではないか」
すると忠順はこう返します。
「もう火の車だなんてこた、改めて言われんでもわかっちゃいる。だが、徳川がいざ身売りするとなったとしても、これだけの施設があれば、土蔵付きの売家を残した威張れるだろうさ。どのみち金がない、やらなかったからといって余裕ができるわけでもない。ほんとうに必要なところに金を費やすといえば、余計な出費を抑えられるかもしれんだろう」
徳川が早晩終わることは目に見えている。しかし、この国は終わらない。ならば近代化を進めておいてやろう。そう割り切っていたのです。
己一人の巧利ではなく、天下国家を見据えた彼の器の大きさが窺える言葉です。
彼はそこで諦めることはせず、金を生み出し、経済を回す方法を考えます。
そうして考案されたプロジェクトが税制改革や生糸貿易、鉱山開発など。
生糸は当時の西洋列強からすれば、垂涎ものの輸出品。
シルクドレスが広まる中、欠かせぬものとして需要が右肩上がりであったにも関わらず、清は輸出に消極的だった。中でもフランスは、伝染病の蔓延により、養蚕業が壊滅的な打撃を受けておりました。
上質な生糸獲得を模索していたところ、日本を見出したのです。
さらに慶応3年(1867年)、忠順は兵庫開港を前提として、日本でも株式会社(コムペニー)の設立を提議します。
「兵庫商社」という名称で、商人の資本を集めて外国と対抗し、貿易の不利を解決するのが狙いでした。
当時の江戸では、日本初となる洋式の築地ホテル工事も最終盤にありました。
手掛けたのは清水喜助。大工の清水屋二代目棟梁であり、清水建設の創業者です。
彦根藩や佐賀藩の御用達であり、幕府からも仕事を依頼されていた清水屋は、自腹を切ってホテル建設に乗り出していました。
しかし、その計画とは忠順が立案したものだったのです。立案のみならず、実行に移すために彼が集めた商人や職人たちの人脈も、近代化に欠かせぬものとなります。

1862年(文久2年)江戸築地鉄砲洲外国人居留区全景/wikipediaより引用
それだけではありません。
造船会社
ガス灯
郵便制度
電信
鉄道
語学学校
と、明治以降に広まる文明開花の要素は、幕末の忠順が既に青写真を描いていたものです。
むしろ明治新政府は、維新の最中に人材を殺害や放逐させてしまいました。維新に伴う内戦および人材の損失がない方が、日本の近代化は順調であったとしてもおかしくはありません。
残念ながら明治維新を経て忠順の功績とはならず、その断片を拾い集めた者たちが後を引き継いでいたのですね。
ともすれば薩長土肥の人物や渋沢栄一はじめ、明治政府に仕えた人物が発案・実行したものだと思われがちです。
しかし、日本の近代化は、幕臣による土台があったことは、これまでの大河ドラマはじめ幕末ものでも触れるべきであったとは思います。
『逆賊の幕臣』は、こうした過去の大河ドラマが広めた誤解を払拭する使命がある作品です。
幕府崩壊
小栗忠順は、ある関係に警戒を抱いていました。
諸藩とイギリスの結びつきです。
慶喜が【参預会議】を崩壊させ、薩摩藩を遠ざける一方、イギリスはこうした勢力に接近を図っていました。
それが慶応3年(1867年)、徳川昭武らが派遣されたパリ万博で露わになります。

徳川昭武(左から三番目)らの遣欧使節団・ベルギーで撮影/wikipediaより引用
そして小栗が懸念する事態は、あっという間に進んでゆきます。
【大政奉還】を経ての【鳥羽・伏見の戦い】における敗北。
そして将軍慶喜の江戸への帰還。
幕府はもろくも崩壊してゆきます。
忠順は全てを後から知りました。
たしかに【大政奉還】には【倒幕の密勅】を無効にする目論見はありました。それでも小栗忠順からすれば、土佐藩の案にうかうかと乗り、幕臣や会津・桑名を絶望させた愚行です。

