万延元年(1860年)8月15日は徳川斉昭の命日です。
大河ドラマ『青天を衝け』で竹中直人さん演じる姿を覚えていらっしゃる方も多いでしょうか。
一般的には、最後の将軍・徳川慶喜の父として有名な方かもしれません。
しかし、他の言動にはツッコミどころのかなりある人物で、幕閣をかき乱して、大奥からも相当嫌われたり、とにかくキャラの際立つ人です。

徳川斉昭/wikipediaより引用
徳川御三家でありながら、宗家をピンチに追い込んだ、その生涯を振り返ってみましょう。
当初は部屋住みとして埋もれていくハズだった
徳川斉昭は寛政十二年(1800年)3月11日、第七代水戸藩主・徳川治紀の三男として生まれました。
この生まれ順ですから、当初は藩主の座を継ぐ予定もなく、部屋住み時代を長く過ごします。
部屋住みとは、家の跡継ぎに何かあった時のため実家に残る人で、基本的に冷遇(同時代では井伊直弼もそうでした)。
ただし、小さい頃から頭が良いことはわかっていたので、父の治紀としては「次男を養子に出すのはいいとして、三男は家に残しておこう」と考えていたのかもしれません。
まぁ、藩主であっても「謎の急死(という名の暗殺)」はままある時代ですので。

水戸城薬医門
そしてトーチャンの予感を裏付けるかのように、八代藩主で斉昭の長兄である徳川斉脩(なりのぶ)は、2つの問題を作ってしまいました。
ひとつは、正室と仲が良いにもかかわらず、後継ぎに恵まれなかったこと。
もうひとつは、その問題をはっきり解決しないまま斉脩本人が亡くなってしまったことです。
斉脩の正室が十一代将軍・徳川家斉の娘だったため、「ワシの子供を養子にやろうか?」といわれたこともあったのですが、いざというとき将軍を止めなければならない御三家が、宗家の人を養子にもらっては本末転倒です。
特に水戸家は勤皇をモットーとしていましたので、あまりにも宗家寄りになると、朝廷からの信頼が落ちしてしまいます。
しかも、家臣の間でも意見が割れてしまったため、お家騒動ギリギリのてんやわんやになってしまいました。
結局、「斉脩が”斉昭を養子にして跡を継がせる”という遺書を残していた」ことで、めでたく斉昭が水戸藩を継ぐことになったのですけれども……その遺書は本当に斉脩の筆跡だったのかどうか、とかはツッコんじゃいけませんね。ええ。
弘道館を作り「学問は一生行うもの」
そんなわけで部屋住みから一転して藩主となった徳川斉昭は藩政に取り組みます。
一番有名なのは、弘道館という藩校を作って、市民からも広く人材を求めたことでしょうか。
水戸学の他に自然科学や武道など、広く学ばれていたようです。
「学問は一生行うもの」として、「卒業」という制度がなかったことも大きな特徴です。近年も「生涯学習」という単語が出てきましたが、弘道館では百年以上前からこの概念があったことになります。

弘道館と徳川斉昭像
また、斉昭は開国には反対でしたが、西洋の文物を取り入れることには積極的でした。
西洋式の兵器を国産化しようと試みたり、国防のための蝦夷地開拓・大きな船の建造許可を幕府に求めるなど、水戸藩や幕府だけでなく、国を守ろうといろいろやってもいます。
ただし、勢い余ってお寺の鐘や仏像を大砲の材料にしてしまったり、無理やり神社を作らせたり、軍事訓練「追鳥狩」を実施していたせいで、幕府から「お前隠居&謹慎な」と言いつけられてしまいました。
この辺は『青天を衝け』でも取り上げられていましたね。
水戸藩は御三家の中で唯一江戸に藩主が定住するという特徴を持っていたのですけれども、ただでさえ領地も江戸の目と鼻の先なのに、こんなド派手な動きをしていたら目をつけられますよね。
なぜ誰も諫言しなかったんや。
異人と国交なんてトンデモナイ! 焼き払え!
徳川斉昭は身分の低い藩士にも人気があったため、復権を願う人も多く、謹慎は数年で解除されています。
斉昭を支持した藤田東湖や武田耕雲斎らが『青天を衝け』にも登場していましたね。
それからさらに四年ほど経ってから、斉昭がまた政治の表舞台に大きく物申すタイミングがやって来ました。
黒船来航です。

ペリー来航/wikipediaより引用
斉昭は半ば脅迫じみた交渉をしてくるペリーに対し、「異人と国交を持つなどとんでもない! 焼き払うべきです!!」と主張し、実際に大量の大砲と軍艦を作って幕府に献上しています。
当然のことながら、斉昭は開国を進めようとする幕閣と激しく対立しました。
この頃、開国派の代表格は井伊直弼です。
さらに、将軍継嗣問題でも斉昭と直弼は対立しました。

