主人公の渋沢栄一が徳川慶喜に仕え、その慶喜が水戸藩主・徳川斉昭の実子であることから、何かにつけ関わりを持っていたわけですが、ドラマではほとんど解説されないことがありました。
水戸学です。
竹中直人さん演じる斉昭が度々「攘夷」を唱えていましたように、かの藩では強烈な思想が渦巻いていました。
その中心にあった水戸学とは一体なんなのか。
考察してみましょう。
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心即理――陽明学の命題
『青天を衝け』放映に合わせて、渋沢栄一の著作である『論語と算盤』を扱うニュースや書籍が増えました。
反中国感情が高まる中、儒教を貶すベストセラーがある状況で、近年では異例だったと思えます。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』における麒麟も、実は儒教の理想が反映されたものです。
日本は儒教の教えを重んじてきた国家であり、その点では中国や朝鮮半島と同じであることを忘れてはならないでしょう。
しかし注意したい点もあります。
『青天を衝け』では掲げられていた「心即理」という言葉。
陽明学の命題であり、その意図は次の通りです。
人は生まれつき、性と理が一体となった心がある――。
これは朱子学の「性即理」に対するものです。
「性即理」とは
情に動かされずに性に沿って生き、理を求めていく――。
ことを指します。
つまり陽明学では、「人は生まれながらに誰でも聖人となりうる心がある」とみなしており、劇中でその「心即理」を示すことにより、渋沢栄一とその同志たちが陽明学を学んでいたとわかりました。
陽明学と幕末維新には、大きな関わりがあります。
日本史上、こと幕末から明治にかけては、陽明学を学んだ人物が多い。
幕府の政治に義憤を掲げた大塩平八郎も、陽明学を学んでいました。
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そのせいか、
「陽明学こそ武士道の基礎!」
「陽明学は維新につながる革命的思想だ!」
「陽明学で明治維新を成し遂げたのであれば、むしろ日本人こそよく理解している、実質的に日本の根本だ!」
と言い切る書籍等もありますが、そう単純でもありません。
薩摩藩において維新への道筋をたどった精忠組は『近思録』を読む読書サークルが前身でした。
この『近思録』は朱子学に分類されますが、日本への伝播は遅い部類に入ります。
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たとえ儒教教典であっても、各地の藩校において採用されていなければ、“異端”とみなされます。
内容が特に過激でなくとも、志ある者たちが集まっているということは、治める側にとっては不穏当とみなすことはしばしばありました。
古今東西、結社が官憲によって取り締まられる背景には、そうした考え方があったのです。
そこを踏まえて【陽明学=革新的・明治維新】と結びつけることは単純化しすぎであることは踏まえておいたほうがよいでしょう。
維新を担った側にも、朱子学に近い思想を持つ人物は当然のことながらおります。
神儒一致――神道を孔子の教えで広める
中華街には中国の宗教が反映されており、関帝廟、媽祖廟、そして孔子廟があります。
そうした場所のみならず、日本全国には孔子像が祀られている場所があります。
それは各地の藩校です。
東湖も教えた水戸藩・弘道館の案内文を見てみましょう。
孔子廟
弘道館建学の精神である「神儒一致」によって建てられ、儒学の祖である孔子を祀っています。
写真は門の部分で孔子廟はその中ですが、通常非公開。
水戸学の祖・徳川光圀に多大な影響を与えたのは、明から亡命してきた儒学者・朱舜水。
水戸学と儒学は切っても切り離せない関係でした。
この案内にもある通り、朱舜水を招聘してきたことは水戸藩の誇りでした。
日本で最初にラーメンを食べた人物は水戸光圀であるとされることもあります。
御三家でありながら、他家と比べると扱いが悪い。それなのに、格式は保たねばならない。
石高を上方修正して申請し、藩士が困窮しながらも、誇りを掲げた水戸藩。
彼らの誇りの源流には、朱舜水由来の儒教、そして朝廷とのつながりがありました。
水戸藩にとって誇りとなる、天皇を祀る神道と、儒教を一致させたら、さらなる高みになるのではなかろうか?