『大政奉還図』邨田丹陵 筆/wikipediaより引用
もしも京都に小栗忠順がいれば、止めたであろうことは推察できます。
慶応4年(1868年)一月。
すごすごと江戸城に入った慶喜に、小栗は持ち前の鋭い舌鋒を叩きつけます。
「我々に叛逆の名に値する道理なぞありませぬ、否は、すべて相手にあります」
「なぜですか、速やかに正義の一戦に挑みましょう!」
「我々は、武士として正しい道をとるべきです!」
忠順は彼の策を述べました。
◆海軍力がある
これは勝海舟が慶喜にも指摘し、激怒していたほどでした。
榎本武揚は当時最高の海軍提督であり、軍艦装備も幕府海軍が圧倒的に上です。
英米もこれを察知しており、【長州征討】では海戦を避けるよう、幕府に強硬な圧力をかけておりました。
福沢諭吉は明治になってから、【長州征討】の時点で幕府が勝利を収めていればよかったと振り返っています。
確かに海軍を動員できれば、結果は逆転していても不思議はありません。
【戊辰戦争】でも幕府海軍は連戦不敗。
新政府側が英米の援助を受け、【箱館戦争】でようやくとどめを刺しています。海戦で幕府は負けていたとはいえない状況です。
◆陸軍力もある
京と大坂で敗北したとはいえ、まだ無傷かつ、元込め式最新鋭のシャスポー銃武装をした陸軍はおりました。
【戊辰戦争】に参戦した佐幕諸藩の軍勢も健在です。庄内藩は最新鋭の武装をしており、局地選では連戦連勝。秋田藩を追い詰めたほどでした。
フランスの支援を受け入れ、箱根から東に敵軍を誘い出す。そうすれば退路を断ち、勝つこともできる。そこで海軍を兵庫に回し、敵の背後を突く!
そのうち九州あたりで不満分子も挙兵するだろう。そうなれば全国の大名は徳川につく――そう具体性のある作戦を述べたのです。

西洋軍装の幕府陸軍歩兵隊/wikipediaより引用
しかし慶喜は、悪癖である臆病風に吹かれていました。
毒殺を恐れ、食事すら江戸の料理屋から出前をとる始末です。
14日、評定の席で、榎本武揚はその卑劣さに激怒しました。
「慶喜公は腰が抜けたのですか! いまさら恭順とは何事か!」
幕臣たちは怒り狂っていました。
卑劣にも逃げ、しかもその軍艦に妾のお芳まで乗せていた。徳川武士の棟梁がこれでは……そんな絶望感が煮えたぎっています。
たまらず立ち上がった慶喜の袖を忠順はつかみますが、慶喜はそれを振り払いました。
慶喜は勝海舟に全てを委ね、和宮を頼りにし、自分の首を保つことだけを考えていたのです。
そんな主君の意を受け、勝海舟が小栗忠順の前に立ち塞がります。
小栗忠順はポーハタン号、勝海舟は咸臨丸でアメリカに渡った幕臣同士の対立でした。
勝海舟も海軍力の優位性は理解しています。それでも勝てるかどうかわからない。そこを突いてきます。

勝海舟/wikipediaより引用
さらに勝海舟はこう主張します。
「ここで内戦なんてやらかしたら、植民地にされるかもしれん!」
これはある程度説得力があるためか、現在でも用いられる理論です。
しかし過ちであるといえます。
フランスにせよ、イギリスにせよ、日本は無理に戦って植民地にするよりも同盟国としての方がメリットがあるのです。
むしろ勝はイギリスのパークスと交渉し、慶喜助命に邁進しています。
何がなんでも慶喜のために奔走した勝は、嘘八百だろうと言わねばならかったことは確かでしょう。さらに勝は生き、小栗は命を落としました。どうしたって欠席裁判状態になってしまうわけです。
しかし、後世の人間までそんな口八丁手八丁に乗っかる理由はありません。
勝海舟の仕事は明確でした。
新門辰五郎ら火消しに声をかけ、焦土作戦案を立てる。同時に、相手の敵意をかきたてる会津藩や新選組は追い払う。

