大塩平八郎の乱

大塩平八郎/wikipediaより引用

江戸時代

大塩平八郎の乱は裏切り者が出て慌てて蜂起|半日で鎮圧も大坂は火の海

2025/02/18

天保8年(1837年)2月19日、大塩平八郎の乱が起き、わずか半日で鎮圧されました。

誰もが歴史の授業で習うこの騒動。

元役人が庶民のために立ち上がった――という印象が強いかもしれませんが、実際は大坂の街が1/5も焼けてしまうというかなり物騒な展開になっています。

では、そもそもこの乱が起きたキッカケはなんぞや?

というと江戸四大飢饉のひとつ【天保の大飢饉】です。

大塩平八郎の肖像画

大塩平八郎/wikipediaより引用

今回は本題の前に、江戸時代の大飢饉とそれに呼応する出来事からマトメておきましょう。

 


江戸四大飢饉と対応する事件まとめ

主に冷害や虫害などにより、度々発生した江戸時代の飢饉。

そのうち以下の【江戸四大飢饉】は、何かしらの時代が変わるキッカケとなっています。

試験に出る時はセットで語られたりしそうですので、学生の読者さんがいらっしゃいまいしたら、一緒に覚えておくと効率よいかもしれません。

一つずつ簡単に見ておきましょう。

 

1 寛永の大飢饉(1640年~1643年)

三代将軍・徳川家光の時代

→武士が貧乏になっていく

 

2 享保の大飢饉(1731年~1733年)

八代将軍・徳川吉宗の時代

→サツマイモが救荒作物として奨励される

 

3 天明の大飢饉(1782年~1788年)

十代将軍・徳川家治の時代

→四大の中でも史上最大の被害で、御所千度参り(京都御所の周囲に人々が群がる騒動)も起きた

 

4 天保の大飢饉(1835年~1839年)

十一代将軍・徳川家斉~十二代将軍・徳川家慶の時代

→大塩平八郎の乱 ※今日ここ

 

ということで、本題へ進みます。

 


景気悪いときにさらに消費減らすって?

江戸時代は上記のように飢饉が頻発していたわけで、これに対して幕府の対策は基本的に「質素倹約!」の一点張り。

米がダメになったときでも採れる作物はなかなか広まっていません。

確かにサツマイモ栽培は一定の支持がありましたが、全国で餓死者を防ぐほどの割合ではありませんでした。

確かに、毎日、焼き芋とかふかし芋とか大学いもだと、ちょっとキツイですもんね。

まだ科学が発達していない時代というのも影響しておりました。

天明の大飢饉のときは「田沼意次が悪政をしたから」という迷信が信じられていたくらいですから、「もう悪いヤツはいないんだから飢饉は起こらない!」と考えられていたのかもしれません。それにしては反省しなさ過ぎですが……。

田沼意次/wikipediaより引用

天明と天保の飢饉の間は50年も開いていません。

もしかすると両方経験した、運悪く生命力の強い御仁もいたかもしれませんね。

 

建物を壊しても人には危害を加えない

こうした幕府のダメっぷりに対し、庶民ができることといえば二つに一つ。

お上のいうことを聞いて耐え忍ぶか。

裕福な商人を襲う「打ちこわし」をするか。

餓死するぐらいなら、実力行使に出てもおかしくなく、天保の大飢饉の際にも、当然、打ちこわしは頻発しました。

この頃は米の【買占め・専売】によって荒稼ぎをした強欲商人もたくさんいたので、襲われてしまうのもある意味自業自得なんですけどね。

ただし、あくまで抗議行動の一つなので、「建物を壊しても人には危害を加えない」という最低限のルールが定められており、放火もご法度でした。

もし打ちこわしの度に放火までしていたら、江戸だけでなく京都や大阪でも、もっと火災が増えていたでしょう。

しかし、ルールがあるとはいえ庶民の我慢にも限界があります。

天保の大飢饉の際は特に【天下の台所・大坂】での被害が大きく、毎日、数百人もの餓死者が出る有り様でした。

天保の大飢饉で小屋に収容され保護を受ける罹災民/wikipediaより引用

しかも理由の一つが「大坂より江戸が大事なんで、この米は江戸に送りますね。皆さん頑張ってください^^」というお役所仕事のせいだったというのですから始末に負えません。