井伊直弼/wikipediaより引用
当時の将軍は十三代・徳川家定。
十二代・徳川家慶の子供の中で唯一成人した人で、薩摩から篤姫を継室に迎える将軍ですが、家定も病弱だったため子供ができるかどうか危ぶまれており、早いうちから「十四代将軍をどうするか」という問題が起きていました。
実は、家慶は「病弱な家定に将軍という重責を負わせるよりは、健康な他の者に継がせるべきではないだろうか」と言っていたこともあります。
そのとき候補に持ち上がったのが、斉昭の息子・徳川慶喜でした。
直弼らは、慶喜と張り合える血筋の家茂を担ぎあげる
慶喜は既に御三卿の一つ・一橋徳川家の養子に入っていました。
そもそも御三卿は「宗家もしくは御三家に跡継ぎがいなかったときに養子に行くため」に作られた家なので、再度養子に行くことには問題がなかったのです。

徳川慶喜/wikipediaより引用
しかし、家慶の代では「直系のお世継ぎがいらっしゃるのに、わざわざ遠い血筋の方を将軍にするのはおかしいではありませんか」と反対されたため、家定が将軍になったのでした。
徳川斉昭からすれば「ワシの息子のほうがデキもいいし健康なのに!」(※イメージです)と、モンスターペアレント的なことを考えたくなるのも無理のない話です。
ここで慶喜が将軍になってしまえば、斉昭が大御所のような権勢を持つことは火を見るより明らかでした。
直弼らからすれば絶対に回避したいところ。そんなわけで、直弼らは慶喜と張り合えるだけの血筋の人物を担ぎ上げます。それが……。
それが、最終的に十四代将軍になった徳川家茂です。
家茂は家定の従弟でしたので、家康まで血筋を遡らなければ宗家とのつながりがない慶喜よりもはるかに血筋が近く、理由付けとしては十分でした。
さらにここでは、大奥の動きも大きく影響します。
というのも、斉昭は大奥の女性たちに非常に嫌われており、彼女らが影響を及ぼす幕閣や大名たちにも自然と嫌われたといわれているからです。
原因は、主に斉昭の女性問題でした。
女好きの斉昭 禁忌に触れ大奥に嫌われる
最たるものは、徳川斉昭の兄嫁付きの女中・唐橋という女性に手を付けたことです。
唐橋は、大奥では「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」というお偉いさん。
上臈御年寄は生涯に異性関係を持たない決まりで、唐橋はかつて家斉からの求愛も謝辞したほど、厳格に掟を守っていました。
大奥から出た後はその決まりに従う必要はなかったはずですが、唐橋は律儀に貞操を守り続けていたのです。
そのプライドを斉昭が踏みにじり、むりやり関係を結んだのですから、大奥からのウケが悪くなるのも無理はありません。

『千代田之大奥 歌合』画:楊洲周延/wikipediaより引用
斉昭は正室・吉子女王との間で多くの子供に恵まれているのに女好きが過ぎました。ほぼ毎年子供が生まれているくらいですから、余程ですよね。
ちなみに、末っ子の二十二男&十五女は亡くなる二年前、58歳のときに生まれています。
しかも同じ年に生まれているということは「同時期に複数の女性に手を付けるのは、斉昭にとって当たり前だった」&「跡継ぎの心配がなくなっても、子作りに熱心だった」ということになります。
つまり、正室との関係が悪いことによる腹いせ混じりの漁色ではなく、単純に夜も元気すぎたからということになるわけで……そりゃ、大奥からすれば好意は持てません。
しかも自分は、次々に子供を作る=金を使うくせに、大奥には「今は幕府が苦しい時なので節約しろ」と言ってくるのですから、ダブルスタンダードにも程がありました。
自ら敵を増やしているも同然です。
安政の大獄で永蟄居 桜田門外の変の年に死亡
篤姫の義父・島津斉彬など、他にも慶喜を推す大名は複数いました。
しかし、業を煮やした徳川斉昭らが直弼に直談判を図ったことで、かえって追いつめられてしまいました。
結局、十四代将軍の座は家茂のものになります。

徳川家茂/wikipediaより引用
さらに、孝明天皇から水戸藩に直接「幕府を何とかせい」という命令【戊午の密勅】が下ったことで、直弼は「もう斉昭公を放っておけない!」と考え、【安政の大獄】で攘夷派とともに慶喜推進派や水戸藩へ処分を下しました。
学校の授業で習う安政の大獄は吉田松陰らの印象が強く、思想的な弾圧とされたりもしますが、それはあくまで誤解であって、本筋は井伊直弼らによる政争の結果だったんですね。
首魁である斉昭は水戸での永蟄居を命じられ、その後は政治に関わることができないまま、【桜田門外の変】と同じ年に心筋梗塞で世を去っています。
タイミングがデキすぎているので、「桜田門外の変の犯人は水戸の浪士(と薩摩藩士)」であることから「斉昭は病死ではなく、彦根藩士に復讐されたんだ」なんて噂も流れたとか。
何というか……もうちょっと隠すべきところを隠せば、もう少し敵は減ったんじゃないかなという気がします。
江戸幕府を崩壊させた要因だったとも指摘されますが、否定しきれないのでは?とも思ってしまいます。
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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
徳川斉昭/Wikipedia