新門辰五郎/wikipediaより引用
主戦論者の小栗忠順も、追い払うべき存在になったのです。
袖を掴んだ翌15日、小栗は罷免を言い渡されました。
そして彼は知行地である上州権田村へ。妊娠中の妻・道子らと家族と、家臣たちを連れての退去でした。
罪なくして斬らる
そんな小栗忠順のもとへ、幕臣・渋沢成一郎がやってきました。
のちに彼は、彰義隊を率いて【上野戦争】を戦うことになります。

月岡芳年『魁題百撰相 森坊丸』/wikipediaより引用
忠順はそれに対し、こう返します。
開戦しようとは思った。しかしもう主君が恭順を決めたからには、名義が立たない。江戸は他人のものとなる。
会津や桑名と東北諸藩が戦うだろうが、数ヶ月後もすればおさまるだろう。
権力の争いが起き、内部分裂し、群雄割拠となるやもしれん。そうなったら、この地で檄を飛ばし戦おう。
そうならなければ、前朝の頑民(旧主以外に仕えない、弍臣にならない頑固な者)として生きようと思う……。
この見通しは、当たります。
江戸は東京として新政府のものとなる。明治の江戸っ子たちは「おはぎ(長州)とおいも(薩摩)のせいで江戸が無茶苦茶になった」と嘆きました。
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薩長は江戸っ子に嫌われていた? 瓦版に残された「おはぎとおいも」の評判とは
続きを見る
戊辰戦争は数ヶ月で終わります。
内部分裂はその通りです。群雄割拠とまではゆかずとも、藩閥政治による権力争いが生じ、士族の反乱が続発しました。
西南戦争まで動乱の世が続いたことを皆さんもご存知でしょう。
そして当時の忠順にしても、もう何もかもが遅いと思っていたのかもしれません。
忠順、そして幕府の勝機は去りました。
では、仮に、小栗忠順の策が実現していたらどうなっていたか?
ヒントは残されています。
西郷隆盛は忠順の策をみて「偉大なる権謀家」と評しています。
大村益次郎は忠順の策を知ると、これが実現していたら命がなかった漏らしたとされます。もしも実行されていたら我々は勝てなかった、と。