「だめだこいつは、早く何とかせねば」

そう考えたのが、元役人の大塩平八郎でした。

 


「地元が困ってるやろ」「決まりなんでぇ」「プチッ!」

大塩平八郎は現役時代からクソ真面目な役人として知られておりました。

引退後は自力で陽明学を学び、私塾を開くなど、徹頭徹尾お堅い人物であります。

さすがにいきなり突撃するワケではなく、平八郎は現役時代のツテを辿り

「地元が困ってんのに江戸を優先すんのはおかしな話とちゃうか」

と意見を申し述べました。

それに対して返ってきたのは「江戸に送ることになってるんで」というテンプレ通りの返答。

ついに彼とその門下の人々はブチキレます。

大塩平八郎/wikipediaより引用

平八郎は、まず自らの蔵書を売り払って資金を作り、貧しい人々の救済を始めました。

しかし、とても追いつかず、やむなく武装蜂起も辞さぬ――という方針に変えていきます。

決起の前には家族が罪をかぶることのないよう離縁、家財を売却することによって武器防具の類を調えたそうです。

まさに決死の覚悟ですね。

しかし……。

 

大砲をぶっ放し天満一帯を火の海に

こうした緊迫した状況に耐えられなかったのか。それとも最初からスパイが入り込んでいたのか。

計画は実行直前に当局へバレてしまいます。

決起の前日、メンバーの平山助次郎・吉見九郎右衛門が奉行所に密告したのです。

大塩平八郎たちは当初の計画を変更せざるを得なくなり、早速、行動にでました。それが天保8年(1837年)2月19日のことです。

平八郎たちはなかなか過激な行動に出ます。

まず自宅に火をつけると、蜂起を知った近隣の農民たちが集い100名ほどのメンバーに。

彼らは「救民」の旗を掲げ、大砲をぶっ放し、焙烙玉を投げたり、天満一帯を火の海にしました。

大塩平八郎の行軍を記した『出潮引汐奸賊聞集記(でしおひきしおかんぞくもんしゅうき)』/wikipediaより引用

朝の8時ころに始まったこの乱は、騒ぎを知ったところに野次馬も加わり、300人ほどの集団に膨れ上がります。

彼らは鴻池屋を始めとした豪商にも襲いかかり、金品や米などを路上にばら撒きながら暴れ続けるのでした。しかし……。

所詮は町人や農民の烏合の衆です。

奉行所から幕府の鎮圧軍が出てくると、あっという間に壊滅。

半日程度で鎮圧され、平八郎も40日ほど逃げ回ったあとの3月27日、自決に至りました。

養子と共に火薬を使っての爆死を選んだ平八郎は、死後、顔の判別もつかないほどだったそうです。

爆死というと戦国時代の松永 久秀が有名ですが(実際はやってない)、大塩平八郎親子も同じ死に方をしていたとは意外ですね。経緯は全然違いますが。

 

生真面目を通り越して厳格過ぎたのかも

乱の影響は決して小さくありませんでした。

3,389軒もの家屋が焼失。

実に市街地の1/5が焼けており、世帯数で言うと12,578もの家族が影響を受けています。

幕末期の争乱期が始まるまでには、まだ若干の時間がありますが、大塩平八郎の影響を受けたモノたちが「大塩門弟」や「大塩残党」といった旗を掲げ、各地で複数の騒動を起こすのです。

もう米を基本とした社会システム(幕藩体制)に限界が来ていたんですよね。

事実、この一件が幕府の権威を大きく失墜させたとも見られています。

哀しいのは、生真面目を通り越え、厳格過ぎだとされる平八郎の性格でしょう。

・学者仲間の頼山陽からは「君は短気すぎるから刀を持ち歩くのは止めたほうがいい」(意訳)と忠告された

・朝の五時から講義を始めていた

・しかも講義のときは門下生が目を合わせられないほど怖かった

等々、良く言えばマジメ、悪く言えば非常に融通のきかない特徴を兼ね備えていたのです。

大坂町奉行がもう少し柔軟に対応していてくれてたら、こんなことにならなかったのでは?と、無念な思いが湧いてきてしまいます。


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【参考】
国史大辞典
大塩平八郎/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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