そういう考えが生まれてもおかしくはありません。
そんな発想でよいのかと、現代人からすれば混乱するかもしれませんが、これは史実です。
神道と儒教が一致する――しかし、どのようにして?
明快と言えばそうなのです。
中国では、儒教・仏教・道教が並列して信仰されてきました。
孔子の教えを読み、仏像に手を合わせ、道士に運勢を占ってもらう。そんな生活様式が根付いていたのです。
わかりやすい例をあげましょう。
『三国志演義』は黄巾の乱から幕を開けます。
あの乱を率いていた張角は、道教の祖の一人とされています。
『三国志』もので妖術を使う張角を見ていると、なんだか危険人物に思えますが、彼の思想は中国に定着したのです。
時代を経て、ブラッシュアップされていった『三国志演義』では、諸葛亮が「赤壁の戦い」において、道教の術を用いて東南の風を呼びます。
道教って危険ではないだろうか?
史実の諸葛亮は道教を信奉していたとは思えません。
それでも時代が降り、『三国志演義』が流通する時代には道教は根付いていたことがわかります。
他の人物も、こんな紹介がされるのです。
「この人は、儒教・仏教・道教の教えを守る聡明さがありました。」
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このように、東洋においては複数の宗教を信じ、その教えを混合してもタブーではありません。
カトリックとプロテスタントを混同することはタブーですが、東洋の宗教はそこまで厳密でもありません。
神道と儒教のハイブリッドは、かくして成立します。
そう言われたところで、疑念は生じると思います。
どう融合したのか?
ここで水戸光圀のことを思い出しましょう。彼は日本で初めてラーメンを食べたとされています。
ラーメンの歴史を考えてみましょう。
もはやラーメンは国民食と言えます。かつてのラーメン丼は中国風の雷紋が定番でした。
それが今はむしろ無地が増えています。
和風を掲げ、店員が作務衣を着用する店、単語そのものを「らあめん」とひらがなにする表記も増えました。
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くだけた例えではありますが、神道と儒教もこうしたものといえます。
用語、思想、形式……神道、特に水戸学由来、藤田東湖の思想の影響下にあるものは、儒教の影響があるのです。
その東湖自身、無理があるとは思っていたのか、理屈はこしらえておりました。
日本は神の国。それなのに、どうして漢(中国)の孔子を祀るのか?
神は全ての頂点にあり、神こそ道である
↓
孔子の教えはそんな道を広げるものだ
↓
道をいよいよ盛んにするためにも孔子を崇拝しよう!
なかなか苦しい三段論法ではあります。
そしてそこから排除した仏教には、厳しい態度で臨むのです。
明治における悪名高い廃仏毀釈は水戸藩が先んじていました。
水戸藩の仏教寺院がどれほど被害を受けたのか?
これが実のところ、幕末の騒乱もあってはっきりとしておりません。
斉昭と東湖が掲げた思想が論理的に苦しく、そしてどれほど破滅的であったか。そのことを覚えておきましょう。
尊王攘夷――維新と東洋盟主への道
幕末となるとさらに別の要素が加わります。
西欧諸国での航海技術の発展、捕鯨船の航行。海岸線の長い水戸藩は、異国船の脅威を感じるようになります。
ここで水戸藩の特徴を考えてゆきましょう。
同じく海に接しており、異国船の脅威を感じていたといえば薩摩藩です。
文政7年(1824年)には宝島にイギリス船が上陸し、戦闘が発生しています。そのことに対して反発や脅威論は盛り上がりますが、それだけでないのが薩摩藩です。
薩摩に暗君なし――そう称されます。
島津斉彬は海外貿易の可能性を見据え、集成館事業を開始。輸出に適した薩摩切子や芋焼酎を開発。西洋由来の技術を高めます。
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薩摩切子で芋焼酎を楽しめるのは斉彬が遺した集成館事業のお陰です
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長州藩も貿易の重要性や時代の変化に自覚的です。
長井雅楽の『航海遠略策』は先進的な開国策でした。なまじ、そのために長井は暗殺されたと言えなくもありませんが。