大村益次郎/国立国会図書館蔵
江藤新平も、ここまでの策を立てながら実行しなかったのは「小栗が間抜けだからね」と漏らしています。雄大な戦略がありながらも、説得できないことを「間抜け」としたのでしょう。
おそるべき大戦略が、忠順のうちには詰まっていたのです。
小栗一家は混乱した上州権田村に落ち着きます。
小栗は、打ちこわし騒動が起こる中でも大勢の民を説得し、騒ぎおさめました。その後は新居の建築を見守り、初めての妊娠となる道子の安産祈願をする中、静かに生きていたのです。
そんな権田村に、東山道軍が迫っていました。
彼らは小栗忠順に敵意を抱いていたことでしょう。
忠順は西郷隆盛の謀略を見抜いていました。西郷の息のかかった「薩摩御用盗」は、戦争を起こすために関東を荒らしまわり、強盗殺人放火を繰り返していました。
これに対して断固たる態度をとり、薩摩屋敷焼き討ちを主張した幕臣が小栗忠順だったのです。
この「薩摩御用盗」であった赤報隊を率いる相楽総三は、年貢半減令を喧伝したことから偽官軍として既に処刑されています。
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最後は西郷に見捨てられた相楽総三と赤報隊|時代に散った哀しき徒花なのか
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そんな油断ならぬ軍に、誇張ありきの噂が届きます。
幕臣随一の知恵者であり、徹底抗戦を主張していた小栗忠順が、権田村にいるらしい。
勘定奉行だったこともあるし、そんなことを考えていたのならば、たんまりと金もあるのだろう。そうだ、きっと「徳川埋蔵金」だ!
そう早合点し、暴徒二千人が小栗忠順を襲撃したことがあります。しかしそこは忠順のこと。鎧袖一触しました。
ここで終わればよかったものの、噂が一人歩きしたことが思わぬ事態を呼びます。
ちなみに小栗忠昌といえば、往年の民放が放映した番組のせいで、「徳川埋蔵金」と言い出す人も少なくありません。
彼の死を招いた噂に過ぎません。むしろ侮辱とすら思えるので、荒唐無稽な謬説の類として意識を改めていただければと思うばかりです。
かくして、東山道鎮撫総督府は、高崎、安中、吉井の三藩に小栗追補令を出します。
と、小栗は東善寺で彼らを出迎え、丁寧に対応しました。詮議のもととなる武器を引き渡し、捜索を受け入れたのです。
その旨を報告すると、軍監の二人、原保太郎(22歳、長州藩)と豊永貫一郎(18歳、土佐藩)が激怒します。
「どのような謝罪があったにせよ、奴は大罪人である! 早々に捕らえよ!」
豊永はあとで「先に斬った方が勝ちだと思っていた」と釈明しています。混乱の中での冤罪による死であることは確かです。
驚いた三藩の使者は助命を嘆願しますが、勢いに乗る軍監の怒りを藩に向けさせられるわけにもいきません。
やむなく小栗忠順の逮捕へ向かいました。
忠順は異変を察知し、妻子を会津と家臣を逃す手筈を整えていました。そのうえで権田村の人々に迷惑をかけるわけにもいかないと覚悟を決め、東善寺へ向かいます。
そこで抵抗することもなく、小栗忠順と家臣三名は捕らえれるのです。
閏4月6日、取調べもないまま、烏川水沼河原に引き出されました。
捕縛された忠順のもとに、食膳が運ばれてきます。彼は箸をつけません。
何か言い残すことはないかと問われ、「何もない」と答えたあと、忠順はこう言いました。
「すでに妻と母は逃した。どうか婦女子には寛大な対応を頼む」
そして彼らは河原へと連行されてゆきます。
家臣の大井磯十郎はたまらず、こう叫びました。
「一言の取り調べもないまま、お殿様がこのような最期を迎えるとは!」
忠順はおれにこう返します。
「磯十郎、おのおのがた、この期に及んで未練がましいことは申すな」
そう言い、後ろ手に縛られたところ、背後で刀を振り上げた原保太郎は、「斬りにくいじゃないか、もっと首を下げんさい」といい、棒で忠順の腰を突きました。
「無礼者!」
振り返り、激怒を顔に浮かべ、忠順はそう叫びました。その首に刀が振り下ろされ、一振り、二振り、三振り目でようやく胴と首は別れました。
このとき、主君のために叫んだ大井含め、家臣三名が斬られました。
なお、独断で小栗忠順を処刑した原は、長州閥の政治家として順調な出世を遂げ、昭和まで生き、89歳で大往生を遂げております。

原保太郎/wikipediaより引用
あとで「かわいそうなことをした」と振り返っておりますが、あまりに遅すぎる後悔ではありました。
かくして小栗忠順は、明治の世を見ることもなく、命を落としたのでした。
享年42。
しかしこのあと、養子・忠道と家人四名が取り調べもないまま斬られました。しかも西軍は小栗家の家財道具を没収し競売すると、軍資金とするのです。
小栗忠順の身重の妻ら家族は、険しい道を逃れながら会津へ。
道子は遺児・国子を産み、会津を離れ、江戸改め東京まで戻り明治を生きることとなります。この国子の婿養子となった小栗貞雄が家を継いでいます。
小栗忠順・最期の地に建てられた慰霊碑には、こうあります。
罪なくして此所に斬らる――。
『維新前後の政争と小栗上野介の死』の著者である蜷川新が、そう記したのでした。
小栗忠順が評価される新時代へ
明治時代を迎えると、小栗忠順の功績は、まるで塗り潰されたかのように消されてゆきました。
世直しを掲げ、倒幕を果たした志士たちのものとされていったのです。
これは何も明治だけでなく、現在もそうかもしれません。
明治以降から現在まで、忠順の功績をめぐる攻防は続いています。
世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がその一例です。
この世界遺産に含まれている萩の反射炉は水力が動力源です。しかし、小栗忠順ら幕府が手がけた「横須賀製鉄所」が含まれておりません。

関東大震災直後の横須賀海軍工廠(最初は横須賀製鉄所として設立)/wikipediaより引用
動力の切り替えこそがまさしく近代日本の産業革命への大きな一歩となったはずでしょう。それが含まれていないことに疑念を感じます。
横須賀製鉄所が含まれていないにも関わらず、松下村塾はここに入っています。
松下村塾は産業というよりも、思想を学ぶ教育私塾であり、産業革命には関係ありません。選定の意図に恣意的なものを感じさせます。
しかし、偉大な功績は、完全に消し去ることができるものでもありません。
前述の通り大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と語っています。
明治45年(1912年)、日露戦争終結後、東郷平八郎は自宅に小栗貞雄・又一父子を招きました。
日本海海戦に勝利できたのは造船所と製鉄所を建設した小栗忠順のおかげであると述べ、「仁義禮智信」という書を贈っています。
新政府側からもそうであれば、幕臣からすればより情熱的な顕彰がなされてきました。冤罪でありながら幕府に殉じた忠臣としての評価も加わっています。
そしてここにパワーゲームが見て取れます。
幕末を舞台とする大河ドラマを鑑賞する上でも重要ですので、ちょっと考えてみましょう。
福沢諭吉から『痩我慢の説』において筆誅を加えられ、開城をめぐり争った勝海舟の意見は興味深いものがあります。

若き日の福沢諭吉/wikipediaより引用
「徳川氏しか考えてなくて、大局達観がない」
「計略はあるし、確かに世界情勢にも明るい。三河武士らしい長所も短所もあるといえばそう。しかし度量が狭い」
小栗からは距離を置いています。この中には、渋沢栄一も加えてもよいかとは思います。
「幕府は商人を見下し、登用しなかったのだから、滅びて当然である」という旨のことを書き残しており、大河ドラマ『青天を衝け』でもそう繰り返されます。
しかし、これは言いすぎです。
田沼意次から、幕府は上層部は経済のことを考えていました。経済通幕臣代表格である小栗忠順のことを踏まえたらば、それは正確ではないとわかります。
小栗忠順は、渋沢栄一が尊王攘夷派であったことも見抜いていました。
倒幕を唱える水戸学由来の思想を身につけておいて、なぜ幕臣になったのか。パリに旅立つ前、そう渋沢にチクリと釘を刺しているのです。
渋沢は小栗の死を惜しみつつも、そこまで評価しているとも思えません。
勝にせよ、渋沢栄一にせよ、徳川慶喜の恭順を肯定的に見ている側と、そうでない側では姿勢や見解に相違が生じるのでしょう。
福地桜痴のような、新政府に物申したい幕臣出身文人にとっては、小栗は「幕末三傑」(岩瀬忠震・水野忠徳・小栗忠順)でした。
「維新三傑」のみでなく、幕臣にも近代日本を築き上げる基礎に貢献した人物がいたと顕彰を続けたのです。
蜷川新ら作家も、小栗の顕彰に寄与しました。
時代がくだると顕彰も変わってきます。テレビドラマがその有力な舞台となりました。
1999年に小栗忠順の大河ドラマ化を求める陳情がNHKにありました。
2002年12月には『その時歴史が動いた』で小栗忠順がとりあげられ、翌2003年には小栗忠順が主役の正月時代劇『またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介〜』が放映されています。
大河ドラマ化を陳情されながら、一年持たないとされた題材が他の歴史番組や正月時代劇で扱われるというのは、上杉鷹山、大友宗麟等でもあったことです。
小栗はそんな扱いでした。
2000年代以降、幕府側を扱った大河ドラマでは『新選組!』(2004年)、『八重の桜』(2013年)があります。
しかし、ここに2021年『青天を衝け』を加えるとすれば慎重になった方がよろしいでしょう。
渋沢栄一は、小栗が見抜いていたように「倒幕派でありながら幕臣になった」のですから、あえて分類するのであれば「隠れ倒幕派」です。