こうした藩と比較すると、水戸藩は理論先行、机上の空論めいたものがありました。
『青天を衝け』では玉木宏さんが演じた高島秋帆を高評価した、そんな先見の明もあります。
しかし、水戸はそれだけではありません。狡猾な悪用もしています。
外国船の脅威を、斉昭と東湖らは仏教弾圧の格好の理由にしました。仏像や梵鐘を潰し、それで大砲を作らせ、夷狄に備えると掲げました。
こうして作られた大砲は、攘夷ではなく幕末の内乱で用いられました。
ゴロゴロと引っ張られてきた大砲から、砲弾が飛び出します。
しかしそのままポトリと落ち、何の役にも立たなかったそうです。天狗党が山中を苦労して引きずっていった大砲とは、そんな代物でした。
いざ実務に用いるとなると役に立たない。しかし、目の前の敵を叩き潰す内部抗争には強い。そういう悪しき傾向が水戸にはありました。
阿片戦争で清が大敗したことで、状況は変わります。
ここから近代日中関係は複雑化してゆくのです。
前述の通り、水戸藩は明から亡命してきた朱舜水を庇護しました。
明から清への王朝交代は、漢民族から満洲族に支配者が変わることでもありました。
このことは東アジアに衝撃をもたらしたのです。
朝鮮、そして日本は、中華思想の頂点に立つ漢民族が敗北したことに、困惑してしまったのです。
それと同時に「我が国こそ、漢民族の流れを汲むのではないか?」という思想も生まれてきます。
こうした思想が民衆にまであったことを示す作品が『国性爺合戦』です。
明人が父、日本人が母であり、台湾から明朝復興を目指す鄭成功は、日本人の需要に合致する英雄像でした。
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そうした清軽視感情を担ったのは、日本の儒学者でした。
こうした思想面と、阿片戦争による敗北という現実が組み合わさって、水戸学はねじれた傾向を示してゆきます。
清すらできないことをする日本こそ、アジアの盟主となるのだ――。
東湖は南宋の忠臣・文天祥を崇拝し『正気之歌』を愛好していました。
当人作の五言律詞『文天祥正気の歌に和す』は、維新志士にとって必須のものとなってゆきます。
明治以降の日本の外交政策は、吉田松陰の構想を実現していったとされます。
その根源を深く辿ってゆくと、水戸学があると思えてきます。
明清交代、阿片戦争を目にし、「神儒一致」を掲げるうちに、自分たちこそ東洋の道徳を実現する者たちだと思うようになる。その道すじは見えてきます。
日本には【単一民族国家論】があります。
しかし、これはあくまで第二次世界大戦後の認識であることにご注意ください。
むしろ明治から第二次世界大戦までは、日本は東洋のさまざまな民族と混じり合い、その頂点に立つ盟主であるという認識がありました。
東洋と大きく世界を見るのであれば、漢詩を詠んだっておかしくない。孔子を崇拝したって、一向に構わない。だって東洋の盟主だから。そんな思想体系があったことを忘れてはなりません。
明治になると、日本は清から留学生を多数受け入れます。
彼らの中には滅満興漢をスローガンに掲げる者も現れました。満洲族の清を倒し、漢民族の国家を樹立することを目指したのです。
女性革命家・秋瑾(しゅうきん)は、和服を着て写真を残しました。満洲族の衣装よりも、和服の方がむしろ漢民族の衣装に近いと考えたのです。
この日中関係は、日本が清朝のラストエンペラー・溥儀を傀儡とし、満洲国を建設することで終わりを迎えます。
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近代以降、東アジアの国々は儒教とどう向き合うか模索しました。
朝鮮半島では儒教を残し、近代化する道を模索します。
中国は紆余曲折の末、共産主義を掲げた国家が生まれます。
そして批林批孔運動や文化大革命が起こったわけですが、あれは過ちと反省されています。現在、儒教は否定されるどころか、アイデンティティとして重視されています。
日本はどうでしょうか?
福沢諭吉は「儒教から学べることなんてないから捨て去るべきだ」と全面否定し、【脱亜入欧】を掲げました。
一方で渋沢栄一のように儒教を大事にする考え方もある。
『論語と算盤』はまさしくそうした考えが反映されています。
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