若き日の渋沢栄一/wikipediaより引用
そんな『青天を衝け』だからこそ、明治維新150年以上を経てもなお複雑な日本の幕末史への受け取り方が見えてきます。
渋沢栄一は前述のように倒幕に賛同しており、明治以降も長州閥と親しくしておりました。
そこには幕府の誇りを伝えたい思いはさしてありません。
そして『青天を衝け』作中での幕臣たちも、再評価されているとは言えないでしょう。
功績が見直されている岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、栗本鋤雲……彼らが実際に何をしたのかは詳しく語られず、主役の背景でしかありませんでした。
渋沢が活躍するのは明治以降であり、幕臣としての功績はさほど目立つとはいえません。そんな渋沢を際立たせるために割りを食ったように思えます。
日本近代化の父である小栗忠順についていえば、演じる役者が筋肉質であることからか「なんでも筋肉で解決しそう!」という感想がSNSで飛び交っておりました。
大河ドラマひとつでも、その反応をとってみても、歴史の需要があらわれていて興味深いものがありました。
小栗忠順という幕末史、いや日本近代史屈指の頭脳の持ち主でも、その功績が知られておらず、役者のイメージで語られてしまうこと。
むしろそんな秀才にするよりも、筋肉質なイケメンで演じてやることこそが再評価とする向きもあること。
そして何よりも、小栗忠順は大河主役になれないこと。
小栗忠順という人物は、本人の功績のみならず、需要の面においても興味深いことは確かです。
私たちが日本にいる限り、何かしら彼の残した業績の恩恵を日々受けてはいることでしょう。
それなのに彼の功績は広まっていかない――そんな悲哀を考えずにはいられません。
しかし、興味深いことにNHKでは『青天を衝け』放映後の2022年10月、NHKスペシャル『新・幕末史 グローバル・ヒストリー』を放映しました。
この番組の再現ドラマでは『青天を衝け』と同じく武田真治さんが演じています。前半の主役は実質的に小栗忠順であり、その功績と悲運が簡潔に描かれていました。
2023年秋には『大奥』シーズン2が放映されました。
『青天を衝け』では好意的に描かれた徳川慶喜で、関連番組でもそれにならいました。
しかし『大奥』では、原作の時点で「(国の民や家臣を思う)心が無い」と評されている人物です。
男女逆転設定ながら、史実により近づけたアプローチで描かれたのです。小栗忠順は出番がなかったものの、『青天を衝け』で誤解を招いた慶喜像を修正しました。
2025年大河ドラマ『べらぼう』は、江戸を舞台とした作品でした。
この作品は【田沼政治】が大きく取り上げられています。幕府が外交に無頓着ではなかったこと。ロシアに対して対策を取っていたことを知る大きな機会となる作品といえます。
主人公である蔦屋重三郎の携わる江戸の出版業も、幕末において大きな役割を果たしています。
この作品は、2027年に向けて大きな導線となります。また番組とタイアップして放映されたEテレ『3ヶ月でマスターする江戸時代』は、これまでの江戸時代に対する誤解を解く両親的な番組で、2027年大河ドラマの予習としても秀逸でした。
2027年『逆賊の幕臣』は、日本人の歴史意識を大きく変える一歩となることでしょう。なぜ、これほどの大人物が隠されてきたのか? そう問いかける作品となることを願ってやみません。
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【参考文献】
村上泰賢『小栗上野介 (平凡社新書)』(→amazon)
星亮一『最後の幕臣 小栗上野介』(→amazon)
マイケル・ワート『明治維新の敗者たち: 小栗上野介をめぐる記憶と歴史』(→amazon)
NHKスペシャル取材班『新・幕末史』(→amazon)
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